京都にちょっと詳しくなる案内板 (伏見区) |
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伏見稲荷(伏見区) 宇迦之御魂大神を主神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神をまつる。全国四万におよぶ稲荷神社の総本宮である。和銅四年(711)秦氏が稲荷山上に鎮祭し、弘仁七年(816)現地に社殿が移されたという。仁寿二年(852)祈雨奉幣以来朝廷からたびたび勅使が遣わされ、五穀豊穣、家業繁栄の神として古くより庶民の深い信仰を集め、今日、稲荷山には信者から寄進された朱の鳥居が林立していて壮観である。社家には代々学者が多く、江戸中期の荷田春満は国学者として有名で、その旧宅が保存されている。社殿(重要文化財)は応仁の乱で焼失した後明応八年(1499)に再建され、最近も一部追加建築された。権殿(若宮)は本殿造営の時、神璽を一時移しまつる御殿で天正十七年(1589)の建築、後水尾天皇の仙洞御所にあった御茶屋(重要文化財)も当社に移建されている。例祭は五月三日。一月五日の大山祭、二月の初午祭、十一月の火焚祭(鞴祭)も多くの参詣者でにぎわう。 目次のページへ |
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石峯寺(伏見区) 百丈山と号し、黄檗宗に属する。宝永年間(1704〜11)万福寺の千呆和尚の創建と伝え、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の本堂は昭和六十年に再建されたものである。本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは、江戸時代の画家伊藤若冲が当寺に庵をむすび、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯をあらわしている。なお、境内には若冲の墓及び筆塚が建てられている。また、門前より少し西へ行ったところにある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶碗子の水」と呼ばれて茶の湯に受好されている。 目次のページへ |
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宝塔寺(伏見区) 深草山と号し、日蓮宗に属する。寺伝によれば、藤原基経が発願し、昌泰二年(899)藤原時平が大成した極楽寺が起こりと伝え、当初真言宗の寺であったが徳治二年(1307)住持良桂が日蓮の法孫日像に帰依して、日蓮宗に改められた。また、日像が京都に通じる七つの街道の入り口に建てた法華題目の石塔婆の一つを、当時の日像廟所に奉祀したことに恩み、寺名を宝塔寺と改称した。本堂は、慶長十三年(1608)の創建で、堂内には十界蔓茶羅・釈迦如来立像及び日蓮・日像の像を安置している。行基葺きの多宝塔は永享十一年(1439)以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(総門)とともに、国の重要文化財に指定されている。本堂背後の七面山には、寛文六年(1666)に勧請された七福吉祥の七面大明神を祀る七面宮があり、そこからの眺めも素晴らしい。 目次のページへ |
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城南宮(伏見区) 社伝によれば、神功皇后のいくさ船の上に立てた御旗を八十矛神らの神霊と合わせまつったのが始めと伝えられ、古い由緒を伝えられる神社である。桓武天皇の平安遷都にさいし、国常立神らを合祀して平安京の守護神とされ、弘仁七年(816)に官社となった。応徳三年(1086)当社を中心に白河法皇が離宮を造営され、当社は離宮の守護神ともされて、翌年天照大神、応神天皇などを合祀し、代々天皇、上皇がしばしば行幸された。平安城の南方に鎮座するところから城南の宮と呼ばれ、離宮廃絶後も城南宮の名で親しまれた。応仁の乱により一時衰えたが、江戸時代に復興された。幕末、文久三年(1863)に考明天皇が攘夷祈願に行幸され、鳥羽伏見の戦いには官軍の陣所となるほど、明治維新の史跡としても有名である。方除け、厄除けの神として今も信仰が深い。庭園「楽水苑」は名園としても名高い。 目次のページへ |
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寺田屋騒動址(伏見区) 文久二年(1862)四月、尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士九名が殺傷される明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こったところである。当時薩摩藩には藩主島津久光を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押えようとして、兵千余名を率い、京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら三十余名の急進派同志は、文久二年(1862)四月二十三日、関白九条尚忠、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。これを知った久光は藩士奈良原ら八名を派遣し、新七らの計画を断念すべく説得に努めたが失敗。遂に乱闘となり新七ら七名が斬られ、二人は重傷を負い、翌日切腹した。後の広場にある殉難碑は明治二十七年(1894)の建立で、有栖川宮熾仁親王の筆となる篆額を掲げる。 目次のページへ |
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醍醐寺(伏見区) 醍醐寺は、聖宝理源大師が貞観十六年(874)に上醍醐山に小堂宇建立し、准胝・如意輪の両観音像を安置したのに始まる。そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜七年(907)に醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。それに引き続くように下醍醐に延長四年(926)釈迦堂が建立され、ついで天暦五年(951)五重搭が落成し、下伽藍の完成をみた。そののち、応仁・文明の大乱の余波により五重搭を残し灰燼に帰してしまった伽藍の復興に力を尽くしたのは、桃山時代の座主義演准后である。義演准后は豊臣秀吉と関係を持って、伽藍、三宝院殿舎・庭園の復興をなすと共に、一代の英雄の最後をかざる善美を尽くした醍醐の花見を催されたことにより知られた人である。江戸時代に入り、修験道中興の祖・聖宝により継承されてきた三宝院に属する修験(山伏)を「当山派」と称する許可を幕府から得、座主高賢の大峯入峰修行により醍醐の教風が広まっていった。現在もその法流を汲み花供入峰修行が行われている。現存する伽藍と中心的子院の建築の主要なものの多くが、国宝や重要文化財に指定されている。 目次のページへ |
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南浜(伏見区) 伏見城の外堀・宇治川派流に南面。三十石船の乗降客をはじめ旅人や貨物などがさかんに往来し、対岸には後に歓楽街となった中書島もあり、 数ある荷揚げ浜の一つとして『南浜』と名付けられた。この付近は宿場の中でも本陣・旅籠などが集中するところで、 江戸時代には本陣4、脇本陣2、旅籠36を数え、東海道54番目の宿として大いに賑わった。 城下町時代には、キリシタン大名・高山右近の屋敷や伏見キリスト教会のあった所とされているが、江戸時代になると船着場からの旅人に 馬を供する馬方が参集、『馬借前』とも呼ばれた。室町時代の伏見詳細な記録『看聞御記』に著された、伏見宮貞成親王の松林院陵が 南浜小学校に隣接している。その西側には親王に仕えていた女官の庵があったが、これが現在の『松林院』という浄土宗の寺となっている。 目次のページへ |
