日々折々日々折々に思うことを書き連ねます
第10回 ポアンカレ予想
初めにこのコーナーはあくまでも「雑学と教養」であり、今回は特に「雑学」よりであることをお断りしておきます。さらには、筆者は根っからの文系人間で、数学的なアプローチそのものに懐疑的であることも付け加えておきます。
先ずこのタイトルを見ただけで興味を持つ人と、即座に別のサイトに移動される方と大別されることでしょう。さらに、興味を持った方も出だしの数行で別のサイトに移動される方もおられることでしょう。従って、今回はほとんど読んでいただけないことを承知の上で書き進めます。
数学における「予想」という言葉の意味は、真であることが証明されていない命題のことを言うらしい。ただし、厳密を旨とする数学者達の用語であるからには、「予想」というのは、一般人にとっては限りなく定理に近いものであろうと推測できる。ちなみに予想が真であると証明されたものが定理と呼ばれるそうである。
そこで、今回のテーマに掲げたポアンカレ(Jules-Henri Poincare)と言うフランス人の「予想」に触れてみます。解説書で筆者の理解した範囲では、以下のようなことらしい。
地球のどこかの空港に紐の片端を括り付けて、もう片端を取り付けた飛行機が西へ西へと飛んでいく。ぐるりと地球を一周して元の空港に戻ってきたとします。そこで、紐の両端を持ってヨイショヨイショとたぐり寄せると、紐は全部回収できる。その現象(結果)をもって地球が丸いと言える、というものらしい。もし地球がドーナツ型だとしたら、いくら引っ張っても全部を回収できないというのだ。ドーナツの穴の中を回ってくれば、当然輪の中で引っかかってしまうからその通りだと思います。その考え方を極限まで拡げて、宇宙全体を回ってくると宇宙の形が分かるというのです。因みに、この「予想」はロシア人のペリルマンという人が証明したので、今では「定理」になっているということです。
この「予想」を「証明」して「定理」となったことを今回の主題にしているのではありません。筆者にとってはどちらでも良いことですし、大多数の人間にとっても関係ないことです。しかし、ここにはとても大切なことが潜んでいると思います。実利を伴わないことについて価値を認めない人が現実に多数を占めている中で、ペリルマンはこの研究に生涯をかけることができたということです。多分生活は豊かではなかっただろうと世俗的に推察されます。
では、豊かな生涯というのは何でしょう。瀟洒な衣服を身につけ、豪華な食事をして、豪邸に住むことが豊かな生涯なのでしょうか。逆に、清貧に甘んじても立派な業績を残し、千年後にも名を残すことが豊かな生涯と言えるのでしょうか。客観的な一般論ではなく、主観的な個人の話なのです。やりたいことを無制限にやって生涯を終えることが、豊かなのでしょうか。ソクラテスは冤罪で獄死したけれども、今も偉大な哲学者として名を残しています。キリストも十字架に刑死したけれども偉大な宗教家として今も信仰されています。ヒトラーは権力をほしいままにし、虐殺者として自死に到り、今も憎悪の権化として教科書に名を連ねています。
そこで、個人にとって豊かな生涯とは何だろうか、ということに思い至ったのである。イエスのように、生きている間中迫害を受けて残酷な処刑に生涯を終えた場合でも、客観的には歴史に名を残した偉人として信仰と崇敬の対象となったのだから豊かな生涯だったと、人は簡単に言うであろう。大量殺戮の命令を出し、敵対する人々を戦火に散らせた罪でヒトラーは、本人が満足な人生を送ったと感じていたとしても、人は貧しい生涯だったというだろう。
果たして、それでよいのだろうか。主観と客観の間にある齟齬には意を馳せる必要はないのだろうか。主観と客観が一致している時には、問題はない。しかし、大多数の人が是としないことを、個の精神活動にまで押しつけることが可能なのだろうか。
一般的な客観として「残念」ながら、ポアンカレ予想を解決したペリルマンはフィールズ賞の栄誉も100万ドルの賞金も拒否して、現在ほとんど隠遁生活を送っていると思われています。なんとももったいないとか、やっぱり天才は変人だとか、言うのは簡単である。その心象背景には、富や名誉こそが善なるものだという現代人の気質が存在しており、それは本当の真理とは少し違っているという気がしてこないだろうか。
この項は、あまりにも結論が貧弱になってしまった。もっと時間をかけて推敲する必要があります。いずれの時にか捲土重来を期したい。
Night Aug 21 , 2013 綴
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