恋が終わる時

 

今日もいい天気だ。帚を動かす手を止め、青い空に輝くお天道様を見上げる。

惣がこの神谷組に入ってから、平穏な日々が続く。

目下、彼の一日の仕事の一つはこうした雑用や掃除だ。

もっとも『暴力団』とはいうものの組同士の抗争でドンパチやらかすような、そんな映画のような出来事はこの神谷組ではおきたことはない。

それに対して惣が不満を抱いているかというと、決してそんなことはない。

むしろ現状にいたって満足していた。

ただ一つの気掛かりを除いては…。

 

「おや、曜子お嬢さん。お出かけでございますか?」

「…見ればわかるでしょ」

惣に視線を向けさえしないで、曜子はスタスタと歩き出す。

「すぐお車の用意を致しますんで…」

「タクシーでも拾うから、いい」

惣が少々お待ち下さいと続ける前に曜子が言葉を地面にぶつけるように、俯いたままぴしゃりと遮る。

 

「ついて来ないでいいから」

三歩下がってついて来る惣に、立ち止まって振り返りもしないで曜子は言った。

「いえ、あっしはお嬢様のボディーガードですから」

曜子の背中に、惣はにこやかに返す。立ち止まったまま、曜子はふうっと息をはいた。

「…勝手にすれば?」

うんざりとしたような、諦めたような声だった。

「へい」

それでも惣はにっこり笑った。

 

手を挙げて、惣が一台のタクシーを止めた。

曜子は後部側へ、惣は助手席へと乗り込む。

そして曜子が運転手に行き先を告げ、タクシーは走り出した。

 

          ***

透明なガラスのドアが開いて、曜子が出て来たのを見た惣はぎょっとした。

その後に店員が大きな袋を持ってこちらへやって来る。

既に惣の手には幾つもの箱や袋がある。

それらを順に積み木のように重ねていったとしてら、惣の視界は完全に覆われてしまう。

これ以上どうやって持ったらいいんだろう?

 

「お嬢さん、今度は…?」

「ああこれ?化粧品。新色が出てたからつい、衝動買いしちゃったわ」

さらりと曜子は言う。しかしこの袋は口紅一本の大きさではない。

何をどれだけ買ったらこんなに大きな包みになるのだろう?

最初は気に入ったワンピースがあったから。

次はそれに合いそうな靴があったから。等々。

店から出て来る度に、惣が持つ曜子の荷物は増えていった。

やれやれ…。更に加わった荷物を持って惣は心の中にため息を落とした。

けれども心持ちすっきりしたような、曜子の笑顔にようやく惣はほっとした、

 

何しろこの所、曜子はいつもの通りに仕事には出かけるものの、帰って来ると夕食もそこそこに部屋へと隠ってしまうのだ。

以前の快活な笑顔は完全に陰を潜めてしまっている。

組長も随分心を痛めてあれこれ手を尽くしているのだが、どれもこれも功を奏すことはなかった。

原因はわかっている。あの日の夜の事だ。

 

その夜、神谷家の呼び鈴が鳴った。

「あ、これはお嬢さんのお友達で…」

「江藤です。こんばんは、夜分にごめんなさい」

 

惣はすぐに曜子を呼びに行った。

「蘭世が?」

「へい。中でお待ち頂くようお伝えしたんですが、外で待ってるからと仰られまして…」

「わかった、すぐ行くわ」

部屋のドアを開けて出て来た曜子の横顔はどこか堅く、まるで真冬の風のように冷たく鋭い空気を見に纏っている。

 

何かある。惣は思った。

不躾だとは知りながらも、玄関のドアを隔てたすぐのところに立って耳をそばだたせた。

はっきりとは聞こえないが、二人が何か話をし始めたようだ。

 

「どういうつもりなの!あんた、わたしをバカにしてるの!?」

急に曜子の声が一際大きくなった。慌てて惣はドアを開けて駆け出そうとした。

曜子の肩が大きく上下している。呼吸が荒いようだ。

その向こうで、蘭世が哀しげな顔で何度も首を横に振っている。

「違…」

その続きを言うことすら許さないとばかりに、曜子は蘭世に背を向けて足早に家の中に入ってきた。

惣の横を通り過ぎる時、どすんと肩がぶつかった。

それでも曜子は顔を上げようともせず、何か声をかけるでもなく、バタバタと大きな足音をたてながらそのまま自分の部屋へと走り去った。

 

突然の嵐の後の静寂が、残された惣と蘭世の間に残った。

かける言葉が中々見つからない惣は、意味もない笑顔になった。

つられたのか、蘭世も口元だけをあげて弱々しい笑顔になった。

そして細い人さし指で目もとを拭うと、手に持っていた封筒を惣に手渡した。

 

