退屈だ。退屈だ。退屈だ。 …いやその言葉には語弊があるな。 全ての時間を費やすべきことは決まっているのに、気分が乗らない。 だから他に目を向けようとしているだけにすぎない。 つまり無駄に足掻く悲しき受験生とは今の自分のことだ。
授業が終われば部室へすっ飛んでいったのは、もはや過去の話。 今は脇目もふらずに帰宅して、参考書と格闘する日々が続いているのだが。 木枯らし舞う中木の上にいるとは、我ながら正気の沙汰とは思えない。 くしゃみを一つして、すっかり葉を落とした木の枝の隙間から空を見上げれば、蒼く澄み切った空はひび割れて見えた。 そろそろ降りようとは思うが、身体が動こうとしない。
早く帰らないと、ゆりえのヤツ、怒るだろうな…
密かな目標があるからと自らに鞭打とうとしても、やっぱりまだ動かない。 馴染みの双眼鏡を手にこうしてぼんやりと景色を見ていると、胸の奥底に溜まった淀んだ空気が吐き出されるようだ。 そうでもしなくちゃ、やってられないんだよ。 遠くに見える急ぎ足で帰って行く生徒たち、離れていても笑い声が聞こえてきそうな、女子生徒らのお喋りの輪に聞こえるはずもなく呟く。
やがて二つの円形のレンズが、廊下を歩く「年上の後輩」の姿を捉えた。 日野は木の枝に腰掛け、相変わらず仏頂面の男の姿を見続けていた。 その前を歩くのは見るからに高そうなスーツに身を包んだ理事長だ。 彼とは対称的にやけにご機嫌なご様子で、日野は思わずぷっと吹き出す。 そして同時に賑やかな面々の姿が浮かび上がってきた。
「久しぶりに行ってみるか」
ようやく地上へ降り立つと日野はまっすぐ歩き出した。 心なしか、さっきより呟いた言葉の分だけ身体が軽くなったような気がした。
「真壁せんぱ〜い」
聖ポーリア学園ボクシング部の部室前。 いつもは唯一の部員である真壁俊が放つ、触れたら血を流しそうな張りつめた空気を打ち破るがごとく、黄色い声援が乱れ飛んでいた。
日野は面食らう。なんだこれはと近づいてみれば、こんな時小さなドアの前にいつも立ちはだかる大きな壁、神谷曜子の姿はなく、 圧倒的パワーの前になす術もなく、じりじりと後退を余儀なくされている江藤蘭世の姿が人垣の隙間から目に入った。 ドアを背に押し付けられそうな勢いだ。日野は慌てて蘭世を呼ぶ。
「ひ、日野くん」 「どうしたんだよ、神谷は」 「今、生徒会室に…」
なるほど。鬼のいぬまに何とやらだ。 日野が妙に感心している間にも、勢いに押されて蘭世がまた後ずさった。
「ごめんなさい、試合前で減量中だからお菓子は受け取れないんです」 「あなたに渡すんじゃないの!真壁センパイに渡すの!!」
いやだから、それがダメなんだってば。好意の押し売りは一種の暴力だよな。 日野はこの噛み合ない会話を、苦笑しながら聞いていた。
「真壁はまだ応接室?」 「うん。新聞社の取材中で」 蘭世の言葉がまだ終わらぬうちに、今度はブーイングの嵐が巻き起こる。 「何よ、センパイいないの!?」 「それを早く言ってよね!」
蜘蛛の子を散らすように女生徒たちは散り散りに去って行った。 ある者は捨て台詞を残し、ある者はじろりと一睨みを投げつけていた。 しかし早く言うもなにも、蘭世に言葉を挟ませる余裕すらなかったように見受けられるが。日野は呆れ返って言葉もない。
ただ集団の中に紛れた誰かが振り向き様に放った一言は、波がひいていく中ほんの一瞬の気の緩みをみせた蘭世の胸を確実に抉るように打ち抜いた。
「センパイの彼女でもないのに、いい気にならないでよね!ただのマネージャーのくせに!!」
明らかに理不尽な八つ当たりだった。 さすがにカチンときた日野は立ち去ろうとする女生徒の肩を掴もうとした。 いくらなんでも言っていいことと悪いことがある。
「待って、日野くん」 「だって江藤!」 日野は続ける言葉を失った。蘭世は黙って静かに頭を横に振る。 「いいの」 きっぱりとした拒絶。 しかし無理して笑顔を作るその瞳は、すでに赤く滲んでいるというのに。 日野は頭を掻きむしりたくなった。 「おまえらつき合ってるんだろ!?なんで本当のことを言わないんだよ」 「……」 「…神谷か?」 心ない言葉で傷つけられた時よりももっと苦し気な表情になる蘭世を見て、日野はまた何も言えなくなってしまった。
真壁俊と江藤蘭世が互いに想い合っていることは、火を見るよりも明らかで、 まださほど言葉を交わしていなかった頃のゆりえでさえ、すぐに気づいていたことだ。長い付き合いの神谷が知らない訳はない。 或いは知らない振りをしているだけなのかもしれないが。 ただ周囲は驚くほど、この事実を知らないということに変わりはなさそうだ。 普通はありえないんだがな。
