飛べない天使
それは新居へ引っ越して、まだ間もない頃の話…。
「これ…何が入ってるんだ?」
俊が指差したその先にはまだ開けられていない段ボールが一つ二つ、部屋の片隅でこっそりとその存在を示していた。 「そ、それは…」 突然蘭世の表情がぎこちない笑顔に変わる。 それで全てを察知した俊は、蘭世が止めようとするその前に手早くあっさりと封を解いてしまった。
「…何だこれ…?」
出て来たのは葉書や手紙の束。しかも大量に。 あまりの数の多さに俊は閉口した。 そのまま何も言わず、ただ蘭世を一瞥する。
「だって、捨てられなくて…」 あきれ顔の俊を上目遣いにもじもじと言い訳をする蘭世。 それを横目に俊は気にかかっていたもう一つに手を伸ばす。 蘭世がまた慌てて止めようとしたが、もう間に合わない。 どうすることもできない代わりに、両手で顔を隠すように覆う。
「………」
もはや言葉が出ないのか、俊は黙ってそれを手に取る。 「それも大切なものなの!どーせ、子供みたいだって思ってるんでしょ」 真っ赤な顔で俊の手から奪い返す。 「大切?」 「そーよっ!想い出がたくさん詰まってるの。だってこれは……」
両親にせがんでの初めての外出は、夏祭りの夜だった。
その日、蘭世は待ってましたとばかりに、思いきり良くドアを開けた。 外に一歩踏み出した蘭世の肌を、ふわりと風が掠めて通り過ぎた。 日中の熱気をまだ帯びた空気にも少しだけ夜の訪れを感じる。 空には微かに残る茜色の雲が、徐々に隅の方へと追いやられつつあった。
初めて浴衣に袖を通した蘭世は、少し得意げに赤い鼻緒の下駄を音を鳴らせてみた。 からんころん。耳に心地よい音が響く。 しかし早く行きたい気持ちが、歩みに追い付かない。 それが何だかもどかしい。 そんな蘭世の横を通り過ぎる人たちは皆、大人も子供も楽しそうに歩いている。
ここは蘭世にはまさに異世界であった。 瞳に映るものも肌に感じる空気も、全てが新鮮で心を浮き立たせた。
神社の境内に続く道を挟み込むかのように、小さな屋台が所狭しと立ち並ぶ。 幾つもの電球や、提灯の明りが薄暗くなった辺りを照らし、人々を誘うように光の道を作る。 ソースが焼ける匂い、焼きとうもろこしの香ばしい匂い、ベビーカステラの甘い匂い。 足を踏み込めば、目移りするほどの数の店から蘭世の食欲を刺激してくる。
「何か食べるかい?蘭世」 「うーん…どれにしようかなぁ…あ、あれがいいな」
蘭世が指差したその先には、青空に浮かぶ夏の雲のように、真っ白でふわふわした綿菓子。 望里が小銭を渡すと、蘭世はやや緊張しながら駆けていった。 その後をゆっくり望里がついていく。
「あの、一つください…」 か細い声ではあったが、幸い聞き漏らされることもなく、綿菓子屋のおじさんは年期の入った手で棒をかき回し、漂う白い糸を絡み付けていく。 目の前で膨らんでいく雲を、まるで魔法でも見ているかのように蘭世は見とれていた。 「はい、お待たせ」 差し出された綿菓子は、蘭世の顔を隠してしまうほどになっていた。 「お父さん、見て!こんなに大きいの!」 雲の固まりからひょいと顔を出してみせて、蘭世はおどけて笑った。
あの雲もひょっとしてこれと味がするのだろうか。 見上げるとそこは、果てしなく広がる濃紺の夜空。 真っ白だった雲は夜の色に紛れてわからなくなっていた。 いつも窓から見上げるだけだった空は、本当はこんなに広いんだ。 蘭世は改めて驚いた。 「どうした蘭世、疲れたかい?」 急に歩みを止めたので、望里が心配そうに顔をのぞく。 「ううん、なんでもないの」 蘭世は元通りの笑顔に戻って、また歩き出した。
満月の光が見事に輝く頃には、徐々に人が増え始めそれほど広くない参道が混み合いだした。 蘭世ははぐれないように片方の手はしっかりと望里とつながれ、もう片方の手でぶつからないように綿菓子を運ぶ。
「まだ食べないのかい?」 「うん。お母さんにあげようと思って」 蘭世はにっこり笑った。 「それは食べてもいいよ。お母さんの分は帰りにまた新しいのを買おう」 そう言いながら、望里は優しく笑った。 「喉が乾いただろう?何か飲み物を買ってくるから、蘭世はここで待ってなさい」
望里は手を振ると、また人の流れに戻っていった。 残された蘭世はまだ手にした綿菓子に口をつけることもなく、ただじっと立っていた。 最初は目の前を通り過ぎる人たちを何となく眺めていたが、 なかなか望里は帰ってくる気配がない。 所在なさげに、手のひらに握りしめていた数枚の硬貨に目を落とす。
どうしよう…。少しだけならいいわよね?すぐに戻ってくればいいんだもの。