「これを神谷さんに渡して頂けますか?待ってるからって伝えて下さい」

電灯の白っぽい明りの下、まだ濡れた瞳の蘭世の声は力強かった。

深々と頭を下げると、蘭世はしっかりとした足取りで帰っていった。

弱いようで、強い、江藤蘭世という人は不思議な女性だ。

その後ろ姿を見送りながら、惣はそんな事をふと思いつつ手にしていた封筒に目を落とす。

 

表には『神谷曜子様』

裏を返してみると、その差出人の所に『真壁俊』と『江藤蘭世』の名前があった。

 

ずしん、と鈍い音をたてて惣の胸に鉛が落ちてきた。

並んだ二人の名前が全てを物語っていた。

惣は咄嗟に振り向き、既に部屋へと帰ってしまった曜子の姿を目で追う。

「お嬢さん…」

季節は春。にも関わらず、惣の周りに冬の名残りの風が吹き抜けていった。

 

             ***

 

今日もいい天気だ。帚を手に持ったまま惣が弛んできた空気を吸い込み、ひと休みをしていると見慣れないワンピースを着た曜子がやって来た。

よく見れば靴もおろしたてで、おそらくは先日買ったであろう化粧品も使われているのだろう。

 

「おや、曜子お嬢さん。お出かけですか?」

「まあね」

「今日のお嬢さん、何か、気合い入っていらっしゃいますね」

惣は見るからに人の良さそうな笑顔で呑気に声をかけた。

「気合いなんて、入ってないわよ」

曜子はぶすっとして早足で通り過ぎた。

 

惣は曜子の後を追った。そして道路に出ると、片手を挙げて一台のタクシーを止めた。

「お嬢さん、どうぞ!」

曜子は歩き出そうとした足を止め、振り返る。

タクシーの後部座席側のドアを開けて、まるで彼自身がハイヤーの運転手のように控えている。

もし惣が犬だったら、彼の尻尾は左右に大きく揺れているに違いない。

半ば呆れたように、曜子は笑った。

 

曜子はそのまま後部座席に、惣は助手席のドアを開けて乗った。

「どちらまで?」

運転手が尋ねた。

行き先を知らない惣が答えることはできない。

「お嬢さん、どちらまで行かれやすか?」

 

ひとしきりの沈黙の後、曜子の唇が動いた。

「◯◯教会まで…」

「かしこまりました。」

 

おや?と惣は思った。

曜子は二人の結婚式に出席する気持ちになったのだろうか?

暗く沈んでいる訳でもなく、怒りに震えている訳でもない。

ミラー越しに見える曜子の表情からは何も読み取ることはできない。

曜子はただ流れていく風景をぼんやりと見つめているだけだった。

 

             ***

 

「神谷さん…」

最後まで現れなかった曜子を随分気にしていたのか、姿を見つけるやいなや真っ白なドレスの裾を軽くつまんで、蘭世が駆け寄って来る。

曜子は表情を変えることすらしないで、なんとか手に入れることができた花嫁のブーケの半分を持って立っている。

惣は内心ヒヤヒヤしていた。

曜子がヤケを起こすのではないか。お目出度い席で乱闘騒ぎにでもなったら…。

全体が和やかな雰囲気の中、惣だけが緊張感を漲らせていた。

しかし、惣には黙ってこの場を見届けることしか許されない。

飛び跳ねる心臓をどうにか押さえ付けながら、惣は曜子を見つめていた。

 

「あんたねー!マスコミがその辺うろうろしてたわよっ!!少しは気を付けなさいよねっ!!」

「…ご、めんなさい…」

「わたしに謝ってどーすんのよ。…ったくもう!」

曜子は腕組みをし、花嫁を睨み付けている。しかしその視線に棘はない。

 

「しっかりしなきゃだめじゃない。真壁俊の奥さんはあんたしかいないんだから…」

最後の方は掠れてほとんど声にはならなかった。

 

「神谷さぁん…」

ふわりとした甘い花の香りと共に、 真っ白な絹の手袋をはめた蘭世の白い手が曜子を抱きしめた。

両方の瞳から次々に涙を零す蘭世。

「あー、もううっとうしい!ひっつくなっ蘭世!!」

そう言いながらも、曜子は必死に堪えてきた涙を遂にひと粒零した。

 

ふと顔をあげると、少し離れたところで俊が二人を優しく見守っていた。

濡れた頬を慌てて拭うと曜子はぷいと横を向いた。

曜子の視界に今度は惣が入った。

何故か惣は男泣きに泣いていた。それを見た曜子はぷっと吹き出しそうになった。

 

「惣、帰るわよ!」

「へ、へい!!」

着物の袖で涙を乱暴に拭うと、惣は慌てて曜子の後に続く。

しゃんと伸ばした背中にはもう暗く沈んだ陰はない。

 

教会の鐘が厳かに鳴り響いていた。

新しいスタートラインに立った二人を祝福するように。

そして曜子の長い恋の終わりを告げるように。

 


 

綾さんちの「競作」イベントに。

テーマは「ケンカ」でした。

ケンカというと蘭世と曜子しか思い浮かびませんでした(苦笑)

NOVEL