日々折々日々折々に思うことを書き連ねます
第12回 報道とは
またしても、報道記者の前で土下座に近い謝罪を強要させられている愚劣な「謝罪ショー」を見せられた。ホテルの料理がメニューと食材が食い違っていたことへの釈明会見とみのもんた氏の報道番組降板の会見である。
ホテルの件は、「偽装」か「連携ミス」かというおよそ理解しがたい釈明であったが、あれだけ多くの記者が詰めていながら、論理の矛盾も突けずにあっさりとホテル経営者の言い分を飲まされてしまっていた。しかたなく、態度が悪い、という子供の喧嘩の負け惜しみのような「報道」に終始してまった。しかし自分たちの面前で頭を下げさせるという所期の目的は達成して、居並ぶ報道各社の記者は満足していたのだろう。彼らは真実の究明などと云うことにはその能力もなければ、興味もなかったのだろう。
そんな低次元の報道関係者の一員であった筈の、みのもんた氏を番組降板に追い詰めたことには若干卑屈な罪悪感もあったのだろう。ヒステリカルな怒号はあまり聞こえなかった。「もっと早く謝罪しておればこんなことにならなかった」と言わんばかりで不快な出来事でした。みの氏も当初は成人している子供の責任を親が取るのは納得がいかないと主張していたが、何でも言いたいことを言うとおっしゃった割には、大人しい会見でした。まぁ、当初の姿勢を貫いても、テレビ局は契約更新しないことが見えていたので、さっさと引いたのだろう。しかしもう生活に困ることもないだろうと思われる人なのに、何を遠慮しているのか歯切れの悪い会見であった。
報道関係者よ、分かっているのか?
今回の事件で、何の罪もないみの氏に対して、江戸時代の村八分制度と同じようなリンチ行為を行ったことを。
家族の誰かが犯罪者となったら一族郎党連座するということを容認しているのか。民主主義が導入されて私刑や拷問は廃絶されたのではないか。そういう被害者がいたら、むしろ助け船を出すことこそ報道関係者の責務ではないのか。40年前にニクソンを追い詰めたジャーナリズムは、あくまでも巨悪への対抗ではなかったのか。法で裁けることが確定しているものを追い詰めて、何がジャーナリズムだ。特定情報保護法が知る権利を制限すると云って大騒ぎしているが、一般大衆の家の中までカメラを入れることが知る権利と思っているのか。スポンサーの都合のよいことばかり、つまりゴシップ記事ばかり追い求めることがジャーナリズムであり、知る権利であるというのだろうか。筆者は断じて違うと信じている。
ホテルの姑息な違反行為を警察が動かないことに矛先を向けるのはいいだろう。みの氏が番組降板を余儀なくされたときに、関係テレビ局の経営者を糾弾することこそジャーナリズムではないか。
あのテレビ番組の中に見え隠れした記者たちがパパラッチならば仕方がない。下劣なゴシップ雑誌も「表現の自由」で許されているのだから。そういう連中が少なくとも、「報道の自由」とか「知る権利」などという台詞を使うことには、私たち国民は厳しい監視をしなければなるまい。
MidNight OCT 28 , 2013 綴
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