夢見桜
鈴世が無邪気な笑顔でさらりと言っていた。 君とお姉ちゃんは恋人同士だったんだよと。 そんなことを言われても、はぁ、そうですか。としか言い様がない。 自分であって、自分でない。 手が届きそうに見える月も、実際には掴むことができないように、 8年という時間はどうしようもなく高い壁になっていた。 とりわけ蘭世と出会ってからの、14才になってからの自分の事が気になって仕方がない。
どんなヤツだったんだ?オレ…
布団の中で自問自答してみても、いつも答えは出ない。 生まれ変わり、赤ん坊から4才へ一足飛びに 目まぐるしく成長をとげ、今は8才。 この調子でいけばいつかは16才になる、はず…。 しかしその保証はない。ひょっとしたらずっとこのままかもしれない。 まさか、と一笑にふしてしまえないところがある。 もし、ずっとこのままだったら?
どんなに追い掛けても、永遠に縮まらない距離。
考えただけで気が滅入る。寝返り一つ打って、きつく目を閉じる。 しかし閉じられた瞼はスクリーンとなり、昼間の彼女の告白を再び映し出し、更に追い討ちをかけてきた。
「わたしね、あなたのことが好きだったの」
彼女はこの上なく優しい笑顔で話した。 それとは逆に、ぐっと俊の胸に真直ぐに深く突き刺さる。 その『あなた』は自分ではなく、『真壁くん』へ向けられた言葉だからだ。
『真壁くん』のことを話す時、彼女は懐かしい思い出を語るようにどこか遠くを見る。 彼女の視線は、目の前にいる透明な硝子となった自分の姿を通り過ぎていく。 その先にあるのは、16才だった自分。それが彼女にとっての『真壁俊』なのだ。 あまりにも無垢な笑顔が眩しくて、俊は俯き目をそらしたくなってしまう。 しかし自分の瞳を見つめながら語りかけてくる彼女から、俊は目をそらせずにいた。
正直、歯がゆい。 勝負する相手が存在しないのだから。 見たことのない未来の自分を、これほど妬ましく思ったことはない。
「その時…おれも好きだった…?」 「どうだと思う?」
質問を質問で返されてしまった。こんな時、なんて答えたらいいんだろう。 声すら喉の奥で詰まって出てきやしない。 自然と眉間に皺が寄っている俊に、蘭世が慌てて言った。
「ごめんごめん。悩まないで、わたしも知らないの。だから大きくなった時聞かせてね。約束よ」 残酷なまでに優しい笑顔が心に滲みて、ひりひりと痛んだ。 言ってあげたい言葉は、今自分が言うべきではない。 咄嗟に思い付いたのはこれしかなかった。
「たぶん…嫌いじゃなかったと思うよ」
自分のことなのに、なんて曖昧な返事なんだろう。 もし可能ならば、16才だった自分を今すぐにでもひっ捕まえて問いつめてやりたい。 嫌いだなんて、絶対言わせない。 自分だったら、そんなこと…絶対に… 切なくて、いたたまれなくて、俊は彼女に背中を向けてその場を走り去った。
自分のことなのに、自分が一番わかっていない。 彼は薄い夏布団を頭から被って、底なし沼のような考えを覆い隠そうとした。 考えたってどうしようもない。取りあえず今夜も結論がでないまま眠ることにした。
水面に浮かぶ体がやがて静かに水底へと沈んでいくように、ゆっくりと眠りは訪れた。
はらり、はらり。風に乗って舞い降りてくるのは淡色の雪? いや、違う。 立ち並ぶ木からは、漂う空気までも染めてしまいそうなほど満開の桜の花が風に揺れている。 雪のような花びらの降る中、誰もいない並木道を若い男が長い髪の女性を背負いながら歩いている。 流れる滝のような彼女の黒い髪は、彼が歩く度に優雅に毛先を揺らせている。 顔を確かめてみるまでもない、彼女は蘭世だ。 100%信頼しきって体を預けて彼女は眠っている。 夢の中の世界で、彼女はどんな夢を見ているのだろうか。
そしてさっきからずっと黙ったまま歩いている男。 彼の後ろ姿に俊は見覚えがあるような気がした。 すらりと伸びた足。がっしりした肩幅。彼が振り向かなくても、ましてや初めて見るのに、俊は彼をずっと前から知っている。 いや、見たことはないがよく知っている。 何故なら彼は真壁俊。成長して、蘭世と同じ時間を生きている未来の姿の俊なのだ。
一つの世界に自分が二人存在するわけがない。 だとしたら、これは夢なんだ。すんなり俊は結論づけた。
そう、これは俊が見ている夢の中の世界の出来事。 客観的に俊は自分の姿を見ている。しかも自分は夢を見ていると自覚している。 妙な感覚だった。 例えて言うならば映画でも見ているような感じだ。 観客である俊が、スクリーンの中に入り込んで主人公たちを近くから見ているような。 しかし春の空気に溶け込んでしまったかのように、俊の姿はそこにはない。 存在するのは、俊の意識だけだ。 だから俊はもう一人の俊を堂々と後をつけさせてもらうことにした。 絶対に気付かれることのない尾行。 一つの仕種も見逃すまいとする、小さな探偵は広い背中のもう一人の自分を睨むように見据える。
おまえはこの人に相応しい男なのか?
