日々折々

日々折々に思うことを書き連ねます

第3回 宗教と政治 「アラブの春」で思うこと

 最初に断っておくが、筆者は信心深い人間でも、政治家でもない。なまくら仏教徒で、選挙には行くけれども政治不信に悩まされている一市井人である。そのつもりで読んでいただきたい。
 中東地域の動きを「アラブの春」と勝手に名付けたのはヨーロッパのメディアだと言われていますが、イスラム宗教国家が形成されることをそう呼ぶのだとしたら、単純には喜べない。私は、エジプトの「民主化」の象徴として選挙で選ばれたモルシ大統領の髭面を観て何か腑に落ちなかった。今回の大統領反対派のデモを観ていると、今度は髭面の男性が少ないことに、「やっぱりなぁ」と思った。イスラム教の態様は様々なプロパガンダで取り上げられているが、コーランに書かれている女性観、若者に天国行きの切符と引き替えに爆弾を抱かせて特攻させることなど、その後進性を慨嘆する人は少なくない。まだイスラム圏は政教分離以前の社会なのであろう。正しいアラビア語で書かれたコーランも読まずに偉そうなことを言うなと叱られそうだが、それは筋違いである。訳本ですら以前は許してなかったのだから、仕方がないことである。現実にアラブ圏以外にも布教しているのだから、各国語訳の「公認」コーランを出版すれば良いのである。
 ヨーロッパの歴史を見ていると、社会がある程度成熟するためには、宗教家が大きな役割を果たしていた。徐々に人口に膾炙し、人を啓蒙した功績はとても大きいと思う。しかし宗教の優越性は「カノッサの屈辱」という頂点を境に、逆転していく。宗教が科学と置き換わっていくと言っても良いだろう。真実を自分の命よりも大切にした科学者たちが、宗教家の傲慢に挑み始めたのである。コペルニクス然り、彼の没後にその地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノはローマの広場で火刑に処せられ、ガリレオは異端審問で大学教授の職を失い軟禁状態となった。宗教家の威力というものはそれ程絶大なものなのである。科学が覚醒してからかなりの時間がたってから、哲学の世界でもニーチェを境にして宗教観は一気に変容する。巨人カントですら宗教の領域には深く立ち入らなかったというのに。

   ともあれ、科学や哲学と調和した宗教が求められている時代であろう。そういう時に「アラブの春」等と軽々に大衆を扇動するような記事を書いて欲しくないのだ。CIAの内部告発問題ですらそれぞれ自国の自己矛盾を解決できないでいるというのに、「アラブの春」という命名はいかにも不遜で傲岸な優越意識のなせる技である。ツイッターやウィキリークス等の論拠のない、軽挙妄動は言い過ぎだとしたら、軽佻浮薄とでも言える、衆愚を煽動するメディアの濫用は、アラブ人を劣等種族と思い込んでいる西欧人の性懲りも無い悪癖である。イスラム教を擁護する意図はないが、キリスト教社会のローマ法王は1992年までガリレオ裁判の過ちを認めなかったことも想い出すべきだろう。
 宗教の誤りは科学が補完し、宗教の曖昧さは哲学がエビデンスとなる。そういう宗教に進化していくことを、宗教家は心しなければならない。そして、そられを調整する役割は、正しく政治にある。
最後にイスラムの宗教指導者に一言。決してイスラム教を非難しているのでありません。英国のSir Salman RushdieのThe Satanic Versesは読んでもいないし、くれぐれも暗殺者を送り込まないで下さい。こんな危惧を感じさせられるのも、遺憾ながらそれと意識せずに私がヨーロッパのメディアの影響を受けている証左かもしれません。キリスト圏とイスラム圏の対立は、日本人には想像も及ばない深刻なものなのでしょう。まだ十字軍は解散していないのか。

2013年7月6日 綴


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