鏡にご用心

 

重い瞼を徐々に開けていくと、心配そうに覗き込む蘭世がいた。

疲労の痕跡が、透けるような白い肌に青い影を落としている。

そこから俊の視線を逸らせるかのように、蘭世は微笑む。

「おはよう。気分はどう?」

「…おまえ、寝てなかったのか?」

起き上がろうとする身体を、蘭世の手が制する。

「ダメ、まだ寝てなくちゃ。熱がまだ下がってないんだから」

この部屋に体温計なんてものはなかったはずだが、と俊が心の中で呟いた。

が、蘭世の冷たい手のひらが額に添えられるように置かれると、たしかに心地いい。

そのか細い手に、熱が吸い込まれていくような気がする。

まだ起き抜けのぼんやりする頭で、あれこれと考えているうちにまた眠気が襲ってきた。

動こうとする意志とは逆に、身体はまだ貪欲に睡眠を要求していた。

 

「悪い」

重みに耐えきれず、既に瞼は閉じられた。

そのまま倒れこむように横になると、背中から駆け昇ってくる寒気が肩口まで覆う。

自分で掛け布団を引っ張ることさえ億劫になっていると、適度な重さと温度が身体を包んでくれた。

この感覚は覚えがある。

そうだ、おふくろがこうやって布団をかけてくれてたっけ…

昔の記憶が懐かしい映像を映しているうちに、俊は再び深い眠りの中へと落ちていった。

 

次に俊が目を覚ましたのは、白くたおやかな指が俊の額に触れようとした時だった。

朦朧とした意識はそれを蘭世と認識したのだが、それを慌てて否定する。

「起こしてしまったかしら?」

霞が風に流れて消えていくように、視界が鮮明になった。

ぬるくなってしまったタオルを替えようとしていたのは、彼の母である。

今日はいつもの中世のヨーロッパを思わせるあのドレス姿ではなく、人間界用のスタイルだ。

彼にとっては懐かしい姿だった。

 

「これがメヴィウスが処方した薬です」

「サンキュー…水薬か、なんだかガキの頃を思い出すな」

苦笑いで受け取ると、瓶の中の半透明の液体がたぷんと揺れた。

幼い頃風邪をひくと決まって飲まされた、あの甘くて苦い奇妙な味が口の中に蘇って俊は口元を歪めた。

「大丈夫よ、メヴィウスが言うには普通の味らしいから」

ターナはくすくす笑いながらコップに水を注ぐ。

バツが悪そうなかおで俊は鼻を摘んで一息に飲み干すと、ターナから手渡された水も一気に流し込んだ。

「子供の頃と変わらないわね」

またターナが笑った。

 

「薬が効くまでには少し時間がかかるから、もう少し眠っていなさい?」

「いや、今から学校へ行くよ。本当はおふくろだってこの日の為に来たんだろう?」

「そうね。だけどあなたの身体の方が大事なのよ。珍しく俊が誘ってくれたのは嬉しいことだけど」

ターナは目を伏せた。

その言葉には少しだけ間違いがある。

事情を知ったアロンがターナに人間界へ行くように勧めたのだ。

もちろん俊から言付かったのだという言葉も添えて。

 

 

 

 

その事情とは…。

今日は聖ポーリア学園の文化祭である。

そして俊と蘭世は演劇部の客演することになっていた。

 

「真壁くん、江藤さん…このままでは進級が危ういのです」

ある日呼び出された二人を待っていたのは、シスターのこんな一言からだった。

 

将来はプロボクサーという確固たる夢を持つ俊と、彼の夢を応援することが夢の蘭世。

元々体育以外の成績は中学時代から可愛い数字のままの二人。

試験を受ければ赤点続き。

先日の追試の結果、進級に必要な単位を取れるかどうかという瀬戸際にあるというのだ。

 

これにはさすがの二人も顔を見合わせるが、言葉もない。

シスターはため息をつきながら、言葉を継ぐ。

「こんな事は学園創立以来、あまり例はないのですが…」

 

 

 

 