「まったく、相変わらず酒に弱いな」 返事がないのを知ってて、彼は独り言のように呟く。 案の定、返ってくるのは規則正しい寝息だけ。 両腕をふんわりと彼の首周りに絡ませ、 彼女は居心地のいい彼の背中で眠っている。 まるで幸せな夢でも見ているかのように、柔らかな笑みを浮かべて。
この様子からすると、二人は少なくとも16才ではなさそうだ。 もう少し先の、お酒を飲めるくらいの年齢となった二人だ。 大人になった彼は、流石に今よりうんと背が高くて、彼女をやすやすと背負って歩いている。 俊はただ二人の後ろ姿をじっと見つめていた。 そして彼の背中に問いかけていた。
おまえはこの人のこと、どう想ってるんだ?
もちろん答えがあるはずはない。 わかっていても、ぶつけずにはいられない。
「真壁くん…」 目を閉じたまま蘭世が囁くような声で彼を呼ぶ。 口元にはまだ夢見るような幸せな笑顔が残っている。 「起きたのか」 振り返りもせずに、彼はそのまま歩き続ける。 返す言葉も素っ気無い。
「だーいすき」 蘭世がきゅっと絡ませた腕に少しだけ力を強める。 彼の背中が一瞬硬直したように見えたのは気のせいだろうか。 歩みをふと止めて、彼はゆっくりと振り返る。
声を出しても二人に聞こえるはずはないのだが、「あ!」という表情になった俊は、慌てて口を塞ぐ。
「ばーか」 かける言葉とは裏腹に、根雪を溶かすほどの暖かく穏やかな瞳。 俊は以前にこの眼差しに出会ったことがあった。
『わたしね、あなたのことが好きだったの』 フラッシュバックする蘭世の笑顔。 分厚い雲の間からようやく輝く太陽が顔を覗かせ、俊の心を暖かく包みはじめた。
似ている。と俊は思った。 彼女が、蘭世が俊のことを話す時の表情と。 花開くように綻ぶ笑顔。 それは愛おしいと、心から思える人がいるからだ。 たとえすぐ傍にいてもいなくても。
答え、出てるじゃねーか。 徐々に俊の表情にも笑顔が戻っていくのがわかる。 そして俊はそのまま後ろを向いた。
***
「んもう、俊くんったら…。布団蹴っ飛ばしちゃって…」 そろそろ寝室に戻ろうとした蘭世がその途中、俊の様子を見に立ち寄った。 寝る前にしっかりと被っていた布団は、いつの間にか体の半分も覆っていない。 蘭世は俊を起こさないように、そっと布団をかけ直してやる。 「あら?」 俊の前髪に何かが付いている。 不思議に思って、蘭世はそっと手をのばす。 何か楽しい夢を見ている俊の眠りを妨げないように、ゆっくりと静かに。
それはちょうど小指の爪ほどの大きさで、 ひっそりと輝く細い月の光のように密やかに、夜の闇の中に浮かんで見えた。 薄い灰色のような紫色。ほんのりと紅くもあって、白っぽい。 この不思議な色に、蘭世は出会ったことがあった。 毎年春の束の間だけやって来る花に。夜桜の色にそっくりなのだ。
しかしそんな事があるはずがない。 桜の季節はとうに終わっているし、第一近くに桜の木はなかったはずだ。 そんな思いが蘭世の頭の中をぐるぐると駆け巡っている。 蘭世の細い指先がいよいよ花びらを捕らえようとしたその時、どこからか入り込んできた風に吹かれて飛ばされてしまった。 まるでマジシャンのシルクハットの中にいれられた鳩のように、兀然と視界から姿を消してしまったのである。
一瞬の夢か幻でも見ていたのだろうかと、蘭世は一人で目を何度もぱちくりとさせた。 何も知らない俊はまだ夢を見ている。
透明な姿をした俊は、やがて二人とは逆の方向を歩き出す。 ぴんと背筋を伸ばし、決して振り向いたりはしなかった。
しょうがねぇから、認めてやるよ。 だけど、オレが大きくなるまではな。
かるさんへプレゼント。 かるさんが描かれたイラストにお話をつけさせて頂きました。 珍しくすんなりとタイトルをつけることができたような。
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