心の鍵

 

「ようちえん?」

椎羅の手にひかれて歩いていた蘭世は、不思議そうに母を見上げた。

「そうよ、蘭世のお友達がきっとたくさんいるわよ」

「ふぅん…」

にっこり微笑む母とは対照的に、蘭世はこっそりため息をついた。

 

あまり家から外に出なかった蘭世にとっては、いきなり見知らぬ中に飛び込んでいくことに、なんとも言えない不安があった。

当然気乗りはしない。

 

「じゃあ、お母さんは手続きをしてきますから、蘭世はここで待っていなさいね」

幼稚園の門をくぐると、椎羅は蘭世を残してさっそうと歩き出した。

母はなんだか嬉しそうである。

 

 蘭世は辺りを見渡してみた。

 ブランコ、すべり台、ジャングルジム、砂場…

 ここには絵本でしか見たことのなかった光景がある。

 

蘭世の瞳が急に輝きを取り戻した。さっきまでの不安はどこへやら。

好奇心で溢れだしそうな笑顔で走り出した。

どれから遊ぼうかと、しばらくきょろきょろしていたが、蘭世の目に大きな木が目にとまった。

家の庭にも木はあるけれど、それよりもっともっと太くて大きい。

 

 蘭世はもう一度きょろきょろと見回した。今度は母がまだ帰ってこないことを確認して。

「よいしょ」

今日はスカートだけど気にしない。まず手が届きそうな太くてしっかりした枝を見つけると、手を掛け、足を掛けた。

「ふう」

ひとまず木の枝に腰掛けた。すると蘭世の頭より、もう少し上の枝から足が2本のぞいているのが見えた。

「だあれ?」

蘭世は足の主に問いかけた。返事はない。それならばと、再び手をのばし、足を掛ける。

さっきより少し高くて恐いけれど、好奇心が前へ進ませる。

「だあれ?」と問いかけながら、蘭世は顔を上げた。

 

足の主の膝には子猫がいた。

「こいつ、降りられなくてにゃーにゃー鳴いてたんだ」

 そう言いながら彼は子猫の頭を嬉しそうに撫でていた。

初めて出会う、人間界の男の子。でも初めてじゃないみたい、不思議な感じ。

蘭世の胸がどきどきする。

しばらく二人はいろんな話をした。

 

「あ、いけない。お母さんが戻って来るわ。じゃあね、また明日」

蘭世は慌てて彼に別れを告げると、急いで地面へおりた。

 

「まあ、蘭世ったら、また木登りなんかして…」

「ごめんなさい、でもおともだちができたの」

「おともだち?」

椎羅は娘が指差す方を見てみた。そこには木の枝に座る男の子がいた。二人は手を振りあっている。

「すっかり仲良くなったのね」

「うん」

嬉しそうな娘の笑顔を見て、やれやれといった表情で椎羅は苦笑した。

 

「お母さん、あのね。さっきの男の子も明日から、ようちえんにかようんだって」

手をつないで帰る途中、蘭世は瞳を輝かせて母に告げた。

「そう、蘭世と同じうめ組だったらいいわね」

「うん!」

 

二人が家へ戻ると、望里が血相を変えて待ち構えていた。

「椎羅、今すぐ支度をするんだ。魔界の大王様が我々をお呼びだそうだ」

「大王様が?」

事情が飲み込めない蘭世は、両親の間に立ってただ二人を見上げていた。

 

まだ幼い蘭世を椎羅の祖母、羅々に預け、二人は馬車に乗り込んだ。

 

「あなた…何故今頃大王様は、私達をお呼びになるのでしょう」

不安げな表情で望里を見つめる。

「わからんよ、わしにも」

ため息まじりに望里は答えた。

 

二人が召喚されたのは、これが初めてではなかった。

魔界を捨てて駆け落ちをした二人に、魔界からの使者が訪れたのはちょうど蘭世が生まれてまもない頃だった。

ただしその時は、特例として二人の結婚が認められ、魔界を人間界とをつなぐ扉の番人の役割を与えられたのである。

しかしその理由は最後まで告げられなかった。

 

霧の道を馬車は走る。やがて城が見えてきた。

 

謁見の間に通された二人は、そこで大王のお出ましを待つことになる。

静まり返った大広間に、張り詰めた空気が漂う。

 

