閉館を告げる鐘の音ではっと我に返ったサリは、胸にファイルを抱えて早足で家路についた。 それまでに書き上げていたシナリオは相棒に渡すと、サリは新しい原稿用紙を引出しから取り出した。
「あれ?サリちゃん、まだお仕事残ってたの?」 むしゃむしゃと原稿を胃袋に収めながらルルがのんびりと問うが、サリの神経は全てまだ真っ白な紙面に向けられていた。
ーーーあんたが夢魔の中で一番優秀だからさ
彼の死神らしからぬ(というとまた偏見だと注意されそうだが)うれしそうな顔と声がまた再生されて、ペンを握る手に思わずぐっと力が入る。 能力を認めてくれたことが素直に嬉しく思う一方で、胸がくすぐったいようでざわざわとするのは何故だろう。 この気持ちに名前はあるのだろうか。あるとするならば…
ぽたりと落ちたインクが、まっさらな紙に広がって黒い染みをつくる。
「いけない、考え事なんてしてる時間はないんだったわね」 ふうと一息つくと、ざわつく気持ちと一緒に紙をくしゃりと握りしめた。
死が訪れる瞬間、この世に未練も悔いも残さないで旅立てる者が全てだとは限らない。 死神の懐に入ることを激しく拒んだり、逆に魂が弱りきってしまい、死神が回収しきれない者もいる。手渡されたファイルの少女は、後者にあたる。 そんな彼女に見せる夢ーーー
それからどれくらいの時間が過ぎたのか、サリは書き終えるまでずっとペンを握ったままだった。 いつものようにエンドマークを入れて、原稿用紙を揃える。その音を聞きつけた相棒が、うきうきと入ってきた。
「サリちゃん、できたんだね!」 立ち上がって原稿用紙をルルに手渡そうとした時、また彼の声が蘇ってきてしまった。 「サリちゃん?」 ねじがきれた自動人形のように動かなくなってしまったサリを心配して、ルルが見上げる。 「…ダメだわ」 「え?」 「こんなんじゃダメだわ!」 サリは書き上がったばかりの原稿用紙を縦に横にと引き裂いてしまった。 「サ、サリちゃん!?」 パズルのピースほどに小さくちぎれてしまった紙片が宙に踊る。 もう少しでありつけるはずだったシナリオの成れの果てが空中に彷徨うのを、ルルは束の間、うらめしそうに眺めていた。
「ルル、お願い!わたしを人間界へ連れてって!!」 「…え?…ええっっっ!?」
状況がまだ飲み込めていないルルの背中で、サリは破り捨ててしまったシナリオのことを思い返していた。 出来は悪くないはずだった。けれど、彼のあの笑顔が浮かんできてしまうと、本当にそれでいいのか迷いがでてしまった。 もしも信頼してくれた彼に失望の色が見えたら。考えただけで胸がどうしようもなく痛んだ。
ーーーわたしは期待に応えたい。ただそれだけなのよ
「着いたよ〜」 ルルののんびりのほほんとした声に、サリの緊張の糸がほどよく緩んだ。 「ありがとう。おわったらまた迎えにきてくれる?」 「うん。サリちゃん頑張ってね」 もこもこの毛皮からちょっとだけ見える前足を振って、ルルは夜空へ消えた。
「筒井医院…ここね」 サリはファイルを開けて確認すると、窓からそっと忍び込んだ。今夜は新月。闇がサリの姿を包んでくれていた。
少女が静かに眠っているのを確認すると、サリは夢雲を引き出した。子供らしい大きく広がる雲ではあるが、弾力がない。 あまり時間はかけられないかもしれない。手早くファスナーを下げるとサリは少女の夢の世界へ入っていった。
先ほどサリが立っていた病院の庭によく似た木の下で、少女は座っていた。 「こんにちは、隣に座ってもいいかしら?」 「どうぞ」 少女は微笑むが、夢の中ですら生気がない。今にも消えてしまいそうな、触れたら崩れてしまいそうな儚さがある。
暑くもなく寒くもない、時おり風がすり抜けていく。 このままぼんやりと何も考えずにいたら、きっと眠ってしまいそうな空気だ。だがサリはここで眠るわけにはいかない。
「えっと…」 「?」 何か言わなければと思うが、元々子供とあまり接したことがないサリは会話の糸口がさっぱり見えない。 「あ、あなたの名前は?」 「市橋なるみです。お姉さんは?」 「わたしはサリ。よろしくね」
精一杯の笑顔を作ってみせるが、その後の会話が続かない。無謀だっただろうか。何のプロットも用意しないで夢の中に乗り込んでくるなんて。 しかし来てしまったのだから、やるしかないのだ。サリはとにかく思いつくまましゃべることにした。
「ねえなるみちゃん。何かやりたいことはない?」 なるみは青白い顔に微かに笑みを浮かべるが、黙って首を横に振る。 「どうして?今すぐ大人の姿になってみたりとか、空を飛んだりとか、何だってできるのよ!?だってわたしは…」 「お姉さん、魔法使いなの?」 大きな瞳を見開いて、なるみがサリを見つめた。自分は夢魔だと言いかけたが、この際魔法使いでもいいだろう。 「そうよ。一緒に空でも飛んでみる?」 「うん」 初めてなるみが子供らしい笑顔になった。