「だからなんでおれがこんな格好しなきゃなんねーんだよっ!!!」

「だって主役ですもの」

「だからなんておれがっ!!!」

 

今年の演劇部が文化祭で行うのは、『ロミオとジュリエット』に決まった。

半ば女子高のような聖ポーリアでは男子部員が圧倒的に少ない。

まして主役をはれるような容姿となると、かなり厳しい。

シスターから俊と蘭世が客演するという話を聞いた部長は、ほくそ笑んだという。

 

多数決という俊にとって残酷な手段は、有無を言わさず彼をロミオ役へ決定づけた。

その後ジュリエット役にすんなり落ち着いた蘭世とは、好対照の反応を見せている。

 

蘭世は台本をぱらぱらとめくってみた。

主役ともなれば、当然出番も台詞も多い。

必要にせまられて薬師寺ひろみの姿を吸い取った時とは訳が違う。覚えられるだろうか?

眉間に皺を寄せて悩んでいる蘭世を見た部長がくすりと笑う。

「大丈夫よ江藤さん。プロンプターを用意するから」

「プ…ロンプ…ター??」

「ん〜〜、歌舞伎でいうと狂言方なんだけど。簡単に言えば陰でこっそり台詞を教える人のことなの」

「へぇ…」

心配事が解消された蘭世は安堵の笑みを浮かべるのだが、俊はそういうわけにはいかない。

 

「やっぱり真壁くん、似合うわね〜」

女子部員たちがため息をついてうっとりしている中、俊は憮然とした表情で腕組みをして立っている。

『やっぱり』ってどういう意味だよ、と心の中で毒づいていた。

彼が着せられているのはロミオの衣装。

魔界の正装に比べればまだ地味な方に入るのだが、彼にとってはどっちもどっち。

「ねえ、メイクしちゃダメ?」

「ダメだっっ!!!」

 

そんなやり取りに蘭世は苦笑しながらも、本当は嬉しくて楽しくて仕方がない。

既に頭の中では美しくも哀しい二人の悲恋を自分達にあてはめては、薔薇色の妄想の世界に入るのである。

 

俊も気を取り直して台本をめくってみたが、適当な一行を拾い読みしては息をつまらせた。

『ああ、愛しのジュリエット。あなたは何故美しいのです?』

こんな歯が浮くような言葉を大勢の前で言わなくてはならないのか?

『ではわたくしの聖女さま。手にお許しになることなら唇にもお許しくださいませんか

 願わくば許したまえ…わたくしの…唇の祈りです…これが…』

真っ赤になった俊はそのまま台本を握りつぶしてしまいそうになった。

ロミオとジュリエットが悲恋の物語ということは知っていても、

具体的には興味がない故に何も知らなかった俊である。

勿論、文化祭の舞台で本当に接吻するわけでないことはわかる。

が、その真似事はしなくてはいけないということだ。

それもまた大勢の見ている前で。

 

俊はもう少し勉強もしておけばよかったと、今更ながら後悔をしていた。

不足している単位は文化祭終了後、取得が認められることになっている。

放り出して逃げだすことは許されなかった。

 

もつれる舌を噛みそうになりながらも、台本を読むことから練習は始まった。

まるでカタコトの日本語を喋る外国人のように、たどたどしい。

これは罰ゲームか?それとも拷問か?

 

練習を終えた後、ふらふらになりながら俊は帰路についた。

クラブに出てから土方のバイトに行っても平気だというのに、この全身に広がる倦怠感はなんだろうか。

それと引き換え、隣を歩く蘭世の足取りの軽さはなんだろうか。

 

「おまえ、楽しそうだな」

俊は皮肉めいた視線を向けたのだが、蘭世は言葉通りに受け止めたらしく嬉しそうに笑う。

「うふふ〜だって幸せなんだもん。あ、ロミオとジュリエットは悲しい結末なんだけどね。でも真壁くんの…恋人役ができるなんて、それでもやっぱり嬉しい」

蘭世は立ち止まり、頬を染めて微笑んだ。

そんな蕩けそうな笑顔を向けられると、俊は何も言えなくなってしまう。

 