「江藤望里、椎羅顔を上げよ」

薄暗がりのなか、大王の低い声が響いた。二人はゆっくり顔を上げた。

 大王は彼らの頭上よりかなり高い位置にいた。ここからでは大王の顔も見えない。

「お前達を呼んだのは、娘、蘭世のことだ」

そこで二人は驚いて顔を見合わせた。

「あの、大王様…私どもの娘が何か…?」

「詳しいことは、メヴィウスに聞くとよい」

大王は質問に答える代わりに、それだけ言い残すとまた闇の中へ消えた。

それに続くように、今度は黒装束に身を包んだメヴィウスの姿が浮かび上がった。

メヴィウスの手にしている水晶玉が、闇の中で美しい光を放つ。

 

二人はメヴィウスに続き、大広間から少し離れた小部屋に入った。

「さて、何から話そうかね…」

メヴィウスは腰をおろした。望里と椎羅もそれに従う。

 

蘭世が生まれた日、メヴィウスの水晶玉はいつにない輝きを示していた。

「こ、これは…」

映し出された赤ん坊のとなりで、重なりあうようにして輝くもの。

七色の不思議な光。その光があまりにも眩しくて、その実体はまだつかめない。

 

その横で何も知らないかのように、蘭世はすやすやと眠る。穏やかな笑みさえ浮かべて。

しばらくすると、その強いけれど、やわらかい光にだんだん目が慣れてきたメヴィウスは、ようやくはっきりと見ることができた。

 

「『鍵』じゃよ」

「だが、蘭世が生まれた時そのようなものはなかったはずだ」

望里は困惑した表情で呟く。

「もちろん、鍵そのものが存在するのではない。私の水晶に映されるものは、何かを象徴している場合もある。もしくは心の中にあるか、じゃな」

 

メヴィウスは話を続けた。

 

「私の水晶は、吉兆を示しております」

「どういう意味だ、メヴィウス」

不機嫌そうに大王は睨んだ。

「江藤夫妻の娘は今後、魔界に何らかの影響をもたらすと思われます。ならば江藤家を目の届く範囲においておかれてはいかがと」

 

「で、では、我々に扉の番人の役目を与えていただいた理由というのは…」

「さよう」

メヴィウスはにやりと笑った。

 

「問題はそれだけではない。今日になってまた鍵の光が一段と強くなり、模様が浮かんできたのじゃ」

「模様?」

「…王家の紋章じゃよ」

望里と椎羅は言葉を失った。

 

なぜ王家の紋章が現れたのかは、メヴィウスにも測りかねることだった。

やはり蘭世が王家の者にいずれ大きく関わってくるのではないか、というのが現在のところである。

依然として吉兆を示し続けるメヴィウスの水晶は、それ以上多くは語らなかった。

再び霧の道を馬車は走る。だが手綱を握る望里の表情は冴えない。一方椎羅はというと…

 

「ねえ、あなた。たしか大王様にはひとり息子のアロン様がいらっしゃったわよね」

「蘭世とは一つ違いだったと思うが…椎羅、やけに嬉しそうだな」

隣の椎羅はやけに上機嫌である。望里に嫌な予感がよぎった。

  

「うふふ。蘭世は王妃様になるのね」

「…ちょっと待て。どうして話がそう飛躍するんだ?」

「あら、だってメヴィウスの水晶玉がそう言ってたじゃない」

どう転がったらそうなるのだろう、と望里は頭を抱えた。

 

「あ、大変!」

急に椎羅が叫んだ。

「…今度はなんだ?」

ややあきれ顔で望里がきいた。

 

「幼稚園の入園申し込み、明日すぐにでも取り消しに行かなくちゃ」

だからなんで…と望里が口を挟もうとすると、

「蘭世ったら、早速人間界の男の子と仲良くなっちゃうんですもの。そんな所に行かせるわけにはいかないわ」

椎羅は馬車に揺られながら熱弁を振るっていた。

 

やれやれ、どうやって椎羅の頭を冷やせばよいのだろうと、望里は我が家へ戻るまでのあとわずかな時間、ずっと頭を痛めていた。

 

