日々折々

日々折々に思うことを書き連ねます

第15回 狡猾は犯罪か


 最近の食品偽装或いは誤表示問題は級数的な拡大を見せている。
 「みんなが公表している間に、うちも済ませておこう」
 という雰囲気がありありと見える。発起人の阪急阪神ホテルズ社長が仏頂面で「誤表示」と言い張った記者会見を手本として、後発の皆さんは「偽装」ではないと言い真似るつもりのようである。この背景には行政や司法からの制裁を避ける目的がある等も囁かれているが、いかにも往生際が悪い。「うっかり」の域はとっくに超えている。「やむにやまれず」というには規模が大きすぎる。
 水戸黄門ならばさしづめ、「この紋所が目に入らぬか」という場面だろう。又は遠山の金さんならば、今まさしく桜吹雪の倶利伽羅紋紋を披露するシーンであろう。
 と、ここまで書いてはみたが真実のあるところはすでに見えているのだから、かさにかかるマスメディアと過剰防衛気味の企業の喧嘩には興味はない。高級店で騙されたと嘯く面々も便乗する輩ともども、続々と返金をせしめているし、被害者などどこにもいないではないか。

 枕詞が長すぎたが、要するに私はこの件表面処理には関心がないのである。

 この問題の本質に潜む概念は、狡猾は犯罪なのかということだろう。法律は倫理の延長線上にあるものだが、その境界は判然としない。こっそり安い食材を使って、ブランド品のふりをする(いわゆる羊頭狗肉)ことが犯罪といえるかどうかは、法律の専門家の判断に委ねるほかない。私にはその知識がない。しかし、その行為が狡猾であることは断言できる。一般に狡猾と思われる行為は、倫理上許されるものではない。今流行の「清須会議」ではその狡猾さを競うことが主題となっている。もはや歴史となっている事実の解釈は、直接自分に降りかかるものではないので笑いのネタにしか過ぎないが、その狡猾さが直ちに自分又は自分の周囲に影響を及ぼすとなると話は違ってくるだろう。勝てば官軍という諺があるが、負けた方になってしまった人には、正義かどうかの判断を問われることもなく賊軍となりかねないのだ。現代は戦国時代ではないから、清須会議のようなことにはならないだろうが、少なくとも何らかの損をすることになる。
 そこで、今回の食品偽装事件で勝ったのは誰だろうか。長期間安価な食材で高い料金を取って儲かった会社は、今返金でかなりの損失を被っている、と思われている。この問題を機に、新たな規制や法律ができて、それを監視する組織が立ち上がって、新たな税金が投入される。その組織には監督官庁からの天下りもあるだろう。新たな組織が雇用を生む。そして、監視する国家資格が創設され、国家資格試験をする執行する組織が作られ、さらなる雇用と天下りが生まれる。そしてその組織を監視するNPOが勃興し、またまた雇用が生まれる。何しろ現代は職人技よりも資格取得が優先される時代なのだ。こんなことを考えていると誰が得をしたのか分からなくなってくる。
 飽きっぽいマスメディアはこの問題からすぐに興味を失い、また新たな粗探しを始める。結局一番得をしたのは視聴率を稼ぎ、国民の知る権利補擁護するという大義名分の元に一過性の正義を声高に叫んだマスメディアなのだろう。
 芝エビでもバナメイエビでも一向かまわない庶民にとっては、もっと言えば高級ホテルで食事をする機会のない私のようなごくごく普通の庶民にはどちらでも良いことなのだ。それよりも、この騒動が前述のような新規制を生み、そのコストが庶民の通う大衆食堂やスーパーマーケットの食材の価格に影響を与えてしまうことの方が心配なのだ。これまでにそのような例は多々あったことを忘れてはならない。

 一部の狡猾な輩の倫理違反の指弾が、恰も法律のような振る舞いへと変容し、やがては自分の首を絞めてくる。わが日本の国民性というのは、規制されないと安心できない性癖から脱却していないのかもしれない。今回の食品偽装問題は、単に狡猾なホテル等を風評で懲らしめれば十分ではなかったか。マスメディアの誘導に乗せられて規制や法律という結果に結びつけるべきではないと主張するものであるが、残念ながらその流れを止めることは不可能と思われる。こんなことが繰り返されるならば、400年も前の清須会議と何も変わりはしない。
 結論です。狡猾は倫理上の問題だ。

Morning Nov 09 , 2013 綴


日々折々の目次に戻る
未踏の果てのTOPに戻る  雑学と教養のTOPに戻る