夏と風と少年の夢

 

肌を突き刺すような強い夏の日ざしを柔らかく変えてくれる濃い緑の葉の下、蘭世は耳の奥まで響いてくるような蝉の声を子守唄にしながら居眠りをはじめていた。

いや、つい先ほどまでは起きていたのだが。

 

「ねえ俊くん、今日の晩ご飯何にしようか」

「そうだな…おれは別に…」

何でもいいよと言いかけて、「な」の口のまま固まる。

 

マジかよ…

 

先ほどまで強い日ざしに目を細めていたはずの蘭世の両の瞼は深海で眠る貝のようにしっかりと閉じられ、

小鳥のさえずりのような声を発していたはずの口もまた今は真夜中の月のように静まり返っている。

 

…よく寝てられるよなぁ…こんなうるさい中…

 

俊は両膝を寄せその上で頬杖をつきながら、隣の蘭世を横目で半分呆れて、半分感心して見た。

蘭世は木の幹を背に、すやすやと寝息をたてている。

軽く被っただけの麦わら帽子が今にも滑り落ちそうだ。

 

しょうがないなあ。

 

苦笑しつつ、俊は蘭世をそのまま眠らせておくことにした。

まだ日は高く、二人を涼ませてくれている木の影はくっきりと濃い。

暑い暑い昼の日中、こんなに気持ち良さそうに眠る蘭世を起こすのが忍びないのだ。

 

木陰を抜けていく風はそよそよと心地よく、海が近いせいか潮の香りをどこか孕んでいる。

ここは筒井圭吾の父親が所有する別荘だ。

赤ん坊からずっと生活しているが、何故筒井のお兄ちゃんの別荘で暮らしているのか、その理由を知ったのはつい最近のことだった。

 

自分が魔界の王子であること。

そして実の父親に命を狙われていること。

4才の頃ではまだ理解できなかったことが、今は全てわかるようになった。

今、自分が何をすべきか。今の自分に何が求められているか。

 

ただ、彼女が話す16才の自分はまだどこか遠い存在でしかなかった。

同じ学校で同じクラスで、机を並べていた頃の事などは何も知らない。

かつて確かに存在していた「真壁くん」の存在が、どれだけ蘭世にとって大きいか。

それは嫌でもわかった。

彼のことを語る時の少し寂しそうな、それでいて幸せそうな瞳を見れば全てがわかってしまう。

蘭世は会いたいのだ。彼に。いや彼だけに。

真壁俊本人である自分が目の前にいるにもかかわらず。

 

じゃあ、おれは誰だ?

真壁俊はどっちだ?

 

成長すればそれまでの、人間として暮らしてきた頃の記憶も戻る。

しかしそれ以降のことは、何一つわからない。

母や鈴世、そして蘭世。

周りの人だけが知っていて、自分だけがわからない。

「真壁くん」は見えない敵。どんなに手を伸ばしても届かない。

やみくもに手を振り回しても、掴むのは虚(うろ)。

勝ち目なんてあるはずがない。

 

「真壁俊」は紛れもなくおれなんだ。だけど…

 

沸き上がってくるいら立ちをもてあまし、手直にあった草を引きちぎって思いきり空中へ投げ捨てた。

真夏の強い光を浴びた葉は、時折白く光りながら俊の目の前ではらはらと舞い落ちた。

何かが解決するわけでもなく、残ったのはやるせない虚しさだけだ。

誰よりも守りたい人なのに。

こんなに近くにいるのに。

 

「おれじゃ、だめなのか…?」

思わず口に出してしまった言葉と、瞳から知らないうちに流れてきた雫が一緒に零れた。

塩辛い水滴は、乾いた地面に吸い込まれるように消えた。

その痕跡を消してしまうように、乱暴に手で頬を拭ってぶるぶると頭を振る。

 

さっきから浮かない表情ばかりの俊を見るにみかねたのか、

風が隣の蘭世が被っていた麦わら帽子を飛ばし、俊の頭を撫でるように過ぎていった。

濃い青を背景にしてスローモーションのように飛んでいく帽子。

片手でそれをキャッチすると、ふわりと蘭世の髪の香りがした。

同じシャンプーを使っているはずなのに、何故だか彼女からは特別ないい匂いがする。

 

なんだかくすぐったい気分になって、そのまま目深に被ってみた。

それでも隠しきれない俊の顔の赤さは、外が暑いからではない。

遮られてできた薄い闇の中、蝉の鳴き声だけが響く。

まるで時の神様の時計が止まってしまったかのような時間が流れる。

時が止まればいいのか。

それともうんと早まわしにしてほしいのか。

どっちにしたって、自分が変わらなければこの距離は永遠に続く。

 

…おれはおれだ。考えてもしょーがねぇ。

 

