出発(たびだち)
家の前で二人はいつものように別れた。
「じゃあ、またあとで」
蘭世は彼を門の所で見送ると、そのまままっすぐ自分の部屋へと戻る。 ドアを閉めるとふうと一息ついて、ベッドの上に両手をついて腰をおろした。 住み慣れた自分の部屋をそこからぐるりと見渡す。 寒い夜暖めてくれた暖炉も、眩い日ざしが差し込むこの窓も何一つ昔と変わりはないけれど。
クローゼットの中にも棚の上にも、見慣れたものが何もない。 どこか落ち着かないのはこのせいだ。 蘭世の荷物は既に新居へほとんど全て運び込まれている。 目に入るのは空っぽの本棚の代わりに、先ほどまで袖を通していた純白のウェディングドレス。 今はハンガーに掛けられて、窓から入ってくる風に裾を揺らしている。 もうずっと前からそこに存在していたかのように、ごく当たり前に。 今朝から慌ただしく過ごしていた時間が嘘のように、束の間の穏やかな時がもたらされていた。
蘭世は思い返していた。 外の世界を知らずに過ごした幼い頃のこと。 初めての恋に胸をときめかせながら日記をつけた日のこと。 突然の別れに瞼が腫れるまで泣き続けた夜のこと。 その時はまさか今日という日がくるなんて、思いもよらなくて。 本当は今でも信じられない気持ちが半分、いやそれ以上占めている。 現実なんだけど、夢のようで。
幸せすぎる、から。
今日はいつも以上に涙腺がゆるくなっている。 じんと胸が熱くなり、また大きな瞳にいっぱいの涙があふれてきて、指先でそっと朝露のような雫を拭う。 (だめだぁ、さっき散々泣いたばかりなのに…) わかっていても涙が止まらない。
「蘭世ー。真壁くん…じゃなかった。だんな様がお迎えに来たわよ〜」
上機嫌なことこの上ないほどの椎羅の声がして、蘭世は静かに立ち上がった。 新しく耳慣れない呼称に、きっと彼は顔を真っ赤にさせて俯いているだろう。 その光景が目に浮かぶようだ。蘭世に再び笑顔が戻る。
小さな旅行カバンを片手で持ちドアノブに手をかけた時、蘭世はふと振り返った。 そしてカバンを一旦足元に置くと、蘭世は深々とお辞儀をした。 ゆるく波打つ長い髪が肩を滑り落ちる。
「お世話になりました」
ゆっくり顔を上げると、鏡台の上に置いてあった小さな鍵を手のひらの上に置いた。 はめたばかりの指輪と銀色の光が重なりあう。
「ただいま」と言って帰ってくる場所は変わってしまうけれど…
ま新しい鍵をぎゅっと握りしめて、蘭世は部屋を出た。
想い出は時間をかけてゆっくりと育つ結晶のように 蘭世の胸の中で今も輝き続ける。これからもずっと。
かるさんのサイトが閉鎖されるということで、今までのお礼に。 (その後復活なさってます) 時が流れれば変わりゆくものがある。 形が変わっても、心に残るものは何も変わらない。
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