人間として暮らしていた世界と、自分の先祖と繋がりのある「魔界」という異世界とも異なる世界に、彼はいた。 いや「人間界」などとわざわざカテゴライズしなくても、 自分のいる世界が全てだと思っていたあの頃からは想像を遙に越えた世界にいた。 天上界というらしいが、平和を具現化した世界とはこういうものなのだろうかと、カルロは一人紫煙を燻らす。 年中色とりどりの花が咲き、気候はおだやかで一定しており、飢えや苦しみとは無関係の世界。 人はそれを天国と呼ぶのかもしれない。 苦々しく吐き出した煙は、辺りを漂いながら掠れたような筋を残して消えていった。
初めて心から愛した女性を、できれば自らの手で守ってやりたかった。 今はそれも永遠に叶わぬ夢だ。たなびく煙のように頼りない。 抱きしめることはおろか、触れることもできないこの手で一体何ができよう。 許されるのはただ見守ることのみ。
彼女の世界へ降り立つには、厄介な制約があった。 常に音色を変化させる楽器を調律しているようなもので、絶えず身体が不安定な場所で微妙なバランスを保とうとする為に、相当な負荷がかかるらしい。 長時間いられないのはその為だ。 だが夢の中は違う。互いが異世界にいる。 何か急いで伝えなければならない場合を除き、カルロをはじめ、天上界の人々は夢というフィールドに立つ。
「もう一杯、お茶は如何?ダーク」 にっこり、という音が聞こえそうな程、目の前の女性は笑顔でティーカバーを外す。 「あ…いや、結構」 「ジャンもレドルフもさっきからずっとチェスの駒を見つめたままなのよ?紅茶が冷めてしまうわ」 自分のティーカップに紅茶を注ぎながら、可愛らしい恨み言を零す彼女は、彼が文字通り命を賭けて愛した女性と、やはりよく似ていた。
先祖が愛した女性。 己の身体の中の螺旋が命じるままに、自分はランゼを愛したのだろうか。
選ばれた者だけが住むことを許された世界ではあるが、ここは自分がいるべき場所ではないような気がしていた。 銃声も、血の匂いもない、汚れのない世界。 ここは、あまりにも平和すぎる。 だが、最早彼はかつていた場所へは戻れないのだ。 ランゼとシュンの関係は揺るぎの無いものとなった。 彼らをとりまく世界もまた落ち着きを取り戻し、本来あるべく姿へ戻った。 人間界へ降り立つ理由もない。 自分の存在意義もまたない…のかもしれない。
「ねぇ、ダーク…」 ふわりと紅茶の湯気が香ったその向こうで、ランジェがゴールデンドロップを注ぎ終えてティーポットを置いた。
「ルーマニアへは」 変わらず穏やかな笑顔のままで、瞳だけが真摯にカルロを捉える。 確かに頻繁に日本へ降り立っていたが、故郷であるルーマニアにはあれから一度も赴いていない。
「…全て任せてきた。だからわたしにはもう関係のないことだ」
続きの言葉を遮った形となったカルロに、ランジェはふ、と軽くため息をついて哀し気に瞳を伏せた。
「わたしは二度とここへ戻る事はないだろう」 彼があまりにもあっけなく言っていつものように葉巻を取り出したので、一瞬ぼんやりしたベン=ロウが慌てて火を点した。 ゆらゆらと燻らせた白煙は二人の間を決定的に分つように、途方も無く隔てるようにたなびいている。 「では、カルロ家はどうなるのです。当主を欠いてはファミリーの結束など…」 「全てお前に任せる」 酷薄な唇からそっけない言葉と煙が、独特の甘い香りに包まれ空気に溶けた。
「わたしは…あなたの影です。光があるからこそ、影は存在するのです」
幼い頃から文字通りぴたりと寄り添う影のようにカルロに付き従って来たベン=ロウ。 そんな彼が珍しく、否、反論したのはこれが初めてかもしれない。 そしていつも表情を出さない彼が、不安げな細い声を出している。
「影は、光になれません。どうかいま一度ご再考を」 頭を下げるベン=ロウの姿を見て、心が揺れない訳ではなかった。 だが、己の魂が行けと命ずるのだ。 いまやカルロには進むべき道が見えていた。 その先に身の破滅が待ち構えているというのに、恐怖心も葛藤もなかった。 二本足で歩くことに何の疑問も持たないのと同じだ。
「シュンがおそらくここへ来る。暫くは影武者をやらせるのもいいだろう」 話が平行線を辿ったままカルロは密かに旅立ち、今に至る。
ランゼが暮らすかの国では「影」という字には「光」の意味もあるのだと知ったのは、いつだったか。
湯気の消えた温い紅茶を飲み終え、カルロは席を立った。 今の自分は「光」と「影」一体どちらなのだろうか。
カルロさまとベン=ロウって表裏一体の関係だったと思うんです。 その関係が崩れた時、どうなるのかなと思って書いてみたら 「なんだこりゃ、これはときめきか!?」という結果です。 でもまた懲りずに書きます。ええ、書きますとも。
| ||
![]() | ![]() | ![]() |