地下室を出ると、羅々と蘭世が待っていた。

「お父さんお母さん、おかえりなさい」

蘭世はいつもと違う、よそいきの服を着た両親にかけよった。

「蘭世、いい子でお留守番してた?」

にっこり微笑んで、椎羅は屈んで娘の目線にあわせた。

「うん」

「そう、じゃあご褒美にキャンディーをあげるわ。口を開けてごらんなさい」

「あーん」

言われるまま、蘭世は口を開ける。そして…

「し、椎羅、まさか!」

望里が気がついて止めに入った時、すでにキャンディーは蘭世の口に入っていた。

 

椎羅は素早く、何も知らないでいる娘の耳もとに囁いた。

「今日幼稚園に行ったことは全て忘れるのよ。みんな忘れるのよ」

 

その後、望里と椎羅の間で凄まじい夫婦喧嘩が繰り広げられたことは、言うまでもない。

羅々は恐れをなして、先祖の扉へ逃げ帰ってしまった。

 

真夜中過ぎ書斎で1人、傷の手当てをしていた望里は廊下を歩く小さな足音を聞いた。

不審に思いドアをあけると、そこには寝ぼけ眼で立っている娘の姿があった。

「どうしたんだい、蘭世。こんな時間に」

望里は優しく問いかけた。

「ゆめをみたの」

「恐い夢かい?」

蘭世は首を横に振った。

 

望里は蘭世を部屋に招き入れた。蘭世は父が椅子に腰掛けると、その膝の上にちょこんと納まった。

そして目を擦りながら、つい先ほど自分が見た夢の内容を父に話しはじめた。

 

大きな木の上に、男の子が座っている。蘭世の方を見て、にっこり笑っている。

でもそれが誰なのかはわからない。ただどこかで会ったような、懐かしい感じをおぼえる。

けれど一生懸命彼のいるところまで辿り着くと、彼は別人になっていた。

 

「おにいさんになってたの。そして、大きくなったらまた会おうっていって、いなくなっちゃったの」

話をききながら、望里は泣き出しそうな蘭世に微笑みかけると、頭をゆっくりと撫でた。

「蘭世が大きくなってお姫さまみたいになったら、きっと迎えに来てくれるさ」

「おにいさんは、おうじさまなの?」

「そうかもしれないね」

そう言ってめくばせした。

 

いつの間にか自分の腕の中で、すやすやと寝息をたてていた蘭世をそっとベッドまで運ぶと、望里は静かに布団をかけた。

何か幸せな夢をみているのかもしれない。蘭世は眠りながら、嬉しそうに微笑んでいた。

その寝顔を見ながら、望里は今日の魔界での出来事を思い返していた。

この先蘭世の身に何が起きるというのだろう。

魔界や王家にとって『吉兆』であっても、それが蘭世自身の幸せにつながるのだろうか。

望里の目もとが月の光を浴びてきらりと光った。

 

翌日、当然のことながら、蘭世は家を出ることはなかった。自分の部屋から見える

庭の木を見つめていると、どこかに出かけていた母の姿が見えた。

蘭世は不思議そうに見下ろしていた。

 

 

「せんせい、昨日の女の子はなに組になったの?」

幼稚園では昨日の男の子が、やや赤くなりながら先生にたずねた。

先生は少し困った顔をして答えた。

「残念だけど、お父様のお仕事の都合で急に引っ越すことになったんだって」

「そう…」

また明日ねと言い残して去っていった彼女のことを思い出しながら、彼は廊下の窓から見える、大きな木を見つめた。

 

先生は彼を園児達が待っている部屋へ連れていった。

「今日はうめ組のみんなに、新しいお友達を紹介します。まかべしゅんくんです」

 

 

その頃、魔界ではメヴィウスが水晶玉を前に、頭を抱えていた。

「お、王家の紋章が消えた…」

 昨日まで燦然と輝いていた水晶玉に映る『鍵』には、その形跡すら見られなくなっていた。

寡黙な水晶玉はその理由をメヴィウスに告げることはなく、蘭世の心に隠れてしまった『鍵』にその光が再び宿るまで、かなりの年月を要することになる。

 


 

蘭世の「うめ組」発言が気になって、そこからこんな話を思い浮かべてしまいました。

話は大きくなりましたが、要は蘭世と俊はずっと昔に出会っていたのだよ。

と書きたいのでした(笑)

 

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