意を決したかのように、蘭世は先ほどからずっと気になっていた店へと向かって歩き出した。 すでにそこでは、数人ほどの子供達が列を作って順番を待っている。 蘭世はその最後尾についたが、その後ろにはまた新たな列ができ始めた。
青いビニールシートに等間隔に並べられた玩具。 子供達は真剣な表情で手にした輪を、目標を定めて投げる。 上手く輪が入れば品物は自分の物になる。 しかし目玉となる商品は当然のごとく、狙いにくい遠くの場所に置いてある。 そして蘭世のお目当てもまた、一番遠く離れた隅に置いてあった。
さほど待つ事もなく、蘭世の順番がやってきた。 輪は三つほど渡された。 片手にはまだ先ほどからずっと握りしめている綿菓子があるため、一つだけを手に取ると、残りは足元に置いた。
蘭世は狙いを定めて投げた…つもりだった。
浴衣の袖が邪魔をしているだけではなさそうだが、全く掠りもしない。 少し屈んでもう一つの輪を取ろうとした。
「それ、持っててやるよ」
後ろから声がしたのと同時に綿菓子は後ろの少年の手に渡り、驚いた蘭世の動きが止まっている間に、少年は蘭世の手に輪を渡す。
「投げにくいだろ、そんなの持ってたら」 「あ…りがとう…」 それだけが精一杯だった。 人間界の、しかも男の子と口をきくのはこれが初めてのこと。 言葉が続かない。 ただまじまじと彼の顔を見つめる。 年の頃は、蘭世と同じぐらいなのだろうか。 背丈は蘭世より少し高い。
「そいつの顔、覚えているか?」 蘭世の膝の上のそれをじっと見据えながら俊が話す。 「ん〜〜、さすがにはっきりとは…ちょっと待ってね、今思い出すから…」 蘭世は眉間に皺を寄せるほど目を閉じて、朧げな記憶を呼び戻そうとしていた。 しかしピントの合わないフィルター越しにのぞいたかのように、彼の顔は依然あやふやなまま。
だけどどこかで会った事があるような。 良く知っている誰かに似ているような。
でも、誰だったっけ…?
肝心の顔が思い出せなくては、どうにも前へは進めない。 蘭世は記憶を辿る事を断念し、話の続きを始めた。
結局残りの二つもことごとく的を外して終わった。 次は彼の番だ。 礼を言って預かってもらっていた綿菓子を受け取り、蘭世は戻ろうとしたが、去りがたい気持ちが、蘭世の足を引き止める。 邪魔にならない程度に距離を取り、蘭世はそこから彼を見ていた。
彼の放った一つめ。 それは狙った場所からは遠くへ着地し、次は手前に落ちてしまった。 彼の手から離れて輪が緩い放物線を描く度、蘭世の視線も同じように追い掛ける。 そして最後の一つが今、彼の手から放たれようとしていた。
輪は彼の手から離れてふわりと宙を飛んだ。
店の人からそれを受け取った彼は、あまり嬉しそうではなかった。 彼は男の子。縫いぐるみを貰っても嬉しいわけはない。 愛嬌のある二つの瞳を見つめ、ため息をついた。 そして少し困ったような顔の彼と、一部始終を見届けていた蘭世と目があった。 瞬間、彼は咄嗟に視線を逸らしたが、また何か思いたったのか再び蘭世をじっと見つめるとこちらへと近づいてきた。
「やるよ」 彼は獲得したばかりの品を蘭世に差し出した。 少し照れたように、ぶっきらぼうな態度ではあるが。 「?」 突然の申し入れに、蘭世はどきまぎした。
「あ…あの…」 何を言えばいいのかわからないまま、それでも蘭世の元に縫いぐるみはやってきた。
「じゃ…」 彼は背中を向けて立ち去ろうとした。 「待って…!!」 振り絞るような声で、蘭世は彼を呼び止めた。 その声に彼は走るのをやめて振り返った。 「これ、あげるわ。この子と交換ね」 蘭世はずっと手にしていた綿菓子を彼に差し出した。 緊張していた口元は、自然と弛んで笑みが浮かぶ。
「それで彼は最後にこう言ったの。おまえって…」 「ヘンなヤツだな、だろ?」 「!?」
思いもよらない先回りに蘭世は目を丸くした。 数回瞬きをして、何か言おうとしているが言葉が出ない。 俊は堪えきれず、やはりいつも通りに吹き出してしまった。 笑い出すと止まらないのは、これもまたいつも通り。
俊はまだ笑い続けている。 蘭世はちょっとむっとしながらも、徐々につられて笑顔が戻りはじめた。 あの夏の日の記憶が鮮明な映像として蘇り、目の前の笑顔と重なるまであと少しばかりの時間が必要のようだ。
その瞬間を膝の上のぺんぎんは痺れをきらせて待っている。
かるさんへプレゼント。 蘭世の部屋にあったあのぺんぎんの縫いぐるみは、こんな風にしてやってきたのであります。 …なんてね(笑) 幼い頃に実は2人は出会っていた、というパターンが(マンネリとわかりつつも)やっぱり好きなのです。
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