夢みたものは…

 

 

 

夢みたものは ひとつの幸福

願ったものは ひとつの愛

山なみのあちらにも 静かな村がある

明るい日曜日の 青い空がある

 

「俊、じゃあ行ってくるわね」

「うん。いってらっしゃい」

 

にっこり笑って手を振り、出勤前の母さんを玄関で見送る。

ゆっくりと閉じられるドア。陰りゆく笑顔。

ガチャリと重たい音を残して、俺は取り残された。

そして急に静まり返る部屋。

 

カチャ…カチャ…。

スプーンがお皿にあたる冷たい音。やけに大きく耳の中で反響する。

用意しておいてくれた昼食を、黙って口に運ぶ。

繰り返し、繰り返し。ほとんど惰性。まるでロボットだ。

母さんが作ってくれた食事なのに、味気ない。

だって独りで食べても、ちっとも美味しくないんだ。

テーブルの上にスプーンを置くその音も、また大きく響いた。

 

流しっぱなしのテレビの音。耳に障って消すと、再び訪れる静けさ。

自分は独りなんだって、嫌と言うほど教えられる瞬間。

たまらなかった。

 

本当は仕事に行かないでって、ずっと言いたかったんだ。

 

今日は日曜日。

窓からは歩いている親子連れが見える。

右手は母親と、左手は父親としっかりつながれて嬉しそうにはしゃいでいる。

どこへ行くのだろうかと、3つの影をしばらく眺めてみた。

気付かされる。一人の自分。

カーテンを勢い良く閉めて、背中を向ける。

そのままずるずると壁にもたれ、ぺたんと座り込む。

押し潰されそうな孤独感に負けそうで。

膝を抱えて、小さくなる。

 

「父さん」がなぜ自分にはいないのか。

訊ねようとしたことがある。何度も、何度も。

でも母さんの顔を見たら、いつも何も言えなくなった。

今日こそは、と思って

「母さん、どうして…」

夜遅く帰ってきた母さんに、戸口のところで待っていた俺はきいてみた。

「なあに?」

疲れているはずなのにそんな素振りを見せない。

それどころかにっこり微笑んで、

「お留守番、ありがとう。俊」

髪をくしゃっと撫でるんだ。

また何もきけなくなる。

言いかけた言葉の代わりに、咄嗟に出てきた言葉。

 

「…どうして…母さんは、強いの?」

 

思いもよらない質問に少し面喰らったのか、母さんは驚いた顔をしていた。

無理もない。言った本人が一番吃驚しているのだから。

どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。

困惑した表情の俺を見ていた母さんは、すぐにいつもの笑顔に戻って、

「そうね。守りたい人がそばにいてくれるからよ」

また髪をくしゃっと撫でた。

 

ただ寂しがってばかりいる自分が、すごく恥ずかしく思えた。

ぐっと拳を握りしめる。

「…でもこれからは、俺が母さんを守るよ」

心からそう思った。

一人前の男になって、あらゆることから母さんを守るんだ。

だって母さんは、女の人だから。

「父さん」の代わりに守るんだ。

 

母さんはそれから腰をかがめて、ちょうど俺の視線に合わせてゆっくり話した。

「ありがとう。でもね俊、あなたもいつかわかる日がくるわ」

「何を?」

「母さんと同じぐらい。ううん、それ以上に大切な人ができたら、きっとね」

そう言って、母さんは目配せをしてまた笑った。

 

その時はわからなかった。

母さんと同じぐらい、大切な人が他にいるんだろうか?

 

そして…。

 

オーブンから甘い匂いが漂う。

これは幸せの香り。

二人では食べきれないほどの。

 

「もうじきできるからねー」

 

キッチンに立つ蘭世は楽しそうに、何か鼻歌を歌っている。

もしこいつに出会っていなかったら、俺はまだ独りで膝を抱えていたのだろうか…?

 

頬杖をついて、その後ろ姿を見ながらなんとなくそんなことを考えてみた。

 

今日は日曜日。

窓からは歩いている親子連れが見える。

右手は母親と左手は父親と、しっかりつながれて嬉しそうにはしゃぐ子供。

あの日、背中を向けたけど本当は羨ましかったんだ。

だけど今、この手はまだ見ぬ新しい家族の一員とつながれるためにある。

 

おふくろ、今ならわかるよ。あの時の言葉の意味を。

 

「おまたせー」

両手にはめた鍋掴み。

蘭世が焼き立てのケーキを運んできた。

その顔は、どうやら出来栄に満足しているらしい。

 

『俺は非力だが、これからは俺におまえを守らせてくれ』

 

その気持ちはあの時と、何ら変わりはない。

おまえがいてくれたら、俺は強くなれる。

その笑顔は、ずっと俺が守るから。

ずっとずっと。

 

「どうしたの?何だか顔が赤いみたい…」

「何でもねーよ。喰おーぜ」

 

夢みたものは ひとつの愛

願ったものは ひとつの幸福

 

それらはすべてここに ある と

 

 


 

かるさんへプレゼント。

かるさんが描かれた「what a wonderful world」にお題を頂きました。

料理をしている蘭世の後ろ姿を見守るように見つめる俊、の図。

その瞳がなんとも優しくて暖かいのです。

大好きなイラストのうちの一つです。

 

作中で引用したのは立原道造の「夢みたものは……」です。

この詩も初めて読んだ時から、心に響いて残っています。

NOVEL