12月の風景
ぼんやりとする感覚に冷気が覚醒を促す。 背中にひんやりとした地面の感触があり、意識がだんだんと鮮明になってきた。 冷たい風が傷口にしみる。 血が細く一筋こめかみの辺りを伝っているが、それを拭う事すら億劫だった。 全身に疲労感が漂う。
(いて…) 目をうっすらと開けようとしたが、まだ瞼は重い。 ズキンと後頭部に鈍い痛みが走る。 ここまで痛めつけられたのは、記憶を遡ってもあまりないことだ。 情けない。俊は我ながら呆れた。 それよりも気掛かりなのは蘭世が無事に逃げ、学校へ辿り着いたかどうかだった。 しかしまだ体が起きようとしない。
俊の頬に何かが触れた。 それが蘭世のハンカチであることに、ようやく目を開けた俊が気付く。 そのまま学校へ行っているものだとばかり思っていたのに。 無事だったという安堵と、守りきれなかった悔しさが俊の中で目まぐるしく交錯する。
目の前の蘭世が泣いている。 他人の事など放っておけばいいのに。 まるで自分のことのように、悲しんだり憤ったりしている。 気がつけばいつも、蘭世はいつのまにか自分の中に踏み込んでくる。 俊はこういう時いつも戸惑う。と同時に嬉しくもあった。 なぜそう思うのかは俊にはうまく説明できない。 見えているに手が届かないように、どこかもどかしい。 いったいこの感情はどこから生まれてくるのだろう。
「良かったらクリスマスイブ、うちに来て。ううん、来て下さい」 優しく語りかけてくるその笑顔が、俊を素直に頷かせた。 頬に触れる空気はいまだ冷たく突き刺してくるというのに、 俊の心の中は暖かい空気が流れ込んで来る。穏やかで心地がいい。
その日俊は仕事が休みだった母と二人で夕食をとっていた。 他愛もない話をしながら、母は急須にお湯を注ぐ。 「あのさ、おふくろ…」 俊はそこで口籠る。 「なあに?俊」 湯飲みにお茶を注ぎながら、華枝が答える。 「…24日の夜なんだけど、俺、友だちの家に呼ばれてるんだ」 いれたばかりのお茶を飲むでもなく、ただ両手で持ったままの俊は俯いて静かに話した。
「あら、そうなの?」 口を付けようとした華枝の手が止まる。 「お友達って…神谷さんのお嬢さん…?」 「いや…江藤…蘭世っていう同級生なんだ」 たどたどしい口調で俊はやはりまだ俯いたまま、湯飲みの中のお茶を見つめながら言った。 「まあ…」
『江藤蘭世』という名前。 華枝は昨日出会ったばかりのあの黒い髪の少女の姿をすぐ思い出す。 大きな黒い瞳。人懐っこい笑顔。 彼女の名前は確か、江藤蘭世といっていたはず。
「そう…」 華枝の表情から軽い驚きが消え、柔らかな笑顔で再びお茶を口にする。 言い出しにくかった事をようやく伝えられて、ほっとした表情で俊もまた一口飲む。
「まさか俊にガールフレンドがいたなんてねぇ。母さんちっとも知らなかったわ」 邪気のない顔で華枝が笑うと、俊は喉を通りかけたお茶を吹き出しそうになった。 それを慌てて無理矢理堪えたため、むせて咳き込んだ。
「ち、違っ!!げほっげほっ」 「やぁね、俊ったら。大丈夫?」 咳の為なのかどうなのか、俊の顔は真っ赤だ。その様子に、華枝はくすくす笑う。 喉にまだ何か引っ掛かっている感覚を残しつつ、バツが悪そうに俊は席を立つ。 言い返す言葉も見つからないからだ。 その俊に追い討ちをかけるかのように、最後に華枝が俊の背中に投げかける。
「ちゃんと蘭世さんにプレゼント、差し上げるのよ?クリスマスイブなんだから」 「…わかってるよっ!!」 俊は背中を向けたままだった。 それでも華枝には、さらに顔を赤くしている俊の姿が手に取るようだった。 「俊ったら…」
自分の部屋に戻り、俊はふうと一息深い息を吐くとドアにもたれて暗い天井を見上げた。 まだ顔が熱い。どんなに赤いかがわかる。それがいかに自分らしくないか。 分かっているだけに余計に恥ずかしかった。俊は大きく頭を振ると窓辺へと歩く。
『プレゼント、差し上げるのよ?』 先ほどの母の言葉が繰り返し俊の頭を流れる。 白く曇った窓の外から夜気が滲んでくる。また雪が降ってきているらしい。 セーターのそで口で無造作にガラスを擦ると、暗闇にぼんやり漂う螢のように雪が揺れていた。
「わかってるよ…」 俊は呟く。しかし何を買うのかはまだ見当もついていない。 (あいつが、江藤が…喜びそうなもの…?)
