美しく儚い時
長かった冬は去り、いつの間にか春が訪れていた。 巷ではすでに花見と称して、夜毎宴会が繰り広げられている。 はたして彼らが本当に、花を愛でているかはどうかは別として。
蘭世と俊も桜を見に行くことにしたのだが、元々人ごみが苦手な俊をきづかってか、 桜よりも人の方が圧倒的に多い場所は、避けることにした。
それは神社の境内にあった。
気が遠くなるような長い時間、ここで様々なことを黙って見てきたに違いない。 樹齢は測りしれない、 たった一本の桜の木。 大地に深く根ざし、太い腕を天高く広げ、その指先にまで無数の小さな花を咲かせている。 たわむれに吹く風は、ほんのりと色付いた花びらを惜し気もなく散らせていた。
二人はその圧倒的な存在に、しばし言葉を失った。
「ここへ来て、大正解だったね」 ようやく蘭世が言葉を発する。 「…ああ」
太い木の幹にもたれ、二人は腰をおろした。 見上げると、 青い空を覆い尽くさんばかりの、満開の桜。
「残念!お弁当持ってきたらよかった」 舞い落ちる花びらを手にしながら、蘭世が言う。
「おまえは花よりだんごだな」 俊はそう言いながら、すでにもう笑い声が口元から飛び出してきそうになっている。
「ひっどーい!」 蘭世は頬を膨らせ、俊をたたく真似をした。 そして目が合うと同時に二人は笑い出した。
「ねえ、今夜もう一度ここへ来てみない?」 「今夜?」 「そっ!今度は夜桜見物」 俊の返事を待つまでもなく、すでにそれは蘭世の中では決定事項となっていた。 仕方がないなと思いつつ、彼女のその嬉しそうな表情は俊に嫌とは言わせない。
日が沈み、空は宇宙の色に同化する。 昼間の太陽に代わって、今宵は満月が今年最後の桜を照らす。
ここはいわゆる桜の名所でもないので、ライトアップなどはされない。 しかしそれが却って月の輝きを際立たせている。 ただしこの見事な満月も、残念ながら今夜だけは脇役。
「月明かりって、ほんとに明るいんだね」 蘭世は立ち止まって見上げる。 そして俊より先に駆け出して、木の下へ入っていった。
桜の木は昼間と同じように、花びらの雨を降らせる。 しかし月光の下での爛漫の桜は、なぜか昼よりもっと美しく妖しく見える。
「おい江藤、待てよ…」
追い付いた彼は、桜の雨の中佇む彼女の姿に足を止めた。 足元は薄い桜色の絨毯が敷き詰められている。 風の悪戯は勢いを増している。 おそらく今夜で花は見納めになるだろう。
彼女の黒く長い髪は、桜色の風に吹かれてなびく。 蘭世は淡い光に包まれて、散り行く花を見上げている。 初めて見る彼女の横顔。 はかなくて、消えてしまいそうな。
そのまま風が彼女をさらい、闇にのまれて自分の前から永遠にいなくなってしまうような。 俊はそんな錯覚に陥り、言い様のない不安に襲われた。 たまらず駆け寄り、何も言わずそのまま彼女を抱きしめた。
「ま…かべ…くん…?」 きつく抱き締められて、少し苦しいほど。 蘭世は訳が分からず、やや戸惑いながら彼にしがみつく。
どれくらいの沈黙の中、こうしていただろう。 その間も花びらは静かに降り続ける。
ふと我にかえった俊は、ようやく腕をほどく。 「帰るぞ」
猛烈に襲ってきた照れを、彼女に悟られないように、くるりと背中を翻し、先に歩き始めた。 「ええっ!?もう帰るの?」 蘭世は慌てて彼の後を追う。
俊は振り返って背後の桜をじっと見つめた。 そして追い付いて自分の腕に飛び込んできた、いつもの蘭世の笑顔を見比べた。 「どうしたの、急に?」 「何でもねぇよっ!」
桜と女性。 昼と夜とで、違う顔を見せる。 そんな事は決して蘭世には教えない俊。
今年の桜よさようなら。また来年。
かるさんへプレゼント。 「桜と女性は似ている」というのがうちの夫の説。 それを勝手にお話のネタに拝借しちゃいました(笑) でも絶対に読ませたくはないなぁ。
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