天気予報は晴れ

 

 

午後の授業のあたりから雲行きは怪しかった。

澄んだ青い空に急速に広がる灰色の雲。

中間テスト前で部活は休みのわたしたちが学校の門を潜る頃には、その色をもっともっと濃くしていた。

いつ降り出してもおかしくない、と思っていたら。

 

「やべ、降り出したぞ」

隣で真壁くんが天を仰いだ。そうか、背の高い彼の方が気付くのが早いんだ。

妙な所で納得しているわたしはふと気付く。

「どうしよう、傘持って来てないよ。」

そうこうしている間にも、雨粒が乾いたアスファルトに次々に水玉模様を作っている。

 

真壁くんは、わたしの鞄を持った。

「走るぞ、江藤」

「やだ、ちょっと待ってよ真壁くんっ」

 

どこかの軒先を借りて雨宿りできればいいのだけれど。

どこかのお店でビニール傘でも売っていればいいのだけれど。

いくら走ってもそのどちらもない。

こんな時、テレポートできたらどれだけいいだろうと思う。

だけどこんな街中でできる訳もない。

 

結局真壁くんのアパートへ直行することにした。

理由は簡単。わたしの家より近いから。

だけどやっと屋根のある所に辿り着いた頃には、すっかり二人とも濡れ鼠のようだった。

 

汗なのか雨なのか、濡れた前髪が額に頬に張り付く。

水分を含んだ制服のスカートがなんだか重く感じられる。

ブラウスなんて絞ったら水がどれだけ出てくるかしら。

 

「ひでぇ天気だったな」

先に玄関のドアを開けて中に入っていった真壁くんから、真っ白なタオルが飛んで来た。

わたしは靴も脱がずに洗いたての髪を乾かすように、タオルで髪をはさんだ。

「バケツをひっくり返したような雨って、こういうことだったのね」

そう言いながら、とんとんとん、と根元から毛先へとタオルを動かす。

天気のいい日に干しておいたタオルは、太陽の匂いがした。

 

すっかり濡れてしまった靴下を脱ぎようやく部屋へ上がると、今度は着替えと新しいタオルが飛んで来た。

 

「風邪ひくぞ、着替えちまえよ」

 

背中を向けたまま、真壁くんは既にシャツを脱ぎはじめている。

無駄なものをすっかり削ぎ落としてしまったかのような背中が見えた。

どきん、と大きく心臓が弾けた。

初めて見た訳じゃないけれど、見慣れている、と言えば語弊がある。

だってボクシングの時は上半身は裸だよ。

それに赤ちゃんの時から見てるんだもん。そうそう、おしめだってわたしが替えたんだから!

だ・け・ど!そういう問題じゃないし。だいたいシチュエーションが違い過ぎるわ。

二人きりの部屋で、わたしも…服を脱ぐ。それも真壁くんのすぐ傍で。

平気でいられるはずがない。それとも真壁くんは全然気にしないの?

それって、わたしを女として見てないからなの?

あれ、でもあんまり気にされても困っちゃうかも…

次々に色んなことが頭の中でマーブル模様を描き出す。

 

「うん」

返事はしたものの、真っ白なシャツを手にしたまま動けずにいる。

そんなわたしの戸惑いなんて見透かしたかのように、

「後ろ向いてるから」

と、なんだか少し怒ったような声。また心の声が聞こえちゃったのかな?

