日々折々

日々折々に思うことを書き連ねます

第18回 新発見はなかったのか



 前回に小保方氏の騒動についての私の感想は書いた。結局STAP細胞はあったのか、なかったのかという問いかけへの答えは未だにない。あんな不正があった、こんな無駄遣いをしているという粗探しは激しく継続しているが、相変わらず答えを求めようという動きはない。ようやく実証実験を始める動きが出たと思ったら、それをネッシー探しと同列に置いて、答えを求めること自体が無駄なのだという論法で揶揄する人もいる。おそらく著名で実績のある科学者がそう言うのだから、相当高い確率でSTAP細胞というものは存在しないと考えるべきなのだろう。また理研という巨大組織もなかなか実証実験に取りかからなかったというのも、実はもう誰もSTAP細胞の存在を信じていないからなのだろう。
 筆者も今回の騒動が、STAP細胞の実証によってすべて帳消しになるとは思っていない。他人の文章や写真を無断で引用したり、改組したりする行為を肯定するわけでもない。研究者の世界がどのような歪んだ地平にあろうと筆者にとって関心はないのである。巷間でおもしろおかしく囁かれているiPS細胞への妬みだとかがあったとしても、それにも興味はない。
 しかし、それでいいのだろうか。
 世紀の新発見というものはそんなに簡単にはお目にかかれないものだ。私のように科学に対する強い憧憬と科学者に対する畏敬の念を持つ者にとっては、科学上の新発見に立ち会えるというのは心躍ることなのだ。新発見は大体旧来の陋習を破るところから始まる、と信じている。流行の言葉で言えば、Breakthroughであろう。コツコツ積み重ねた結果、新発見があったという話は寡聞だ。それは過去の実績や安定した地位の上に生み出されるものとは根本的に異質なものなのだろう。教科書的な知識しかない筆者には、歴史上の大発見をした科学者が実際にはどのような過程を経て発見に至ったか、詳細は知る由もない。ただ、天才と分類される驚異の閃きが関係しているのではないかと推察している。
 小保方氏がニュートンやアインシュタインと比肩する天才なのか、森口尚史氏の類いの人なのかは分からない。しかし森口氏と違って実証するチャンスがあるではないか。それがやはり虚言だと分かった時点で、好きなように料理すればいいではないか。それまでは、待とうではありませんか。

 
Evening July 9 , 2014 綴


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