手のひらの星

 

 

夜の闇は真の闇。その深い懐に真っ白な魂を絡めとっていく。

流れ星が一つ流れたら、それは一つの命の終わりを告げにやって来たんだ。

一瞬の光のように、風に揺れる蝋燭の炎のように、人間の生命は儚いもの。

ほらごらん、また一つ星が流れたよ。

今、誰の命が燃え尽きたのだろうね…

 

長く伸びた老女の爪がなるみの喉元にゆっくりと近づく。

闇に紛れているのに、徐々に迫りくるその爪が怪しげな漆黒の輝きだとわかるのは何故なのだろうか。

目を逸らすことさえできずにいるままに、まるで烏の嘴のような爪がなるみの白い喉に触れた。

なるみは悲鳴をあげた。

しかしそれは喉のあちこちでぶつかった為に、掠れた声が漏れる程度だったのだが。

それなのにくっくっくと嗄れた意地の悪い笑い声は、なるみの頭の中にまで響く。

一刻も早くその場から逃げたいと思うのに、彼女の足は凍り付いたかのように動かない。

(助けて!鈴世くん!!)

なるみは闇の中でさらに強く目を閉じた。

 

次になるみが目を開けた時、まるで金縛りにあったかのようにベッドの上で固まっていた。

嫌な夢から解放された後に残るのは、疲労感と不快感だった。

目に見えない糸を解いていくように、ふーっとゆっくりと息を吐き出す。

だんだんと暗闇に目が慣れて、明りのない部屋の中が見えてきた。

確認するまでもなく、ここは悲しいかな彼女にとっておなじみの場所。病院の一室だ。

決して広いとはいえない部屋なのに、一人だともてあましてしまう。

そのくせ逃げ出したくなる程、息がつまりそうに感じてしまう。

 

そっと自分の左胸に手をあてると、規則正しい生命のリズムを刻む音がする。

大丈夫。まだ大丈夫。置いた手にもう片方の手をそっと重ねる。

心臓は彼女が眠っている間も怠ることなく、遮られることもなく動いていた。

時々ふいに襲ってくるキリキリと締め上げるような、氷のようなナイフで突き刺してくるあの痛みはまだない。

 

けれどあと何回こうして目を覚ますことができるのだろう。

生きているという安堵感のすぐ後を追って、不安は駆け足でやって来てなるみを捕らえる。

いつだってそうだ。なるみは両手で顔を覆った。

その隙間を一筋の涙が頬を伝って流れる。

 

『魂が抜けてからだが軽くなったら、空を飛んでお母さんのところへ行くの。だから死ぬのは怖くないの』

 

幼すぎたあの頃は、まだ本当の死の意味を知らずにいた。その怖さも。不安も。

生命の炎が燃え尽きると、あとに残るのは音も光も何もない。虚無の闇のみだ。

 

(嫌だ、まだ死にたくない!!)

 

なるみは布団を頭まで引き被った。

この静けさすら無言の圧力となって、なるみを押しつぶそうとする。

鼓動が速まった。はっと我に返ったなるみは布団から顔を出すとまた深呼吸をした。

むやみに刺激を与えてはいけない。

この我がままで壊れやすいガラス細工のような心臓は、最善の注意をはらってやらないと、すぐに癇癪をおこして発作を起こす。

 

ベッドのすぐ傍に置いてある時計を見ると、午前3時になろうとしていた。

夜明けまではまだまだ時間はある。体の為には眠らないといけない。

しかしなるみはどうしてもその気にはなれなかった。

永遠に目覚めることのない眠りに落ちていきそうで、彼女は眠ることを拒否した。

 

なるみは上半身を起こしてカーディガンを肩に羽織ると、スリッパに足を入れた。

(こんなとこ、婦長さんに見つかったらまた怒られちゃうかな)

一人でこっそり苦笑しながら、窓辺に立つ。

カーテンを静かに開けると、冴え冴えとした空気に包まれた夜空が広がっていた。

今夜は新月らしく、雲もないのに月はその姿を深い海の底のような濃紺色の中に隠してしまっている。

 

こんな夜は流れ星がよく見えるんだよと、いつだったか鈴世が言っていた。

流星、それは願いごとを叶えてくれる星。

もちろん小さな子供じゃあるまいし、それを鵜呑みにしている訳ではない。

それでもなるみは窓を開けた。流れ星を探そう。そして願いをかけよう。

たった一つの願い、鈴世と共に生きていく為に。

なるみは祈るような気持ちで空を仰いだ。

 

「そんな薄着じゃ、風邪ひくよ」

聞き覚えのある声が、誰もいないはずの病室に小さく響いた。

なるみは慌てて振り返る。

驚きの度を越すと、案外声は出ないものなのか。

なるみはただ口をぱくぱくと動かすだけだ。

「ごめんね、こんな夜中に」

そう言って、鈴世はにっこり笑う。

まるでかつての二重人格の頃の彼のように唐突な訪問だった。

「り、鈴世くん!?」

「しーっ!」

すらりと伸びた鈴世の人さし指が、なるみの冷たい唇に触れた。

そんな何気ない鈴世の仕種も、心臓病を患っている今のなるみには刺激が強い。

落ち着いていた鼓動がまた跳ね回ってしまう。

少し恨めしげに鈴世を見つめるが彼は気がついていないのか、表情を変えない。

 

「場所を変えようか」

「!?」

その言葉の意味がわからず戸惑うなるみをよそに、鈴世は涼しい顔で指をパチンと鳴らす。

 