目を閉じて息を吐く。一緒に苛立ちや不安も吐き出してしまえそうな程深く、長く。

再びゆっくりと目を開けると、眩い光に思わず目を細めた。

そしてもう一度目を閉じた。

色んな事を考え過ぎて、少し疲れてしまったようだ。

目を開けるのがなんとなく億劫な気がして、しばらくそのままでいた。

相変わらず鳴いている蝉の声が、だんだん遠ざかっていく。

潮が引いていくように、意識もやがて遠くへと引きずられていく。

俊の呼吸はやがて寝息へと変わっていった。

 

 

 

俊は見知らぬ家の中にいた。

ここはリビングで、片手には普段読む事もない新聞がある。

疑問に感じる余裕もないまま、あくまでも自然に、あたかも毎日そうしているかのように、俊はソファに腰をおろす。

そして新聞を広げて目を通していると、元気のいい声が聞こえてきた。

 

「お母さ〜ん、髪結んで〜」

どたどたと廊下を走る音が響いて、遠ざかる。

「ごめんね、お母さん、今手がはなせないの」

離れた所から、また声がした。

その澄んだ声。どこかで聞いたことがあるような、ないような。

 

先程とは打って変わった元気のない足音が近づいてきた。

「あ、おはよう。お父さん」

自分に向かってにっこり笑いかけてくるのは、足音の主。

スポーツ欄から顔をあげると、誰かにそっくりの顔が覗いている。

「おはよう」

俊は新聞を閉じ、どこか見覚えのある女の子の髪を撫でる。

「お母さん、お弁当作ってくれてるの。だから忙しいんだって。だけど今日は三つ編みにしてほしかったんだけどな…」

艶やかに光る豊かな黒髪が、俊の良く知っているあの人とオーバーラップする。

 

「編んでやろうか?」

言ってしまった後で、自分で驚いた。

「ホントに!?」

けれども雲間からのぞく太陽のように輝く笑顔には、やっぱり適わない。

「上手くできるかはわからないけどな」

そしてくしゃくしゃと、頭を撫でてやるとまた笑った。

 

それから暫くして、ぱたぱたとスリッパの音が聞こえてきた。

「ごめんね愛良、今終わったから…あら?」

エプロン姿のその人は、やはり変わらぬ美しい黒髪で。

俊は懐かしさに似た気持ちで彼女を見上げた。

「エヘ。お父さんに編んでもらったの」

と小さな蘭世がお下げ髪を揺らしながら、母親の周りをくるりと一周した。

「あらあら、編み目が…」

彼女が苦笑しながらこちらを見る。それを同じく苦笑で返す。

一生懸命やってみたものの、初めてなので思ったようにはいかなかったのだ。

 

そこで画像が薄れてきた。もうすぐ目を覚ますらしい。

 

…なんなんだ、今の夢。

 

ぱちっと目が覚めた俊は辺りを見回す。隣では相変わらず蘭世が気持ち良さそうに眠っている。

そう、あれは夢。でも触れた髪の感触は今もはっきりとこの手に残っている。

見たばかりの夢を思い返して自分の両手をじっと見てみた。

風は悪戯に蘭世の髪を誘うように揺らす。

 

「三つ編みはね、最初にきちんと三つに分けないとダメなんだよ」

水面に次々に広がる輪のように、女の子の声が記憶の中から蘇ってきた。

 

アイラ…っていったっけ

 

俊はおもむろに手をのばして、蘭世の髪に触れた。

一すくいして手にとった彼女の髪は、絹糸のようにしなやかで。

夢で教えられた通りに等分にすると、それぞれの束を交互に編み出した。

 

「ん…」

蘭世の瞼がぴくりと動き出した。

 

俊が掴んでいた手を離すと、髪はするするとひとりでに慌ただしく解けていった。

もう一度風が吹いて蘭世の髪をとき流すと、最初から最後までそうであったかのように元に戻った。

何一つ、痕跡を残さず。まるで夢のように。

 

そしてようやく蘭世が目を覚ました。

「ごめんね俊くん、すっかり眠っちゃって」

返事をする代わりに、俊は預かっていた麦わら帽子を自分の頭から蘭世の頭へすっぽり被せて笑った。

 

「行こうか」

先に立ち上がった俊が手をのばす。

「うん」

にっこり笑った蘭世がそれにつかまって立ち上がる。

華奢な肩先や背中で、髪が跳ねるように揺れた。

 

さっきよりは、上手くできたのかな?

今はすっかり元通りのまっすぐな蘭世の髪を見ながら、こっそりと俊は心の中でひとりごちた。

 

「うん!」

蝉の大合唱の合間をぬって、世界中の時計の針が止まった瞬間聞こえたのはあの子の声。

それはまたしても風の悪戯だったのか。

答えはまだまだ遠く感じる未来の自分に、そしてその大切な家族の一人にきいてみよう。

それはきっとまだ「真壁くん」でも知らないはずだから。

 


 

kauranさんへプレゼント。

サイト開設一周年記念…なのですが;

アップが11月なのに思いっきり夏の話になっておりますm(;∇;)m 

元ネタは扉絵にあったイラストです。

すんごく好きなイラストなので、ついこんな話を思いつきました。

やっぱり少年、俊というのが自分のツボのようです。

 

→NOVEL