慌ててブラウスのボタンを外す。

 

洗い晒しのシャツに袖を通した。やっぱりぶかぶか。

袖口をおらないと手が隠れてしまう。

ジーンズの裾だって、随分折らないと踏んづけてこけてしまうのがオチだわ。

両足を見下ろして、ロールアップの幅にため息をつく。

やっぱり真壁くんって、足、長いんだなぁ…。

 

きゅっと、自分で自分を抱きしめてみた。ふわっと香るのは微かに真壁くんの匂い。

こうしているとまるで、後ろから抱きしめてもらっているみたいで。

そんな想像だけでかなり幸せな気分に浸れてしまう。

ふと気付く。さっきまでのマーブル模様が嘘みたいに消えてる。

う〜ん、我ながら単純。

濡れた制服をハンガーにかけながら、心の中でくすりと笑った。

 

窓の外では相変わらず地面を激しく打ちつけている雨の音がしている。

硝子窓一枚隔てた外の音がよく聞こえる分だけ、部屋の中は静かだった。

わたしの心のなかの独り言が聞こえているはずの真壁くんは何も言わない。

この沈黙がなんとなく気まずい。

 

またくだらないコトを考えてるって、あきれてる?

だって不安なんだもん…

真壁くんは何も言ってくれないんだもん…

そうよ、あの時だって。

 

1、2、3…

 

無意識のうちに、心でカウントをし始める。

あの日、火照った顔を冷やすはずの雪は、絶望を連れて取り残されたわたしを覆い隠した。

言われた通りの数字を数え終え振り返ると、足跡だけを残して真壁くんはいなくなっていた。

周りの景色は白くなっていくのに、わたしの目の前だけは真っ暗で。

天国から一気に地獄へと叩き落とされた瞬間だった。

わたしは広がりはじめる不安を振り落とすように頭を横に振った。

 

もう、あんな思いはしたくない。

最後の数字を声に出したその時、真壁くんはまたいなくなってしまうの?

ううん、そんなはずはない。だけど…

 

4、5、6…

 

雨に濡れた服が体温を奪っていったからなのか、突然寒気が襲って来た。

冷たい空気は嫌だ。心まで凍ってしまった、あの日のことを思い出してしまうから。

なのに、どんなに抗おうとしても、意識があの日に飛んで行こうとしている。

しっかりと自分の体を抱きしめて、吹き飛ばされないようにしっかと踏みとどまっているのに。

また、すぅっと背筋を撫でるように冷気が通り抜けていく。

 

もう…ダメ…かも…

 

いつの間にかあれだけ激しかった雨の音が消えている。

その代わりに降るはずのない、音のない雪が何かを覆い隠そうとするように降りしきっている。

やがて訪れる真実を白く塗りつぶさんばかりに悲しく。

本当は数えたくなんかない。

だけど転がりだしたボールがどんどん坂道を転げ落ちていくように、もう止めることができない。

 

7、8、9…

 

 

「50!!」

 

真壁くんの声が、わたしを現実の世界へ引き戻す。

あの時と同じように、振り返ることもできないくらいきつく抱き締められていた。

真壁くんの温もりが、記憶の中でだけ降る雪を溶かしていく。

また外の雨音が聞こえはじめた。

 

ねえ、真壁くん。

最後の数字を数え終えても、そばにいてくれる?

 

「当たり前だろ!バカヤロー」

頭の上から、また怒ったような声。

でもわたしにはわかる。それは怒ってるんじゃないってこと。

「んもう!まーた、心のなかを読んだわね!」

わたしも怒ったふりをしてくるりと後ろをむいた。

叩く真似のつもりで振り上げた手がそこでとまる。

予想外の真剣な表情でわたしを見つめる真壁くんの顔がそこにあって、わたしは所在なげに固まったままの手を、力なくだらりとおろす。

 

「おれの居場所はここしかねーんだ」

「ここ…?ここって、ここ…?」

 

言葉の意味を真剣に考えていると、突然冷えきった唇に灯る、一瞬の熱。

わたしはゆっくりと目を閉じた。

 

心の中で万年雪のように覆っていた全ての不安が溶けて、溶けた雪の分だけ、涙になった。

外は雨。外れた天気予報に、今日は感謝。

 


 

ときめき文化祭に出品。

切ない名場面、雪の日の別れ。

事実を知って悲しみのあまり気絶までしちゃう蘭世なのですが、

いなくなった時点ではあんまり疑問に思ってないようです。

振り返った時いなくなられるのって、かなり辛いと思うのですが。

NOVEL