「え!?」

なるみはただ目をぱちくりさせている。

無理もない。二人がさっきまでいた病室は一瞬で消え、今はふわふわした雲の上にいるのだ。

何がなんだかわからずになるみは絶句した。

鈴世と出会ってからというもの大抵のことには動じないなるみだったが、驚きの連続技に目眩がしそうだ。

目をつぶって頭を振る。まずは落ち着かなくてはいけない。

 

呼吸を整えると改めて、ぐるりと周りを見渡してみた。

なるみはこの場所を知っていた。

遠い昔にもこの場所にきた記憶がある。

黒装束に身を包んだ見知らぬおじさんが、優しく頭を撫でてくれていた。

あれはいつのことだったのだろうか。

 

「なるみ?」

いぶかしむような鈴世の声に、なるみはふと我に返る。

頭上には満天の星。音が聞こえてきそうな程、瞬いている。

「今夜は流星雨が見えるんだ。ほら」

鈴世が夜空を指差す。

流星雨―その名が示す通り流星が雨あられのように降り注ぐのだという。

その指に集まってくるかのように、一つまた一つ、滑り落ちるように星が流れていた。

「すごい、ホントに雨みたいだね」

ため息をつくようになるみがぽつりと呟いた。

この美しい光景を前にすると、何故ここにいるかなんてことはどうでも良くなってしまいそうな気がする。

事実、いつの間にか鈴世の姿が15歳ぐらいの姿になっていることになるみは気付いていても、それを当然と受け止めてしまっている。

驚くという感覚が麻痺してしまっているのだろうか。

目が眩むような出来事に頭がまだ追い付いていかないなるみをよそに、流星は銀色の尾を引いて夜の中へと消えていく。

 

「これだけあったら、どんな願い事だって叶うよ」

なるみは目を見開いた。

まるでその両の手のひらに、流れ落ちる星を受けとめるように広げながら鈴世は夜空を見つめている。

「鈴世くん…」

それ以上、なるみは言葉を続けることができなかった。

胸がいっぱいで声にもならない。

それと同時に夕立ち雲が広がるように、なるみの胸に不吉な言葉が過っていた。

 

『ほらごらん、また一つ星が流れたよ。今、誰の命が燃え尽きたのだろうね』

 

嗄れた老女の声。ゆっくりと目の前に突き付けられる長く鋭い爪。

なるみの体は小刻みに震え出す。

 

「なるみ、願い事は?」

天にかざしていた鈴世の手がなるみの頬にそっと触れた。

「無理だよ、鈴世くん。…どんなにたくさんあっても願いは叶わないわ。あたしにはわかるの。

あたしの命がもうすぐあの流れ星みたいに消えようとしているんだもの」

鈴世はただ黙ってなるみを見つめていた。

その心の奥底までも見透かしてしまいそうなほど、真直ぐな瞳で。

なるみは耐えきれずに咄嗟に目をそらした。

本心ではないと言っているのも同然だった。

 

「わかった…」

鈴世の手のひらがなるみの頬からすっと離れた。冷たい空気になるみははっとして顔を上げた。

「捕まえてくるよ。絶対消えない星を、ね」

「!?」

意味がわからずにおろおろしているなるみをよそに、鈴世はふわりとジャンプした。

かつて父親からもらったという、黒いマントが風に翻った。

夜の色を背景に、彼の金色の髪がさらに明るく輝く。

天まで届く程指先までぴんと伸びていた鈴世の手が、やがて何かをしっかりと掴んだ。

一瞬を閉じ込めた写真のように時間がぴたりと止まり、やがて風に舞う一枚の羽のようにゆっくりと降下してきた。

滞空時間が長いからなのか、彼の足が再び地面に戻るまでなるみにはとてつもなく長い時間のように思えた。

 

「鈴…世く…ん?」

なるみは彼の元へ歩み寄る。

彼の姿がまた若返り、丁度出会った頃のように戻っていることになるみは気が付いている。しかしなるみは驚かない。

「お待たせ、なるみちゃん」

鈴世はなるみを見上げて笑った。

「星は捕まえられた?」

なるみは少し膝を屈めて、彼の視線の高さに合わせた。

「うん。ほら!きれいでしょ」

少し得意げに差し出す鈴世の手のひらの中には、流星痕のように白く光る指輪が一つあった。

 

「これ…」

「この星は絶対に消えないよ。だからなるみちゃん、死んじゃだめだよ!」

鈴世はなるみの手に指輪を乗せると、その上から自分の手を重ねてぎゅっと握った。

必死に訴えかける言葉、眼差し。まるで初めて会った時のようだ。

 

「そうだね…」

またなるみの視界が涙でぼやけた。次から次へと雫が落ちていく。

なるみの手の中にすっぽりと隠れてしまう小さく細い輝きは、彼女の心を覆う不安の闇を一掃する。

そしてどんな暗闇でも恐れない強さを与えるだろう。この消えない星がある限り。

 

                   ***

 

「なるみちゃん、よく眠ってるね。どうする鈴世、帰ろうか?」

花瓶に花を活けてきた蘭世が、彼女の枕元から動こうとしない鈴世に声をかけた。

なるみは眠り姫のように瞼を閉じたままだ。

「仕方ない、出直すよ」

やや名残り惜しそうに、鈴世が立ち上がった。

その手には彼女への贈り物が隠れていることを、なるみはまだ知らない。

 


 

綾さんのところの「競作」に参加させて頂きました。

テーマは「夜」

そういえば鈴世となるみは今回初トライでした。

やっぱり一部の頃の方が書きやすそうです。

どこまでも一部世代;

NOVEL