私の書棚

記憶に残る書籍について思うことを書き連ねます

第11回 大栗先生の超弦理論入門
著者 大栗博司
講談社ブルーバックス
Kindle 版


 第4回で佐藤 勝彦『「量子論」を楽しむ本』の難解さに触れましたが、どうにも理解できないということが気になって本書でもう一度確認してみました。人類には言語という偉大な思考と伝達の手段がある。その言語への理解が、私に足りないのか、佐藤氏に足りないのかどうしても確認したかったのです。
 よく、数学者が「数学という言語」、音楽家が「音楽という言語」という言い方をしますが、それに異論はありません。ただ、数学で言うところの数式の基本について厳密な定義をしておいて欲しいのです。ポアンカレ予想を解決したペリルマンの論文が、数学者たちにも難解であったという話を聞くと、数学者の言語(数式ではない)に対する観念の欠如を感じざるを得ない。もう少し伝達すると言うことに注意を払ってもらいたいものだ。折角発見した物をそう簡単に他人には教えたくないという狭量さは、門外不出とされたピタゴラス教団以来の数学者の伝統なのだろうか。そういう意味では、音楽家達は文字言語と音楽言語の棲み分けがきちんとできている。音楽を言語で伝達しようという気があまりない。とにかく聞けば分かると断言する。文字言語では説明できないから音楽という表象手段になると言うのであろう。それは正論だ。文字言語で説明できるのならば、音楽は無用となるから。
 日本の家元制度が典型だろうが、自信が無いと隠したがるものだ。または何かやましいことがあるときにも人は隠したがる。一子相伝などと言って、結局は万人に知らしめる自信が無いのだ。
 話が少々脱線しているが、しかし文字で書かれたものは文字を読める(と言っても相応の識字力は必要ですが)ことで普遍化されているはずです。表現者と読者はどちらが優先かということもあります。そういう意味で、佐藤氏の著書について検証する意味で本書を読んでみました。迂回路を巡回するような論法をとっているのは、数理の皆さんに敬意を払っていることを婉曲的に暗喩しているつもりです。

 枕詞が長くなったが、大栗氏の言語能力は優れている。明らかに佐藤氏より数段上だ。尤も佐藤氏の著作はゴーストライターの影が垣間見えるので、本当は相手を間違っているのかもしれないが。
 五次元という概念を、私のような門外漢にちゃんと説明できていました。少なくとも学校の国語教育で得た国語力で概観出来たということは、大栗氏に感謝します。量子論という途方もない世界観は、佐藤氏の書物では皆目理解できない。読者には、大栗氏の書籍を強く薦めます。

 今年の後半の読書生活は、量子論に明け暮れた感がありました。前半にガリレオの生き様に興味をそそられ、「天文対話」を通読したが、アリストテレスの影響下にあった物理学を知っていることが「天文対話」を読むためには必須事項であった。そこからギリシャ科学を紐解くとギリシャ哲学は不可分のものであり、プラトンまでも読み進めることになってしまった。そして中世の科学を知ると、現代の到達点も知りたくなり、必然的に量子論を読む羽目になったのである。
 きっかけはごく単純で、地動説を唱えたコペルニクスは不問に付され、賛同したブルーノは火刑に処され、その後に「天文対話」を発表したガリレオは軟禁で済んだという一連の事情に興味があった、ということが私自身の中で量子論まで発展してしまったのだ。火刑を畏れて、ガリレオが巧みな弁舌を駆使していく様は、その言語能力に驚嘆するほかない。現代の数物の専門家達よ、もう少し読書をしなさい。週に1冊でよいから、名作を読みなさい。そうすれば、あなたの理論はもっと世に知られることになります。教えたくないというのなら、ピタゴラスの弟子達のようにどこにも漏らさないことです。

Night Dec 30 , 2013 綴


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