私の書棚

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第9回 量子力学の哲学
著者 森田 邦久
講談社現代新書
Kindle 版


「非実在性・非局所性・粒子と波の二重性」という副題に恐れをなして買うのをやめた人も多かっただろう。読んだ後もなぜこれを副題に敢えて選んだのか不審なままである。表題に銘打った「哲学」はどこにあったのだろう。

曰く、光は粒子でもあり、波でもある。
曰く、多世界解釈。
曰く、過去に影響を与える未来。

 相変わらず、不可解な量子論の解説だったが、単なるSF愛好家として馬齢を重ねてきた私ですらこの荒唐無稽(失礼?)な理論にはついていけない。かのミュンヒハウゼン男爵も正直者とされるだろう。いや、ノーベル賞を授与された著名な物理学者達が挙って宣うのだから、駄法螺と言っては失礼だが、もう少し卑近な例示を掲げて欲しいものである。

 観測したときだけ存在して、観測していないときは所在が不定だなんて、思考の基本を逸脱しているとしか思えない。いつから、物理学は空中楼閣になってしまったのだろうか。それを称して衒学と言うのではなかったか。光の速度は秒速30万キロだと言いながら、光速では時間は止まる?それなら誰も光を見られないではないか。いや光子は質量がないから、時間に縛られない、等と牽強付会としか思えない。そもそも我が地球の動いている本当の速度すら分かってないのではありませんか。不明な速度で動いている地球上で相対的な速度しかあり得ないはずなのに、光だけは絶対速度と決めるというのは、摩訶不思議。


 閑話休題
 孫悟空が須菩提祖師から授かったキン斗雲(キンは文字化けします。)は、1回とんぼ返りを打つ間に108000里飛びます。当時の1里は0.5kmだから、秒速54000km位でしょう。これは光速の18%に相当します。これを特殊相対性理論に基づいて計算すると、悟空が60秒進む間に、掌を差しだした釈迦牟尼の時間は61秒経過している。科学的に言えば、この1秒間のアドバンテージが勝敗を分けることになったのである。悟空が五行山に五百年間囚われの身になった釈迦牟尼との対決は特殊相対性理論にあったという訳である。
 どうです?この方が量子論よりも胡散臭さの程度は軽いと思いませんか。

 物理学としての量子論には、基本的に理解の敗北があったが、哲学ならばもしかすると理解の端緒がつかめるかもしれないと期待していたのだが、残念ながらこの書物に哲学はなかった。無論芸術性や教養の小片も感じられなかった。物理の専門家の方にはどうなのかは知る由もありませんが、少なくとも門外漢に量子力学を教え、さらに哲学的な領域まで深化させることなど、断じてできていない。出版社の無教養な編集者が、原稿を読んで「哲学」だと錯誤したのであろうか。それにしても、著者は哲学ではないことをもう少し出版社に主張すべきだと思う。よもや著者もこの本を哲学などと思ってはいないだろうから。

少々扱き下ろしすぎた感があります。しかし現実は厳しいのです。

Night Dec 27 , 2013 綴


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