サリが立ち上がってなるみの手をとる。 「じゃあ行くわよ」
ふわり。地面を蹴って、高く高く舞い上がる。いつも過ごしている病院を見下ろすまでになった。 なるみの家、小学校、全部が小さく見える。ぐるりと町内を一周してまた病院の庭にランディングする時には、なるみの瞳に輝きが戻っていた。
「楽しかった?」 「うん!ねえお姉さん、わたしも一人で飛べるかなあ」 なるみがついさっきまで遊んでいた空を見上げる。 「飛べるわよ」 「ほんとに!?」 「だってあなたには羽があるんだから」 サリがなるみの背中を指差す。そこには花嫁のヴェールのような薄い羽があった。 太陽の光で玉虫色に変化する美しい羽を広げるのを見て、なるみの頬に自然な赤みがさす。 しかしその姿が薄れてきている。じきになるみが夢からさめてしまうらしい。 「だけどまだダメよ」 今にも飛び立とうとするなるみの手をサリが止める。 「あなたの羽は、これまで流した涙の分だけ濡れてしまっているの。無理に飛んだら破れてしまうわ」 「どうすれば乾くの?」 「もっと心から笑いなさい。そうすれば羽が乾いて飛べるようになるわ」
言い残してサリは夢雲から飛び降りた。一息つく暇もなく、なるみの目覚める気配に気づいたサリは窓から飛び降りた。 その先には相棒が待っていてくれていて、柔らかな天然のクッションに迎えられた。 肌触りのいい毛並みに顔を埋めていると、少しずつ生気を取り戻していくなるみの様子を思い出し、サリもまたようやくほっと息をつくことができたのだった。
「サリちゃんお疲れさま。お仕事どうだった?」 ルルの優しい声が身体に響いて伝わる。強ばっていた身体から力が抜けて、眠気が訪れそうになる。 「そうね、たぶん成功したと思うわ。だけど即興劇はもうコリゴリだわ」
「おれはまた見てみたいんだけど」
頭上から聞き覚えのある声が降ってきて、サリは反射的にルルの毛皮から飛び起きた。夜の闇に、彼の装束はとてもよく馴染んでいた。 憎らしいほどに。そして彼の職業らしからぬ人好きのする笑顔で、暢気に手を振っている。
「死神っっ!!あんたいつからここに!?」 大声を出すわけにいかないので、サリは歯ぎしりしながら睨みつける。が、彼は全く意に介さない。 「いつから…っていうとまあ、最初から?まあまあ、こんな所で立ち話もなんだから」 死神はルルのお尻をぽんぽんと叩き、出発を促す。ルルは心得たとばかり、ふわりと宙に浮いた。
相棒の背中に横座りで腰掛けながら、寄り添うようについてくる死神の姿をちらりと見やる。 彼らの仕事道具である大鎌は持って来ていないところをみると、今日は非番だったらしい。
「ご苦労さまだこと。わざわざ休みの日まで、人間界へ来るなんて」 「…あの子さ、全然笑わない子だったんだよな」 つい皮肉めいた口調になってしまうサリは、言葉を手放した瞬間に後悔したのだが、彼がいつになく真剣な表情になっているのに気づいた。 「ただ死ぬのを待ってるだけのあの子に、何か希望を持たせてやるのも残酷な話だけどさ。だけどせめて残された時間は、笑っていてほしかったんだ」
『神』と名前に冠してあれど、彼らには魂を狩ることしか許されてはいない。神はもっと傲慢で厳しい。 彼のような優しい者には務まらないのかもしれない。けれどサリは彼が死神であってよかったと思う。 死が訪れた後、最初に出会うものが彼のような死神であればとも思う。
「死神のくせに、優しいのね」 「そう、おれって優しいの…って死神のくせには余計だろ」
そしてまたいつもの表情に戻った彼を見て、サリは微笑んだ。死神らしくない死神に、調子を狂わされる夢魔がいてもいいかもしれない。
「ねえ、名前教えてよ」
いつになく柔らかな表情のサリに、死神はほんの少し息を飲み込んで片方の頬を指で掻く。
「…ジョルジュ」
彼の名前がサリの胸の中で温かな音となり、甘やかに奏でて響かせる。 しかし新たに湧き起こるこの感情に、やはり名前はまだつけないでおこうとするサリだった。
最初はサリが夢のシナリオを普通に書き上げて、夢に登場するのは鈴世だったんです。 でもこの時まだサリが鈴世のことを知るはずがないし、鈴世となるみがまるで夢で操られて恋に落ちるみたいになってしまうので、ボツにしました。 そうすると全てサリにやってもらわなくてはいけなくなったその結果の、即興劇(インプロブ)です。
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