時は流れても
夕暮れ時、彼は弾かれたような勢いで誰よりも早くボクシングジムのドアを開けた。 考えるよりも先に足は、家路へと急いでいる。 けれど2、3歩進んだ所でふと歩みを止めた。 「いっけね…」 彼は思わず呟くと、くるりと背中を向けた。 引っ越してからもう随分たつというのに、つい足が向いてしまうのは習慣というヤツだ。 思わず苦笑する。
気を取り直して走り出そうとした彼の足は、またしてもぴたりと止まった。 ふいに閃いた、ある考えに引き止められたのである。 ちょっとした気紛れ、とでもいうのだろうか。 懐かしいというほど時間は過ぎてはいない。 それでも彼を寄り道へと誘うのは、少しばかりの好奇心が芽生えだしたからである。 結論が出ると、今度こそ彼は目的地に向けて歩き始めた。 目をつぶったって辿り着けるほど、通い慣れたあの場所へ…
角を曲がったすぐのところに立てば、丁度かつての住まいを見上げることができる。 安いだけが取りえの、二階建ての古いアパート。 きっとあの頃、彼女はここに立って同じように見上げていたのだろう。 どんな想いで寒空の下、立っていたのだろう。 彼の記憶が過去へ遡るにつれて、初夏の風はいつしか冷たい北風に変わっていた。
いつも傍にいてくれる彼女の優しい笑顔。 そんな彼女から彼は逃げた。 誰よりも大切にしたい女性だからこそ、彼は彼女から背中を向けた。 泣き虫の彼女の事だ、目を真っ赤に泣き腫らすことになるだろう。 しかし傷つけることでしか彼女と関れないのなら、自分は傍にいるべきではない。 同じ世界では、もう生きられないのだから。 結論は出ている。 認めなくてはいけない現実を目の前に突き付けられた今、もう後戻り出来るはずもなかった。
そしてその瞬間から、彼の周りだけ風景は全ての色彩を失った。 手を離してみてわかる、その手の温もり。 独りの部屋でただひたすら、やり場のないいら立ちと後悔と自己嫌悪に苛まれていた。 荒れ狂う波が岸壁にぶちあたっては岩を削っていく。 それでも尚、打ち寄せることを止めないように。 もう二度と彼女の手を温めてやることも許されないのだ。 心の痛みを堪えつつ、ぐっと冷たい手に力をこめる。
彼はあの時の手の冷たさを、爪がささるほど握りしめた手の痛みも忘れてはいなかった。 二人の距離が元に戻っても、心の片隅に戒めとして残してあった。 彼女を自分のこの手で、誰よりも幸せにするために。 たとえどんなに辛いことがあったとしても、これ以上のことはありえない。 彼女を失うということに比べたら。
今まで彼女を守ってきた力は、やはり今も失ったまま。ただの人間だ。 彼を取り巻く状況は何一つ変わっていないのに、彼は満足していた。 トレーニングでくたびれ、更にバイトでヘトヘトになるまで体を酷使しても。 白い息を吐きながら、いつも家路を急いでいた。 目指す我が家に待っていてくれる人がいたからだ。 疲れも寒さもどこへやら、だ。 そんな照れくさい気持ちを必死に抑えながら階段を上る。 カン、カン、カン。 早くあの笑顔に会いたくて。一歩ずつドアに近づいていく。
当時の自分の姿を思い出しながら、彼はアパートの一室を見上げた。 明りの消えた部屋は、誰も住んでいないかのようにひっそりとしている。 彼の帰りを待っている人は、もうここにはいないのだ。 そろそろ帰ろうかと彼は思い、アパートに背を向けたその時。 「きゃっ」 という少女の声と同時に荷物が地面に四方八方に転がった。 「ごめんなさい」 慌てて謝りながらも、少女は散らばったじゃがいもやニンジンを袋に戻している。 見覚えのある紺色の制服姿。どうやら少女は彼の後輩になるらしい。 「いや、おれもよそ見してたし…」 彼はかがんで彼の靴のつま先にコツンとぶつかってきた玉葱を少女の手に渡した。 「ありがとうございます」 少女は恥ずかしそうに受け取ると、ぺこりと頭をさげて階段を上がっていった。 カンカンカンと、懐かしい音をたてながら。
少女はポケットから鍵を取り出し、やがてドアを開けて入っていった。 ごく自然に、当たり前に、彼がかつて住んでいたあの部屋に。 しばらくして息を潜めていた部屋は、今ようやく息を吹き返したかのように明りを灯した。
小さな驚きと共に、彼の中で止まっていた時計の針が動き出す。 最後に部屋の鍵を家主に返してからというもの、彼の記憶の中でだけ、あのアパートは時を止めていた。 実際は当然の事ながら、ちゃんと時間は流れている。 新しい住人がいても別に驚くようなことでもない。 ただ、彼の中ではまだそこはがらんとしたままになっていたのである。 少し寂しいような、ほっとしたような複雑な気持ちだ。
何を感傷的になってるんだ、まるでアイツみたいだよな。 くすり、と軽い笑みをこぼすと、彼は見慣れた町並みを後にした。
ひょっとして、少女は誰かの帰りを待ちながら今から料理をするのだろうか。 あの頃の彼女のように。 そしてその『誰か』は心を弾ませながら、小さな部屋に灯る小さな灯火を道しるべに家路を急ぐのだろうか。 あの頃の彼のように。
寄り道をした分、今日は帰る時間が遅くなってしまった。 自然と足が速まる理由はそれだけなのだろうか? 街灯は何も言わず、白い明りで彼を照らす。 やがて一軒家が立ち並ぶ住宅街に入る。 もうすぐだ。 新しい表札をかけたばかりの家が見えてくる。 庭付きの一戸建て。 それは若い夫婦が二人だけで住むには充分すぎるほどの広さで、 近い将来家族が増えても、というより増えることを見越して建てられてある。 未来の絵が浮かび、なんとなく面映い心地で彼は家の前に立つ。 明りが灯る家。それは誰かが自分の帰りを待ってくれている証し。
ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。 ドアノブをゆっくり回してドアを開けると、ぱたぱたとスリッパの音をさせながら、変わらない笑顔が彼を出迎えた。 「お帰りなさい、真壁く…ん、じゃなくて…えっと…」 勢い良く飛び出してきた言葉を止めようと咄嗟に彼女は口元を押さえるが、結局、指の間から続きが小さくこぼれ落ちた。 ついその呼び方になってしまうのは、彼女もまた習慣というヤツだ。
赤くなった頬を気にしつつ軽い咳払いの後、彼が言った。 「…ただいま」 「えへへ…お帰りなさい、あなた」 少し照れながら、一つ一つの言葉に気持ちを込めるように彼女が言った。 あの頃と変わらない笑顔のままで。
かるさんへプレゼント。 どうして俊の設定を人間のままにしてしまったのだろうと、今でも謎なのですが(苦笑) 変わることが必要な時もあります。 でも時が流れても、変わらずそこにあり続けるものはありますね。
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