日々折々

日々折々に思うことを書き連ねます

第22回 strike their necks

 イスラム国への日本人人質事件はとうとう恐れていた結末になってしまった。その様相は世界のマスコミを通じて広く知らされているから、ここに再掲することはしないが、見えてくるものはいろいろある。

 まずは、イスラム国の人々の異教徒に対する姿勢について考えてみた。世界中に様々な宗教があるが、古今東西その対立は血で血を洗うがごとく凄惨な歴史を繰り広げてきた。現今、イスラム教の脅威が喧伝されているが、果たしてその実態はどうなのだろうか。

 日本ムスリム協会によるイスラムの聖典コーラン(クルアーンが正しいと主張している)の日本語の公式の訳がある。
http://www.geocities.jp/theeguu/quran/s047.htm
第47節ムハンマド 第4章を引用すると、
4. あなたがたが不信心な者と(戦場で)見える時は,(かれらの)首を打ち切れ。かれらの多くを殺すまで(戦い),(捕虜には)縄をしっかりかけなさい。その後は戦いが終るまで情けを施して放すか,または身代金を取るなりせよ。もしアッラーが御望みなら,きっと(御自分で)かれらに報復されよう。だがかれは,あなたがたを互いに試みるために(戦いを命じられる)。凡そアッラーの道のために戦死した者には,決してその行いを虚しいものになされない。
 残虐な殺し方と言われている今回の所行も、イスラム教徒によれば、聖典に忠実に従った結果と言えるのであろう。そもそも私たちがコーランを入手することは困難で、アラビア語を読めない筆者にとっては前記の日本ムスリム協会の訳を信じる以外にない。失礼ながら、不自然な日本語なので英訳物も参照してみて内容がなんとなく理解できるというところだった。神に仕える預言者の啓示なのだから、もう少し正確な日本語に置き換えていただきたいと思う。異教徒の「首を打ち切れ」(英訳版ではstrike their necks)とは、なんとも戦闘的な神の言葉で、心優しい仏教やキリスト教の聖典しか知らなかった筆者には、時代背景に思いを馳せる以外にない。  モーゼの十戒には「汝、殺すなかれ」という有名な箴言があり、新約聖書にも「汝の敵を愛せよ」と記され、仏教の十善戒にも「不殺生」がある。コーランのようにあからさまに断首を明言した文言には、寡聞にしてお目にかかっていない。

 このことをして、宗教としてイスラム教が劣っているとか、残忍だとかを言いたいのではない。聖典に書かれていようがいまいが、宗教家や信者が大量殺戮をしたことは歴史上枚挙に暇がない。いわゆる「大義」があれば許される、または自己防衛のためには許される、という聖典の行間を活用して矛盾を止揚していたのだ。その大義というのが曲者で、たいていの場合対抗勢力にとっては非論理的なケースが多い。ほとんど水掛け論と思しき様相を呈するのだ。しかし、それぞれの聖典の中で、殺人を明示的に許容するものは少なかろう。その辺がイスラム教が他と違うところで、信者を集める力にもなっていると推測する。

 ここで、根本に戻ることを考えたい。
 殺戮をする人は一様に、自分たちに害を成す者への抵抗であると言う。やられたらやり返すという単純な論理なのだ。これを改心させることは不可能だろう。ならば、最初の原因となった「害を成す」という行為を起こさせないことはできないのだろうか。

 荀子の性悪篇によると「人の性悪なるは明らかにして、其の善なる者は偽なり。」とされている。その悪から抜け出すために教育が必要なのだという。結局、彼の地にはまだまだ教育制度が整っていないと言うことだろう。そして、それを利用することに長けた悪人が割拠しているということなのだ。独裁者の支配の手法は民衆を啓蒙しないことだ。

night Feb 25 , 2015 綴


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