偽りの代償

 

 

小さなスポーツバッグに押し込めたのは、ほんの僅かな着替えと日用品だけ。

あとはボクシングに関する物で大部分を占めた。

勉強に関する物は全て学校のロッカーに押し込めてあるのが幸いした。

それでも隙間が無くなる程、バッグの中はいつの間にか増えた荷物でいっぱいだ。

そこにはもう、思い出など入る余地など残ってはいないのに。

 

大家から鍵を預かった彼は、塗装のはげかかった階段を上がった。

カン、カンと靴音が虚しく響き、虚ろな彼の胸にこだましていた。

異世界で暮らす母から、かつてこの世界でつましく暮らしていた頃の蓄えを預かっていたのが、こんな所で役に立つとは思いもよらなかった。

鍵をあけながら、彼は微かに口を歪めるだけの苦笑をこぼした。

乏しい感情は道ばたに捨てられた紙くずのように、風に吹き流されてどこかへ消えて行く。

もう何も残ってなどいない。

 

ドアを開けると、部屋全体が見渡せてしまう程狭い。

しかし今の彼にはそれで充分だった。

ここは寝る為の場所。それは家と呼ばない。

白々とした明かりが灯っても、色あせた畳以外そこには何も無かった。

 

「カーテンと布団と、あとは鍋がいるな」

彼はぼそっと呟いて、荷物を置いた。

乱暴に置いたつもりはなくても、やけに音が大きく響く。

それだけこの部屋が静かだということだ。

 

彼はため息にも似た深い息を一つ吐くと、がくりと膝を落とした。

その息が凍る程に寒い。しかし凍える季節にはまだ早い。

なのに我が身をかき抱いても、

どこかに開いた穴を通って心に風が吹き抜けていく。

冷たい氷の風だ。

彼は天を仰ぐ。染みの目立つ天井がそこにはあるだけで。

 

温もりは、あの場所へ置いてきてしまったのだ。

 

別れの言葉を告げた。

回りくどい表現は苦手だから、そのままを語った。

何をどう取り繕ったところで、結果は同じだからだ。

偽りの言葉は彼女の為。未来のある彼女のこれからの幸せの為。

ドロドロと溶けた鉄が喉を流れていく。

焼けただれた喉から生まれた言葉は、切っ先鋭い刃となって容赦なく彼女を斬りつけた。

 

倒れゆく彼女の身体から、赤い蝶が飛び立つ。

群れからはぐれた一羽が彼の指にとまると、それは溶解し形を変えた。

流れ落ちる赤が彼の指先を伝って落ちて、ぐにゃりと世界が歪む。

幻覚だ。彼は何度も目を擦り、瞬きをする。

 

彼女は気を失っていた。

先ほどまで見えていた彼女を取り巻く赤い液体は、染み一つ残さず消え、閉じられた瞳から、一筋の透明な涙が流れていた。

彼は唇を噛んだ。

 

もうその資格はないとわかっていても、触れずにはいられなかった。

その髪も。唇も。全てを。

彼の手が、唇が触れても彼女は目を覚まさなかった。

最後に触れた感触も温もりも、全て離れた瞬間から冷えて過去になる。

 

誰よりも大切だった。

誰よりも守りたかった。

何も、傷つけるために愛したのではないのに。

 

ふと、彼は気づく。

今まで思考の段階でさえ避けてきた言葉が、今になってするりと出てくる。

しかし全てが遅すぎた。

彼はそれを彼女に伝える資格がない。

自ら手放したのだ。

 

身体ではない。心が寒いんだ。

 

彼は身体の芯から沸き上がってくる感情に重い蓋をして、きつく目を閉じた。

それでも彼女の笑顔が、涙が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

耳を塞いでも、記憶の中の彼女の声が彼の耳朶を掠めていった。

空っぽの心に染み渡る、優しい声。

 

「好きよ。いつだって、どんな時だって。これから先もずっと、ずっと」

 


 

薄暗い話で申し訳ありません…

別れを告げた俊も辛かったんだよ…なカンジです。

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