日々折々

日々折々に思うことを書き連ねます

第16回 小保方晴子とペレルマン その様相の近似値



 現今世間を騒がせているSTAP細胞発見の顛末は、少し前のポアンカレ予想を証明したペレルマンの喧噪を想起させる。
 颯爽とした若い美形の科学者である小保方と、いかにも異形の風采を持つペレルマンは、ともに世紀単位の偉業を成し遂げた人物として科学に無縁の巷人の耳目をも集めた。方やノーベル賞の呼び声が上がり、方やフィールズ賞とミレニアム懸賞を得た(どちらも本人は辞退されたが)世界的な人物である。数学の世界にはノーベル賞が該当しないため比較は無意味かもしれないが、俗人の尺度で言えば、どちらも億単位の賞金をゲットできるものなのである。  ポアンカレ予想の証明は、世界中の並み居る数学者がその検証に4年の歳月を要したと読んだ。それ程難解なテーマだったのだろうと推察した。なぜ4年もかかったのかというと、ペレルマンの論文はただでさえ難解な上に省略が多かったからだということだ。 そして、今回の小保方への批判の一つに、実験ノートが2冊しかなかったというものがあった。これでは分かりにくいということであった。
 しかし、である。STAP細胞というノーベル賞級の発見の内容が、丁寧な省略のないノートがあれば他の研究者にも分かるというのだろうか。ペレルマンは自身で自明と思われることを当然のように省略しただけで、卑近な言い回しをすれば、他の数学者の頭が少々足りないだけだったのではないか。同様に、世紀の発見をした小保方にとってはノートを取るほどのものではなかったからとは考えられないのだろうか。私のような素人ではなく、少なくともその道のオーソリティと言われている先生方のガラスのプライドをハンマーで打ち壊したようなことだから認めたくはないだろうが、凡庸と非凡という観点から考える必要もあるのではないだろうか。
 筆者は、生命科学も数学も凡そ縁のない、通俗の世界に生きてきた。従って、ことの真偽は皆目見当もつかない。ただ専門家たちの傍証を信じて待つほかないのである。ポアンカレ予想の証明については、少なくとも真剣に検証しようとした数学者がいたからこそ、世紀の難問が解決できた。しかし、今回のSTAP細胞については、一体どれだけの専門家が真剣に検証しているのだろうか。捏造とか不正とか、些末な重箱の隅っこをほじくり返すことが、調査委員会の本務だったのか。「本委員会のミッションではない」とか、「オーバーステートメントはしない」とか、安物のゴシップ誌と同程度の調査報告をして、STAP細胞の真偽という、最も大切な結論に対する意見すら言わないというのでは、噴飯物だ。ペレルマンの例で言うならば、省略が多くて論文の体をなしてないとか、数学的課題に対して物理学の手法を使っているとか、その種の本質とは無関係の非科学的なやっかみや論難で偉大な発見を葬り去ろうというのではないか。STAP細胞の真偽を検証するのは1年かかると弁解されていたが、ペレルマンの論文の検証には4年かかっていたではありませんか。
 私は待ちますよ。
 
 筆者のような大多数の凡人にとっては、途中経過などどうでもいいのだ。実験ノートが少なかろうが、説明に他人の文章の無断引用があろうが、どうでもいいのだ。要するに、それは新発見なのかどうかが知りたいだけなのだ。どうせどんなに丁寧な説明を聞いても、凡人には分かるはずもないことの詳細を求めることは無意味だ。ポアンカレ予想の解説を読んだが、さっぱり意味が理解できなかった。もう少し前に、フェルマーの最終定理が解決されたときも、よせばいいのに解説書を読んでみた。案の定、理解できなかった。
 重ねて主張したい。説明はいいのだ。新発見なのかどうかの結論だけを教えてください。新発見などなくて、ただ世間を騒がせたいだけの人だったというのなら、身内で処分でも何でもしてください。物事の本質から逃げながら、手法にいちゃもんを付けるというのは、決して科学ではない。ここは、新発見のもたらす人類への貢献を勘案して、多少のことには目をつぶってもいいではないか。だから、調査委員会の専門家の皆さんには、是非ともSTAP細胞が真実だったかを解き明かしてほしい。実験室のピンクの壁の塗装費まで詰問するようなマスコミには、コップの水をぶっ掛けるくらいの断固たる姿勢で事に当たってほしいものだ。

 やり方が汚いとか、人格に問題があるとか、倫理的には許したくないかもしれないが、それを言い出したら、ニュートンの人格面の欠陥を論って、万有引力の発見をないものにするようなものだ。まさしく、今回の発見はニュートンに匹敵するような科学への貢献ではありませんか。
 
Evening April 3 , 2014 綴


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