「真壁くんのところでもう少し練習してもいい?」

蘭世の言葉に俊は頷くしかなかった。

 

 

 

 

学校で、部屋で、何度も練習を重ねる日々が続いた。

さすがの俊も腹を据えたのか、あるいは開き直ったか、どうにか形にはなったようだ。

相変わらず動きはぎこちなく、台詞も棒読みで、お世辞にも決して上手い演技とは程遠かったが。

 

サンドが俊の部屋を訪れたのは、文化祭の2日ほど前の夜だった。

「ばあ!」

「…何の用だ、サンド…」

冷ややかな俊の反応に、サンドは冷や汗を拭いながら取り繕ったような笑顔になった。

「魔界では風邪が流行っておりまして、今はお越しになられないほうがよろしいかと…げほっ」

「ちょっと待て…おまえまさか…」

「…いえあのその…ハイ、治りかけではあるのですが…」

 

魔界風邪ウィルスは疲れ切っていた俊の身体を蝕み、翌日の朝には起きあがれない程の高熱を出すことになり、結局学校を休んだ。

心配した蘭世が駆け込んできたのが、文化祭前日、というわけだ。

 

どうにか蘭世にはうつらずにすんだようだ。

それだけが何よりの救いだった。

部員に迷惑をかけてしまうことより、あれだけ練習をしたことが無駄になってしまうことより、

蘭世の恋人役を他の男にさせてしまうことが、俊の胸をしめつけた。

しかし、もう幕は開けられたのだ。

 

俊はターナと二人で学校へ向かうことにした。

メヴィウスの薬は確かに効き目があった。

ぬかるんだ道を歩くようにもたついた足も、今は普通に歩くことができる。

それと平行して能力も回復しつつあった。

しかしどれだけ探しても、俊の制服はどこにもなかった。

「江藤さんがクリーニングに出しておいてくれたのかしらね」

「そうかもな」

符に落ちないまま、俊はジーパンにセーターといういつもの格好で部屋の鍵を閉めた。

 

 

 

 

 

体育館のドアを開けると、そこは花のヴェロナ。

舞台の上だけが明るく照らされ、ジュリエットに扮した蘭世が仮死の薬を飲む場面だった。

俊とターナは空いていた一番後ろの席に座ることにした。

 

ジュリエットは倒れ、彼女が死んだという知らせを受けて今度はロミオがやって来る。

一体誰が代役なのだろうか、俊は複雑な面持ちで舞台を見つめた。

舞台のそでから駆け寄って来る少年、ロミオの登場だ。

「え…?」

ターナが小さく驚嘆の声をあげた。俊は言葉もなく目を丸くしていた。

 

「ジュリエット!!」

人形のように冷たく動かなくなったジュリエットを抱き締めるのは、ロミオに扮する俊だったのである。

 

「どういうことなの、俊?」

言葉には出さずにターナが俊に問う。もちろん俊が知るはずはない。

ただしこれを使えば可能だということは知っている。

「マジック…ミラー…?」

 

目を閉じて神経を研ぎすませると、俊の心の目が探し物を捉えた。

蘭世の制服のポケットの中だ。

「やっぱりな」

確認するとマジックミラーだけを瞬間移動させ、手のひらへ。

さてどうするか。

 

舞台の上では悲しみにくれたロミオが毒薬を飲み、今まさにジュリエットに口付けしようとしているところだった。

「さあこうして接吻してわたしは死ぬ」

近づく唇。それは俊であって、俊でない。

 

きつく目を閉じた俊は思わず叫んでいた。

「ラナイサナホ!」

 

 

抜け殻のようにロミオの衣装だけを残して、ロミオが消えた。

それと同時にターナが時を止めた。

 

「俊!」

「悪い、おふくろ」

観客は何も気付かないまま、お芝居に熱中した表情のまま固まっている。

辺りを見回してみても、誰も気付いたふしはなさそうだった。

「で、どうするの?俊」

先ほど俊を諌めた時の声とは違って、ターナはいたってにこやかだった。

「どうって…」

「ロミオがいなくなってしまったわ。それとももう一度コピーを出す?」

更ににこやかな笑みに、俊は冷や汗が流れた。

 

