あ、非のうちどころのない教科書通りのパンチだ、と思いかけて打ち消すように俊は頭を振る。

 

スローモーションのように蘭世はリング上で、かくんと膝から崩れ落ちた。それを合図に俊の身体は動いていた。

 

「江藤!」

 

 

 

一人が後ろから羽交い締め、もう一人が両足にしがみつく。

更に両方の拳を封じるために二人ほど要してもなお、神谷曜子の力は押さえ切れず、彼らを引きずって動いていた。

 

「待ちなさいよ、蘭世!!!」

 

腕にぶらさがる猛者を振り払いながら、再び曜子の腕がしなるように伸びた。俊は蘭世の身体を抱き起こした。

周囲の男たちがもう一度曜子の動きを封じようと、一斉に飛びかかる。

 

「やめろ神谷!」

「どきなさい、俊!」

 

まっすぐに振り下ろされた拳は、俊の頬を削るように掠めてようやく止まった。

クリーンヒットしていれば、両手の自由が利かなかった俊もまた、マットに沈んでいたかもしれない。

 

「俊、早くその子を医務室へ」

 

再び両手両足を封じられると、噛み付きにかかった曜子を押さえ込むのにまたもう一人費やし、

結局のところその場にいたほとんどが練習場から退場する結果となった。

 

夢中で蘭世を抱え上げ、俊は隣にある医務室へ運んだ。

「医務室」と名はあれど、医師がいるわけでもなく単に横になれるベッドと怪我に備えた簡単な手当の道具しか揃えていないものではあったが。

 

足で蹴りあげてドアを開け静かに蘭世を横たわらせると、傍らに置いてある椅子に腰掛け、俊はふうと一息ついた。

先ほどまでの喧噪が嘘のように消え去り、居心地の悪い静けさが二人きりの小さな部屋に満ちた。

 

「そうだ。顔、冷やさなきゃな」

 

ジムにおいてあるタオルのなかで、できるだけ一番綺麗なものを選び、水で浸した。

何かしていれば何も考えないですむ。

それは例えば初詣の時に見せた、見知らぬ表情。精巧な人形のような、瞳に何の感情も宿していない、別人のもの。

そうかと思えば、今日は屈託のない笑顔を見せてくる。さっきまでは真剣な表情でリングにあがっていた。走ること以外は運動オンチのくせに。

 

そうだ。そもそも全くのカナヅチだった彼女が、遠泳の時にはまさか自分を追い抜いていくとは思いもしなかったし、

ペース配分を間違えたとしか思えないスピードには驚きを通り越していた。

いつも一生懸命で、いつだってひたむきで、まっすぐで。だから…

 

タオルを絞る手が止まっていたことに気づき、俊は慌てて堅く絞る。

「頭を冷やすのは俺の方かもな」

 

そんな俊の呟きなど聞こえるはずもない蘭世は、まだ目覚める気配すらなかった。

それでも額に乗せてやると、心なしか表情が和らいだように見えた。

 

「まったく、心配ばっかりかけやがって」

 

苦笑しつつ、付け慣れなかったであろうグローブを外し、バンデージを取ってやる。

締め上げたリングシューズも脱がせた方がいいだろうかと、何気なく足に目をやった。

 

「……!」

 

なぜか心臓が大きく跳ねた。

それがなぜなのか考えることを無意識に拒否した俊は、機械的に身体を動かし、返してもらったばかりの自分のスタジャンを蘭世にかけることにした。

何かが目覚めようとしているのを封じるかのように。

 

「勘弁してくれ」

 

それが誰かに対してなのか、自分に向けてなのか、よくわからないまま思わず俊は口元を覆った手のひらから言葉を零していた。

 

 


予定ではこっそりちゅーでもさせてやろうかと思っていたのに、ここで終わらせてしまった。

でももしちゅーしたとして、その後何にもなかったかのように、目覚めた蘭世と会話してるのも変だよな〜と思ったからでもあります。

無我夢中で書き終えて、またタイトルを付けるので悩み、悩んだ挙句が「鶴」の同名の曲のタイトルから拝借してしまいました…

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