『だってわたしの好きな人は、真壁くんだけなんだもの…』 どんなに振払おうとも消える事のない、涙を浮かべた蘭世の姿。 今もまた心に映し出され、俊は再び体温が上昇するのを自覚する。
「わかってるよ…」 冷たい窓ガラスに額を押し付け、俊はまた呟く。 母子家庭の自分を気づかって誘ってくれた、蘭世の好意は素直に嬉しいとは思う。 他人と深く関わる事を避けてきた俊にとって、蘭世は希有で異質な存在だった。 何かが変わろうとしている。 徐々に冷静さを取り戻してきた俊だったが、それ以上のことはくもった窓ガラスのように何も見えなかった。
翌日俊は出かけてみたものの、ただ何の当てもなく歩いているにすぎなかった。 外に出れば、ポインセチアの赤と緑のコントラストが目に鮮やかに飛び込んでくる。 白いスプレーで雪の結晶の形を描かれたショーウィンドウには、ディスプレイされた品々が道行く人々の目をとめる。 繁華街にはジングルベルが流れ、どの店も華やかに飾り立てている。 しかし俊はそれらしい店に近づいてきても立ち止まり、中に入る事すらできない。 ポケットに手を突っ込み、ただ下を向いて早足で立ち去るだけだった。
「きゃー、これ可愛い〜」 背後に黄色い声がして、俊はその声のする方を見てみる。 そこには首元にタータンチェックのリボンを付けた、抱えられないくらい大きなテディベアが座っていた。 (こういうの、江藤、好きそうだな…) 満面の笑みを浮かべた蘭世の姿を思い浮かべ、俊は笑い出しそうになった。 しかしそれと同時に、この縫いぐるみを抱えて蘭世の家まで歩いている自分の姿を想像すると、 背中に悪寒にも似たぞっとするものを感じた。 プレゼントを買うのを一つとっても俊には大変な苦行に思える。 そしてそれを渡すまでの道のりも同様なのだ。 俊は今さらながら気が付いてため息をつく。
(こんな大きなものじゃなくて、もっと小さなものにしないといけねーな…) そう、例えば彼のポケットにでもすんなり納まってしまうくらいの。 (だとすると、やっぱりあれか…) 俊は心の中でぶつぶつと呟きながら、もと来た道を引き返す。 そして一度は通り過ぎた店の前で立ち止まった。
「ありがとうございました」 店員に深々とお辞儀をされるのを、気恥ずかしく思いつつ俊はドアを開けた。 氷のような風が俊の前髪を掬って通り過ぎ、鋪道に散らばる落ち葉をかすめ取るように、そのまま駆け抜けていった。 俊はその寒さに思わず肩を竦め、ジャンパーの左右のポケットに両手をそれぞれ無造作に突っ込む。 ポケットの奥に、小さな箱の感触を確かめながら俊は歩き出す。 この上もない恥ずかしさから解放された俊は、一仕事終えたような充足感に満ちていた。 蘭世は受け取った瞬間、どんな表情をするのだろうか。 俊は晴れ晴れとした気持ちで空を見上げた。 またちらちらと雪が降り出している。 天気予報通りなら、今夜はホワイトクリスマスになりそうだ。
「愛ある世界」(柚子書房)さま宅への投稿作。 「なおみ」というもう一つの名義です。 名前は変わっても、作風は変わりませんでしたね〜(苦笑)
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