藍色の闇の中、ぼんやりと白く浮かび上がるように咲く花の横を

雲に乗ったままジョルジュは通り過ぎた。

 

ーーー今年も、また咲いたか…

 

満開にはまだ少し早い、七分咲きの桜を眺めた。

「折角奇麗に咲いている所を悪いな」

小枝を手折り、ジョルジュは呟いた。

 

桜が咲くといつも心の隅にある風景が蘇る。

満開になった瞬間から散りゆく桜。

静かで穏やかな午後の日差し。

そして一組の老夫婦。

 

 

 

 

 

 

魂が現世での容れ物から羽ばたくように抜け出る瞬間、それは時間も場所も正確に定められている。

定めるのは尊き神で、現場に立ち会う一介の死神はその駒にすぎない。

 

懐から鈍い銀色の懐中時計を出したが、予定の時刻にはまだ早い。

ジョルジュはカチリ、と音をたてて蓋を閉めて顔をあげた。

死神は対象者の姿を、既にその瞳の中に捉えていた。

 

麗らかな日差しを受けて、一組の老夫婦が公園のベンチに腰掛けている。

夫人の方は視力を奪われているらしく、双眸を隠す程の濃い色のレンズが入った丸眼鏡をかけており、片手には細く白い杖を握っていた。

 

二人はさほど言葉を交わしている訳ではないが、ベンチ横に植えられている桜を含め、

その姿は微笑ましい童話の挿絵のように風景に溶け込んでしまっていた。

 

「貴女に見せてあげられないのが残念ですよ」

夫は頭上で咲く花を避けるように俯いて呟くと、夫人は童女のように微笑んだ。

「まあ、わたしにはちゃんと満開の桜を感じていますよ。頬にあたる風で。散った花びらに触れた指で。身体全部でお花見をしているんです」

少しの間宙を泳いで、彼女の手が夫の手に触れた。

 

「わたしの目は光を失ってしまったけれど、いつでも…」

夫は静かに目を閉じて、彼女の肩にもたれた。

夫人は一瞬表情を固まらせたが、すぐに柔らかく崩して言葉を続けた。

「いつでも…幸せでしたよ」

永遠に光りを失った彼女の瞳から、舞い散る桜の花びらのようにはらはらと涙が溢れては零れた。

 

殻を破って生まれたばかりの鳥のように、魂は金色に輝きながら導かれるままにジョルジュの元へやって来た。

どこか哀しげに微笑んでいる彼の表情が透けて見えた。

 

「悪いな、こっちも仕事なんだ」

わざと乾いた声で呟いたジョルジュは魂を袋へ誘導し、一刻も早くこの場を立ち去ろうと雲に乗り込んだ。

 

じゃり、と小石を踏む音がしてジョルジュは咄嗟に振り向く。

白い杖を左右に動かしながら、夫人が真っすぐにこちらに向かって歩みを進めていた。

人間には見えないはずのこの姿だ。偶然こちらに向かっているだけだ。

ジョルジュは自分に言い聞かす。

しかしベンチに「抜け殻となった」夫を置いたまま歩き出した、

夫人の真意が測りかねる。

じゃり、とまた音が近づいて、ジョルジュは息をのんだ。

 

気がつけば雲を走らせていた。

振り返りもしないで、ただ歯を食いしばっていた。

 

そして桜は散ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

年季の入った懐中時計が示す時間は、予定よりもまだ30分程前。

ジョルジュは灯りの消えた病室に立っていた。

特有のパイプベッドの上で白髪の老女が静かに眠っている。

 

「ようやく…迎えに来てくださいましたね…」

重そうに瞼を上げ、弱々しく老女は微笑む。

「こればっかりは俺たちではどう仕様もないんだ」

申し訳なさそうに、ジョルジュは頭を掻く。

「ふふ…死神からの謝罪も…悪くないわね」

「遅くなっちまった代わりに…って言っちゃなんだけど」

とジョルジュは先ほど手折ったばかりの小枝を、老女の手に握らせた。

 

「もう…そんな季節なのねぇ」

定まらない一点を見据えた光の挿さない瞳からは、あの時と同じように涙が溢れていた。

 

ジョルジュの時計がその「時」をもの言わず告げた。

 

「…時間だ」

カチリと音をたてて蓋を閉め、蛍火のように飛ぶ魂を招く。

 

皺が刻み込まれた頬に、一筋の涙が伝って流れていた。

その表情はまるで童女のように微笑んでいた。

閉め切ったはずの部屋のどこからか吹く風が、桜の花を吹き散らした。

花びらはくるくると舞い、「ありがとう」という声と共にやがて溶けるように消えた。

 

 

闇を照らす道しるべのような桜並木を抜け、ジョルジュは家路につく。

惜しげもなく花を散らせる風にあたりすぎて、少し身体が冷えてしまったようだ。

サリが淹れてくれるコーヒーの香りが恋しい。

今年も花泥棒になってしまったジョルジュの片手には、桜の小枝が握られていた。

 

 


 

春の花は様々あるのに、どうして桜にここまで心惹かれてやまないのでしょう。

梅とも桃とも違う。

桜特有の艶やかさやある種の妖しさが、

異世界を繋ぐ扉を垣間みさせるからなのかもしれません。

 

そして完全にわたしの趣味の話でスイマセン。

 

NOVEL