考え込んでしまった日野を、蘭世が心配そうに覗き込む。 他人の心配してる場合かよ。日野はまた苦笑する。
背後から日野を呼ぶ声が聞こえて振り向くと、この一連の元凶の主がやや疲れた表情で立っていた。 「オス」 軽く片手をあげる仕草も、なんだかくたびれて見える。 だがつい先ほどまでの騒動を思えば、何か一言ぐらいぶつけてやらなければ収まらない。日野は口を開く。
「お疲れさま、真壁くん」 息を吸い込んだ瞬間に挟まれた蘭世の言葉に、日野は言葉に躓いた。 何事もなかったかのような笑顔で蘭世は出迎えている。 朝日が差すように温かくて眩しい。日野は目を細めた。 「もう取材は受けねえ」 「でも申し込みは殺到してるよ。理事長はかなり乗り気みたい」 「勘弁してくれ。試合前だってのに」
塩をかけた菜っ葉みたいにぐったりしている俊を見て、蘭世がくすくす笑う。 どうして周りはこの2人が醸し出す空気を感じ取れないものかね。 日野はこりこりとこめかみを掻いた。
「んじゃ、俺行くわ」 二人に背を向けて、軽く手を振る。 残された二人は互いに顔を見合わせた。 「あいつ、何の用だったんだ?」 「そういえば、何だったんだろ」
真壁の性格は良く知っている。 言葉にするのがひどく下手で、でも態度にも上手く現せないで、本当に不器用な男だ。 だけど真っ直ぐに江藤を想っていることに間違いはない。だったら。
だったらちょっと背中を押してやってもいいだろ。 日野の頭の中に一つの閃きが走り、自然と笑みが滲み出してきた。
翌日、またしても日野はボクシング部の部室前…ではなく、俊のバイト先近くにいた。
「お疲れ!」 バイトを終えて帰ろうとする俊の背後から、肩を叩いた。 「なんだよ日野」 「頑張るねぇ、勤労学生さん」 「受験生がこんな時間に出歩いて、何やってんだよ」 「俺?俺には最強のカテキョがついてるからな」 「へえへえ。そりゃ良かったな」 くたびれた身体を引きずるように歩く俊からは、普段以上に言葉に気持ちがこもっていない。 「で、毎日頑張る勤労学生さんに、サンタさんからのプレゼントがあるんだよ」 と、にぃーっと口を横に広げて笑ってみせる日野の笑顔は、どこかしら角と尻尾と黒い翼のオプションを連想させたが、疲れきった俊は気づくことができなかった。
「俊くんは小さいプレゼントと大きいプレゼント、どっちがいいかなぁ?」 幼児番組のお兄さんのように、日野はまたしても大げさな笑顔を作ってみせた。 げんなりした表情で俊は日野を一瞥する。 「なんなんだよ…ったく」 「ほらほら小さいのと大きいの、どっちがいいかなぁ?」 更に絵に描いたような笑顔になる日野を見て、俊は溜め息を一つと肩を落として、観念したかのように小さい方を黙って指差した。
「勤労学生の俊くんは、謙虚だね。じゃあご褒美に両方ともあげよう」 「日野、おまえって奴は…」 暗くてよくわからないが、俊の顔に怒りと疲労の色が滲んだのは間違いない。 しかしそんなことを気にする日野ではない。 ほとんど強引に押しつける形で俊に手渡すと、にわかサンタは上機嫌で手を振った。
「プレゼントは一人で開けるんだよぉ」 歩き出した途中で振り向き、日野が口に手をあてて叫ぶ。 「うるせぇ、さっさと帰りやがれ」 折角貰ったプレゼントをサンタの顔面に投げつける勢いで俊が吠える。 今にも噛み付きそうだ。日野は豪快に手を振って、ようやく帰路についた。
「プレゼントの中身って何だったの?」 小さな台所で夕食の支度をするゆりえが、鍋の中が沸騰しそうになるのを見てコンロの火を弱めた。 日野は黙って掌に乗せて、ゆりえに見せる。 何が入っているのかはわからないが、小さな箱には女の子に人気のくまのキャラクターが描かれてあった。 愛らしいデザインは俊のイメージとあまりにもかけ離れていて、プレゼントにしては失礼ながら不似合いすぎる。 ゆりえはさらに怪訝そうにじっと箱を見る。凝視すること数秒。やがて手にしていたままだった菜箸をぽろりと落とした。
俊はようやくアパートの自室に帰ってきた。いつもよりすっかり遅くなってしまった。それもこれも日野のペースに調子を狂わされてしまったからだ。
「何がプレゼントだよ…ったく」 押し付けられた贈り物をぞんざいに放り出すと、どっかりと腰を下ろした。 蘭世が作ってくれた弁当が唯一心を癒してくれるが、あっという間の食事が終われば、疲労は思い出したかのように蘇り、澱のように溜まっていく。
素直に開けるのも癪に障るが、このままってわけにもいかねーよな
手を伸ばしてプレゼントを引き寄せると、手提げの紙袋の中には、確かに小さい袋と大きい袋がそれぞれ入っていた。 ご丁寧に結ばれた赤やら金色のリボンを順に解いて中身を出すと、卓袱台の上には大小様々な紙箱が並んだ。