例えコピーでも自分以外の男が蘭世に触れるのが嫌で、後先考えずに消去したとわかっていてターナは聞いているのだ。

俊は頭を掻いた。

「わかったよ!」

「じゃあこれはいらないわね」

俊の手からマジックミラーを浮かせると、ターナは瞬時に消した。

おそらく元の場所に戻したのだろう。

ターナは楽しげに舞台に取り残されたままの衣装を、ふわりと浮かせて運んできた。

「はい、いってらっしゃいロミオ」

とどめを刺すような笑顔だった。

 

即座に衣装をまとって舞台にあがった俊は、横たわるジュリエットを見つめた。

いつもながらの騒動の種なのだが、今回は怒るわけにはいかない。

何しろこの舞台にたたなければ、単位が認められないのだから。

マジックミラーは蘭世にとっても苦肉の策だったのかもしれない。

「サンキュー」

小さく呟いて俊は蘭世の前髪をくしゃりと撫でた。

そして本来の仕事を思い出したかのように、ロミオはジュリエットに寄り添うように倒れていった。

 

拍手喝采の中、幕は下りた。

「もう〜〜、素敵だったわよ〜〜二人とも!」

半ば泣きながら部長が駆け寄ってきた。

「最後のあれアドリブよね?でも何ていうのかしら。ジュリエットへの愛情がぐっと伝わってきて…」

彼女は丸めた台本をぐっと握りしめ、感極まっていた。

更に熱弁は続く。

 

「江藤、行くぞ」

呆れた俊が蘭世に耳打ちしようとした。

蘭世は微かに笑って答えようとした。

しかし彼女は後ろから引っ張られるかのように、倒れていく。

長い黒髪が乱れて揺れた。

「おい、江藤!」

「江藤さん!」

 

俊は即座に片手で彼女を受け止めた。

「真壁くん、あなたはカーテンコールに出てちょうだい。江藤さんなら大丈夫だから」

丸めた台本で舞台を指す部長を、俊は鋭い視線で睨んだ。

「これ以上の晒しものはゴメンだぜ!」

言うが早いか、俊はそのまま蘭世の両足をすくうと易々と抱き上げた。

 

「ちょっと、ロミオまで行かないでよ〜〜」

部長の悲鳴のような叫び声を背に、俊は駆けていった。

 

俊の腕の中で蘭世は青ざめた顔でぐったりとしているように見えた。

やはり魔界風邪ウィルスにやられてしまったのか。

思い倦ねていると、ターナが駆け寄ってきた。

「おふくろ、江藤が…!」

ターナは蘭世の額に手を乗せた。

「熱はなさそうね…あら?」

 

すー…すー…。

規則正しく聞こえてくるのは蘭世の呼吸。

というより、寝息だと気付くと、俊は一気に力が抜けていくように思えた。

顔色が悪いのは寝不足のせいなのだろう。

俊とターナは顔を見合わせて、それからもう一度眠り続ける蘭世を見た。

「徹夜したんだもんな…」

ほっとした声で俊が呟く。

「ねえ、俊」

「なんだ?」

「あなた、その格好のまま出てきてしまったの?目立ってるわよ」

 

自分の姿と、そして周りを見渡せばいつの間にかできた野次馬の輪。

「さっきのロミオとジュリエットの続きかしら」

「眠り姫だったら王子様のキスで目覚めるのにね〜〜」

なんて声も飛んでいる。

かっと俊の顔が赤くなった。

 

「見せもんじゃねえっ!!」

俊のありったけの声で叫んだ。

何も知らない蘭世はそれでも目覚めることはなく、幸せな夢の中にいるようだった。

 

 


 

Part time kiss様のときめき15のお題より「マジックミラー」です。

とにかく「ロミジュリ」を俊蘭で見てみたかったという不純な動機から。

実は蘭世バージョンを書きかけて途中になっています(汗)

 

NOVEL