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御香宮神社(伏見区) 御祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇など九社を祀る。 社殿によれば、貞観四年(862)境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので、『後香宮』を賜った。 以後、伏見の産土神として人々の信仰を集めたが、度々の兵乱や天災により荒廃した。文禄年間(1592〜96)豊臣秀吉は、 当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としたが、慶長十年(1605)徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重要文化財) が建立された。表門(重要文化財)は、旧伏見城の大手門と伝えられている。 宝物として、秀吉の寄進した金熨斗付太刀(重要文化財)を蔵する。境内には、伏見義民文殊九助らの顕彰碑がある。 毎年、十月の神幸祭は、伏見祭・花傘祭とも呼ばれ、神輿や花傘、獅子などが出て、盛大に行われる。 目次のページへ |
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満願寺(伏見区) 成就山満願寺と号す。身延山久遠寺を総本山と仰ぐ日蓮宗の寺院。1591年(天正19年)開創。 かつて真言宗であったこの地に縁あって開山実成院日典上人(本山妙覚寺第二十世)が伝道し、その教化により全村ことごとく 法華に帰し、久我法華と称せられた。 第二十七世了遠院日意上人は。寒中夜間桂川に入水錬行することを壱百日。その法勲をしたい参詣する者門前市をなしたと 伝えられ今に中興と仰ぎ、毎年正月十一日には荒行成満の足跡を偲んで一連の法会を営んでいる。 この法会は、その昔、村人によって上人に供養された精進料理「けんちゃ」に由来している。 境内には開運北辰妙見大士を祀り、昭和五十六年建立の電気梵鐘からは、朝夕平和の梵音が久我の里にこだましている。 それは、人間相互礼拝をめざす御題目の祈りの響きでもある。 目次のページへ |
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鳥羽伏見戦跡(伏見区) 明治元年(1868)正月三日(太陽暦一月二十七日)夕方、この付近での戦が、鳥羽伏見戦の発端となった。 王政復古ののち、将軍の領地返納をきめた朝廷、薩摩、長州藩らの処置を不満とした幕臣、会津、桑名軍は、正月一日挙兵、 大阪から京都へ攻め入ろうとし、薩摩、長州軍はこれを迎えうった。 城南宮には、薩摩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍、幕府大目付滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとする のを阻止して、談判の後、ついに薩摩軍から発砲した。この一弾があたかも合図となって、戦端はひらかれ、鳥羽伏見両方面で 激戦がつづき、正月六日幕府軍は敗退した。この一戦をきっかけに戊辰戦争が始まった。 目次のページへ |
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恋塚寺(伏見区) 利剣山と号する浄土宗の寺院である。 寺伝によれば、平安時代の末期、北面の武士遠藤武者盛遠が、渡辺佐衛尉源渡の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまった。 盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して文覚と名乗り、彼女の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立したのが、当寺の起こり といわれている。 本堂には、本尊阿弥陀如来像の外、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。 境内には、恋塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝える石塔が建てられている。その傍の六字名号石は、法然上人の筆で 文覚上人が建立した石板と言われ、この筆蹟は、人倫の大道を教えるものとして、古来より詩歌、謡曲などで知られている。 目次のページへ |
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北向山不動院(伏見区) 天台宗の単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。 大治五年(1130)、鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教(こうきょう)大師を開山としたのが当寺の起こりである。 本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。 そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。久寿二年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領として、 藤原忠実が中興に当たった。その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。 朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。 現在の本堂は、正徳二年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。 境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深親王の御銘があって、元禄七年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。 目次のページへ |
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安楽壽院(伏見区) 真言宗の寺 保延3年(1137)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。 開基は鳥羽上皇、覺法法親王を導師に落慶した。保延5年(1139)本御塔と呼ばれる三重塔が建立され、 続いて九躰阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。保元元年(1156)鳥羽法王(上皇)が本御塔に葬られた。 鳥羽天皇安楽壽院陵はそのあとである。保元2年(1157)、皇后美福門院は新御塔を建立、ここには後に近衛天皇の遺骨が納められた。 近衛天皇安楽壽院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長11年(1606)豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたものである。 現在の安楽壽院は真言宗智山派に属し、本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念持仏と伝えられ、 胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊石仏、 鎌倉時代の石造五輪塔(重要文化財)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像 (いずれも鎌倉時代、重要文化財)等を所蔵する。 なお、当院は鳥羽伏見の戦のおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところである。 目次のページへ |
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