適度な温度に保たれた温室のような世界だと、カルロは思った。 枯れることのない花々はたった今花弁を広げたように、緩やかに風に踊る。 日差しは決して強すぎず、母親が乳飲み子を抱くようにいつも優しい。
人はその場所を楽園と呼ぶらしい。
ーーーー何か不満でもあるのか?
頭上遙か高い場所から声がした。カルロはおもむろに顔を上げ、眩い光に目を細めた。楕円形の光が少しずつ近づいている。
ーーーー穏やかな気候と、平穏な毎日が約束された、何の心配事もない世界に。
「生憎、真逆の世界で生きていたからな。慣れないのだ。慣れることはないだろうが」 シニカルに口元を歪めると、思い出したかのように煙草に火を灯した。
ーーーー成る程。ではおまえはどうしたいのだ?
ふ、と煙を吐いてカルロは動きを止めた。
「願いを叶えてくれるとでも?」 唇の端だけを上げて笑うが楕円の光を見つめる瞳は、全てのものを鋭く貫く矢のように鋭い。
ーーーーわたしは『神』だ
「知っているさ。あなたに不可能などない。そうだろう?」
ーーーー相変わらず、口の減らぬ奴だ。おまえの願いとは何だ?
「人間界へ戻してくれ」
ーーーーおまえの身体は失われている。元へは戻せない。
「わかっている。このまま戻れるとは思っていない」
ーーーーそうか。では転生ということでいいのだな。
「ああ」
ーーーー『ダーク=カルロ』としての記憶は全て消滅する。
「…仕方あるまい」
ーーーーここにいれば永遠を謳歌できるものを。物好きな。
カルロは口を閉ざした。餓えも寒さも争いもないのが永遠に続くのなら、望んでも手に入れられられない現実と向き合い続けることもまた、永遠なのだ。
生命の神は今すぐにカルロを人間界へ送り出すことはしなかった。 神は神なりの事情があるらしいが、よもや約束を反故にしたのではと疑いたくなるほど、ぷっつりと神からの連絡は途絶えた。
何の迷いもなく咲く花たちに囲まれて、また一人カルロは煙草に火をつけていた。この世界が禁煙ではなくて良かったと苦笑する。 澄み切った蒼に紫煙が溶けていく様を何をするでもなく見ていたが、もはや見慣れた感もある楕円が視界に入ってきた。
「短い間だったが、世話になった」 「ダーク、どうか幸せに」
波乱に満ちた道を経て、永遠の安寧を許された者たちに見送られ、カルロは目を閉じる。 完全に瞼が閉じられるまでのほんの一瞬、ランジェの姿を透かすようにして、黒髪の少女が見えた。 カルロはもう一度目を見開こうとしたが、瞼は意思に逆らい、もはや自由に開くことはなかった。
カルロの身体は緩やかに流されていた。相変わらず瞼は重くて開けられないが、不快感はなく、むしろ揺籃の中にいるような心地よさだった。
流れるような黒く長い髪、あのひたむきな瞳。次の人生ではまたおまえのような女性に惹かれるのだろうか。 しかし同じ人生ではここを離れる意味がない。そうだな、黒髪ではなくて…
水に溶けていくように、少しずつ記憶は薄れていく。 愛おしいもの、懐かしいもの、忘れたいもの、忘れたくないもの、全てを平等に消していく。 手放すには惜しい気もしたが、この選択が間違いではないとカルロは信じていた。
悔いはない。
目を閉じていても感じる強い光に、カルロは少しずつ目を開けた。
**************
真新しいカーテンの隙間から零れる朝日に目を細め、卓は目を開けた。
「何だったんだ、あの夢…」 片手で前髪をかきあげ、ぴたりと動きを止めた。
長い長い夢を見ていた気がする。しかし記憶は秒針が進むごとに、砂の城のように脆く崩れていくようだった。
上半身だけ起き上がったが、まだ頭がぼんやりと霞に包まれているような気がして、卓は軽く頭を振った。
「…卓?」 「悪い、起こしちまったな」 二人の体温で温められた一つの布団から、ココがむき出しの肩を出して半身を起こす。 温もりを封じるように卓はココの肩を抱き寄せた。空気を含んでゆるやかな波を描くココの長い髪がふわりと揺れた。
カルロ様は生まれ変わって卓になり、母とは見た目がある意味正反対のココを選んだ…おおぅロマンだ! ずっと見守るだけでは辛すぎますもんね。だから卓は幸せにならなくはいけないのですよ!!(力説)
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