揺られ揺れる長い黒髪。

半身に水中を自在に翔る尾を持ちながら、今はその身を流れに委ねるのみ。

意識は遠く、深く。

沈みゆくその身体は、ゆるやかに地上の世界から遠ざかる。

異世界で暮らす王子への思慕を胸に抱いたまま。

 

目を閉じたままの人魚姫は、王子が彼女を追いかけて、懸命に手を伸ばしていることにまだ気がつかない。

 

「江藤!!」

 

聞こえるはずのない声が、耳ではなく胸に響いて人魚姫は僅かに目を開けた。

あともう少しで王子の指先が、彼女の指先に触れる距離までに縮まっていた。

 

「ま…かべ…くん」

 

呟いた唇から空気の玉が幾つか生まれて弾け、人魚姫は苦し気にきつく目を閉じた。

体中にまとわりつく水の抵抗と戦いながら、王子は更に手を伸ばす。

あと少し、あともう少し。

 

ようやく手首を捉えると、そのまま華奢な身体を引き寄せる。

そして口移しで空気を送った。

 

流れ込んできた空気は、人魚姫の体中を駆け巡りつつ、手枷足枷を粉砕していく。

 

身体がふっと軽くなった人魚姫は水の天上を見上げた。

乳白色の光が、一枚の絹を被せるように二人を、水の色を、全て白く変えていった。

 

ーーー眩しい…でも…あったかい…

 

 

 

 

蘭世が目を開けると、すぐそこには思いがけず俊のどアップがあった。

 

「きゃあぁぁっっ」

「うわっっ」

 

大きな目を更に見開き、目覚めたばかりにしては大きな蘭世の声と、俊が仰け反るようにして離れるのとはほぼ同時。

 

何が彼女の身に起こったのか、頬を朱に染めてただただ目をぱちくりとさせている蘭世には、まだ全てを理解できずにいた。

 

 

そして互いの声に驚き、互いに顔を赤らめている二人からやや離れた岩場の影で驚いて身を顰める小さな影が一つ。

 

ーーーあぁびっくりした。お姉ちゃんの声って響くんだもん

 

鈴世は飛び跳ねそうになった心臓のあたりを両手で押さえてしゃがんだ。

 

結局誰にも告げることなく、タオルや着替えだけをもって鈴世は戻ることにした。

誰かに話せばきっと事態はもつれた糸のようになるという危惧もあった。

しかし漠然とした予感ではあったが、命に別状はないのだと妙な確信めいた自信があったからでもある。

 

鈴世が戻って来た時には、既に俊は蘭世を砂浜に横たわらせているところだった。

「お兄ちゃん」と声をかけようとしたのだが、何やら入り込めない空気を感じ取った鈴世は挙げかけた手を下ろして、近くの岩場に身を寄せた。

 

やがて俊は砂浜に手をつくと、横たわったままの蘭世の顔を覗き込むような形でゆっくりと近づいていき、ぴたりと動きを止めた。

 

これはいわゆる「じんこーこきゅー」であると頭で言い聞かせるが、それでも心臓が尻尾を踏んづけられた犬のように飛び上がり、

これ以上は何だか見てはいけないような気がして、鈴世は背中を向けて三角座りをしていた。

 

 

 

 

 

鈴世が膝を抱えている時、何も知らない俊は蘭世が自ら呼吸しているのを確認し、ほっと一息ついていた。

 

「心配かけやがって…」

 

無事を確認できた途端に、疲労と一緒に腹立たしさがどっと押し寄せてきた。

元気に目を覚ましたら、ピンっと指先でその広い額を弾いてやろうか。

あるいはその白い頬を摘んで引っ張ってやろうか。

あるいは…

 

またしても突然、筒井圭吾の余裕の笑みが浮かんだ。

何故また…と俊は戸惑い半分、苛立ち半分で軽く舌打ちをする。

 

あるいは…

俊の視線がぴたりと止まった。

もう一度砂に手をつき体重をかける。

 

ほんの束の間、影は一つに重なった。

 

 

 

 

 

我知らず取ってしまった行動に対して、

秘密の味に酔う暇もなく

戸惑いや照れの猛襲に俊が身動きが取れなくなるのと、

何も知らない蘭世が目を覚ますのは、ほぼ同じ頃である。


 

こ…こんなに長くなるとはっっ

そもそも書き始めたのは、原作の「マウストゥーマウス未遂事件(事件?)」に刺激を受けたため。

おし!実現させてみせよーじゃないの!

意気込んで書いてみたのは良かったけれども、どうにもこうにも書けなくて、

まるっと全部削除して新たに書き直すということもありました。

苦節まる1年。ようやく書き上げました。

今は達成感で一杯です。

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