「なんだコレは?」 パッケージはカラフルな色使いなものもあれば、黒一色で纏められているものもある。 そうかと思えば、俊ですら良くみかけるキャラクターが描かれていたりもする。たとえばこの中にクッキーやチョコレートが入っていても不思議ではない。 いずれにせよ明らかに渡す相手を間違えているとしか思えない。 「何考えてるんだ、日野のヤロー」 呟きながら、卓袱台の上に置こうとした手がぴたりと止まった。
「な…な…なんだコレはっ!?」
真っ赤になって一人で狼狽える俊の手から、箱がゆっくりと滑り落ちた。
「克…コレって…」 「そ。明るい家族計画」 日野は平然と言ってのけて、清々しいまでに笑った。 「どうせ真壁はこのテのものは恥ずかしくて買えないに決まってるからな。あんだけあれば暫く足りるだろ」 「でもだからって」 呆れていいのか怒っていいのか、どんな表情をしたらいいのかわからなくなったゆりえが困り果てて、ようやく足元に落とした菜箸を拾い上げた。 「だからだよ」 ゆりえの手から菜箸を取り、日野はそのままシンクへ置く。
「真壁は恥ずかしくって買えない。だからといってナシでって訳にもいかない。結果、真壁は江藤と先へ進めないってことさ」
数学の証明を解いているかのように、日野は真面目な顔をして一気に言うと、またいつもの表情に戻った。
「これで万事うまくいくってことだ」
「どうするんだよ、コレ…」
日野からのプレゼントは大小に関係はなかった。 個数は変われど中身は変わらないからだ。 そして俊にとってどうするとは、もちろん使い方がわからない訳ではなく、 どこに隠すかだった。迂闊な場所には置いておけない。 なぜなら蘭世が掃除や片付けをする際に気づいてしまう恐れがあるからだ。 いくら蘭世でもこれが何であるかはわかるはずだ。 せめてもの救いは、蘭世に合鍵を渡していなかったことぐらいだ。 俊は頭を抱えた。 絶対に見つからない場所を見つけるまでは、当分彼女に合鍵を渡すわけにはいかない。悪友からの好意の固まりを、恨めしそうにいつまでも俊は睨んでいた。
「それはそうと、真壁くんに全部あげたんじゃなかったの?」 固有名詞を口にすることをはばかられたのか、ゆりえは日野の手の中にある箱を指さす。 「俺たちが使ってもいいかなって……痛っっ!!!」 いつの間に手にしていたのか、ゆりえが日野の額の中央めがけて、綺麗にお玉を振り下ろした。 かこん、と獅子脅しにも匹敵するようないい音がした。 目から火花が飛び散るような痛さに、日野は思わずしゃがみ込む。 「そんなこと言ってる暇があったら、早く問題集を開いて」 お玉がキラリと光り、問答無用で日野の指定席を指し示す。 日野は額をさすりながら見上げると、最恐の家庭教師が仁王立ちで立っていて、指示に従うより他に選択肢はなかった。
テーブルに広げられるだけ問題集とノートを広げ、突っ伏す。 英語の参考書の横で、イラストのくまが困ったように笑っている。 日野は忌々しくなって払いのけた。ぽとりと落ちたそれを、ゆりえが拾った。 「わたしと同じ大学に通うって約束でしょ?だからコレは没収します」 笑顔なのに恐ろしい。いや笑顔だからこそ逆らえない威厳が増す。 日野にはもはや返す言葉など、何一つ残されていない。 がっくりと項垂れて、参考書の海に沈むのだった。
「どうしよう…コレ…」
克が大学に見事合格したら返すことを約束に、勢いで持って帰ってきたのはいいけれど、と自宅に戻ったゆりえは両頬に手をあてて溜め息をついた。 パッケージの愛らしさを剥いでしまえば、残るのはあまりにも生々しいモノ。 どうやって返すかが問題よね。 何度考えてみたところで返却すること=OKになってしまう。 でも別に嫌という訳ではないのだけど… どんなに難しい方程式でも解いてしまうゆりえだが、いつまでたっても答えが出ているようで出ていない解答用紙を前に、堂々巡りを続けていた。
彼らの手に渡った小箱が開かれるには、まだもう少し時間が必要かもしれない。 そして何も知らない蘭世はというと、彼らとは違う悩みを抱えて溜め息を零しているのだが、それはまた別のお話。
それぞれの溜め息をのせて、今日も夜は深まる。
(あとがき) soul kitchenのさやこさまへ5周年記念でプレゼント …と言っていいのでしょうか、コレ。押し付けたという方が正しいカモ。
さてさて真壁くんはどこに隠したのでしょうか? わたしは天井裏が怪しいと睨んでおります(笑) そしてゆりえさんがどうやって日野くんに返却したのか。 日野くんと真壁くん、どっちが先に箱を開けたのか。 色々謎は残っておりますが、読んでくださった皆様に委ねたいと思います。
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