光射す
何かを忘れる為ただ夢中で泳いだ後、戻ってきたのは忘れたかった何かだった。 どこまでも澄んだ空の色を投影したような海は、目に滲みるほどの青で。
遠くに広がる水平線を見つめていた俊の肩に、ふわりとタオルがかけられた。 振り返らなくとも、それが誰だかわかる。 柔らかな感触が今は逆に肌を、心を刺すようだ。
「大きくなった時きかせてね、約束よ」
脳裏に焼き付いたその声もまた千の棘となって、俊の心をちくちくと刺した。
突如俊の身体に訪れた異変は、以前に経験したそれと似ていた。 関節が引きちぎられそうに痛み、呼吸することもできない。 身体中に流れて猛威を振う電流が全ての力を奪っていく。 両手で掴んでいた剣は、するりと抜け落ちるように手から離れ、 俊は翼をもがれた鳥のように、引力に導かれるまま落ちていった。
地に叩き付けられてから、どれくらいたったのだろうか。 曖昧な意識のまま、頬や手のひらにざらついた何かを感じる。 夜が明けていくように、俊の感覚が鮮明になっていった。 触れていたのは地面で、不快にさせていたのは砂利。 倒れたままの俊は気を失っていたことに気付き、飛び起きた。 実際には時計の針はさほど進んでいない。 永遠に続くかのような痛みは、気がつけば潮が引いていくように去っていた。 その代わりに俊を満たすのは、運命に奪われたままになっていた記憶の欠片。
俊は自分の手のひらを何度か開いたり結んだりを繰り返した。 先ほどまでだぶつき借り物のようだった服が、今はしっくりと治まっている。 自分自身の姿を確認することはできないが、元に戻ったらしい。
一息つく間もなく、懐かしい声が彼を呼ぶ。 長い髪を揺らして駆けてくる。 吹き荒れる嵐のような風にもひるむことなく、ただ真直ぐに。
「江藤…?」
するりと出てきた彼女の名前。
彼女は同級生であり、育ての親でもあり、姉のようでもあり。 様々な想い出が同時に蘇ってきて、俊は混乱した。 その次の言葉を考え倦ねていると、突然目の前が真っ暗になった。 何が起きたかわからなくなる程の僅かな時間のことで、ただほんの少しだけ、彼女の悲鳴が聞こえたような気がした。
視界も呼吸も身体の自由も全て奪われた状態では、抗うことすらできない。
遠のいた俊の意識は暗黒の世界へ飛んでいた。 目蓋の裏の闇は、深海のように音も光もない。 薄黒い靄が無数の蛇となって、俊の足元へ近づいてきた。 ぬらぬらとした黒い鱗を光らせて、音も立てずに絡み付こうとしている。 俊の足は動かなかった。 いや、動こうとする意志がなかった。
もうこれで苦しまなくていい。 闇が俊の身体を飲み込み、取り込んで一つになればこの苦しみから解放される。 会いたいと願い続けた父を本気で殺そうと思う自分は、やはり破滅をもたらす存在だったのだ。 自分の命を捧げることで、この世界を、父を救うことができるのなら。 それは母を、しいては彼女を救うことになるだろうから。
「あきらめるのかよ」
頭上とも背後ともわからないどこかから、声がした。 風邪をひいた時の掠れたような、変声期特有の少年の声が。 辺りを見回せど、変わらぬ闇がそこにはあるだけだ。
「あの人との約束を果たさないまま、おまえはあきらめちまうのかよ」
聞き覚えのあるその声を聞き流した俊はより奥底の闇へと身を投じようと、目を閉じかけた。 しかし細く小さくなっていく視界に入ったのは、見覚えのある長い髪。 夜の闇よりも濃い暗黒の世界にあっても、その黒髪は輝きを放つ。 もの言わずとも語りかけるその暖かな光は、自然と彼女の姿を思い起こさせた。
本当に自分が死ぬことで、この世界は、彼女は救われるのだろうか?
俊が目を見開くのと、彼女が振り返るのはほぼ同時。 ゆっくりと振り向いたその姿に、俊は泣きたくなる程の懐かしさを感じた。
俊は手を伸ばした。 彼女もまた微笑んで手を差し伸べた。 それなのに、ほんの少しで届くのに、もどかしい程遠い。 幻影でもかまわない。ただ、その手にその髪に触れたいと俊は強く願った。
「江藤!」
俊は彼女の名を叫んだ。 それは魔法を解く呪文のように、 彼を閉じ込めていた岩は、意志をもって彼から離れていく。 俊に起こる変化と同調して、消失していた月も新たなる光となって現れた。 目に飛び込んでくる光は、暗闇に慣れてしまった彼の目には少し痛い程眩しい。
彼の身体を一度は貫いた剣は、今や彼を亡きものにしようとした彼の父親の肩に突き刺さっていた。 本気で憎んだ。殺そうとも思った。 だけど。
降り注ぐ光が全ての感情を浄化していた。 誰かの命と引き換えに訪れる安寧など、無意味だ。
ほどなくしてかつての同級生の姿が、俊の視界に入ってくる。 以前ならきっとごく普通にかわしていたはずの会話も、まだしっくりとなじまない。 そんな事など知る由もない蘭世は、大きな瞳から次々に溢れる涙を零している。 そういえばコイツは昔から泣き虫だった、 と俊は目まぐるしく蘇ってくる記憶に軽い目眩を感じながらも、そんな事を考えていた。
久しぶりに見た彼女は、つむじの位置まで判るぐらいに見おろせる。 随分縮んだな。 いや、違う。自分が元に戻ったのだ。どうも勝手が違ってやりにくい。 そんな事を考えている自分をよそに、彼女はしっかりと背中に両手を回し泣きじゃくっている。 こんな時どんな言葉をかけたらいいのか、俊にはわからなかった。 伝えたい気持ちは言葉にも声にもならず、行き場を失った自らの両手を宙に漂わせていた。
諦めようとした自分に手を差しのべた、あの光がすぐそこにある。 俊は静かに彼女の髪に触れようとした。
「大きくなった時聞かせてね、約束よ」
ふいに彼女の声が聞こえて、俊の手は固まったように動かなくなった。 まだ、だよな。 俊は不安定に揺れる気持ちを封じるかのように、両手を組み合わせて天を仰いだ。
長い夢から覚めた俊に、青くて優しい光が挿す。
さやこさんのH.P.開設記念にプレゼント。チャットでお会いした際にお約束していたのですが、果たす事ができでホッとしました(笑) でもちっともお祝いらしくならないのには、困ったものです。
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