四角いマットの上で大の字になって、克は天を仰いだ。

見えるのは天井に張り付いている愛想のない蛍光灯ぐらいなものだが、

目を閉じれば澄み切った青空を横切っていく銀色の翼が見えるような気がして、克は荒い息を静めながらゆっくりと目を閉じた。

暴れた心音が鼓膜に直接響いているみたいだ。

あちこちから吹き出してくる汗が流れて落ちて、やけに目に滲みた。

 

 

 

 

 

 

 

汚れた運動靴をちょっとだけつま先立てて、窓の桟にしがみつくようにしてガラスの向こうを覗けば、

同じくつま先立った彼女がふわふわの髪を揺らせていた。

バーにそっと手をかけて、ゆっくりと片足をあげる。

何気ない基本のパターンですら、ひとたび彼女が動けば目が釘付けになってしまう。

息をすることすら忘れてしまいそうになるほど、克はじっと彼女の姿を追った。

やがてバレエスクールのスタッフに気づかれて、野良犬のごとく追い払われてしまうまで。

 

やがてレッスンを終えて彼女がスクールから出て来た。

「ゆ…」

克は手を挙げて、駆け寄ろうとした。

しかし克の視界は突如遮られた。

挙げかけた手は宙で止まり、力なく降ろされた。

 

「さ、嬢ちゃま。どうぞこちらへ」

彼女にとっての優しい爺やは、克の小さな身体を隠すように前を立ちはだかる壁となって、行く手を断固として阻んだ。

黒塗りの車へ導かれるまま、彼女は俯きながら乗り込む。

克の存在に欠片程も気づかないのか、ぼんやりとした表情で後部座席のシートにちょこんと収まった。

 

バタン、とドアが閉められて車はすぐに走り出した。

 

掌にぐっと力を入れて握りしめ、歯を食いしばって克は小さくなっていく車を見ていた。

木の枝が腕に刺さった時よりも、ずっとずっと心が痛かった。

追いかけることもできずに、ただ見ているだけの自分が情けなかったのだ。

 

ーーーゆりえさまとは住む世界が違うのだということがわからないの

 

頭の中でキンキン声のおばさんの姿が蘇って、克は頭を振る。

車はちっぽけな克を置いて走り去り、今はもう見えなくなってしまった。

踏み出す一歩も、かける声も、打擲された心がその勇気を消してしまった。

 

気づかないのならば、気づかせればよかっただけのことなのに。

 

たったそれだけのことをわかるまでに、どれだけの時間をかけたのだろうか。

背を向けて時にはすれ違い、時にはいがみ合い。

本心をねじまげて、でも心は常に彼女を求めていた。

 

 

 

 

 

 

「出発は明後日、だったよな」

「ええ、そうよ…」

高台のお屋敷へ彼女を送る帰り道、今日一日ずっと避けてきた言葉とようやく克は向き合うことにした。

「その日は俺、引退試合なんだわ」

「…知っているわ…」

彼女はため息混じりに呟いた。

 

ゆりえは9月からアメリカの大学へ入学が決まっていた。

 

やっとの思いで通じ合った気持ちが、距離に負けてしまうのではないか。

不安がないわけではない。

が、容易く屈してしまうほど、ヤワな心でもない。

今は彼女の夢を叶えるため、背中を後押ししてやろうじゃないか。

 

「見送りには行けないけどさ、元気で行ってこいよ」

「……」

ゆりえの澄んだ黒い瞳が視線を合わせることを拒んでいる。

もの言わぬ無骨なアスファルトをただ、見つめている。

「…なんだよ、荷物持ちしろってか?」

「違うわ」

 

彼女は立ち止まって両手で顔を覆った。

克も足を止めた。

 

「近くにいたってわたしたちはずっとすれ違ってきたわ」

「……」

「日本とアメリカよ?あまりにも遠すぎるわ!」

「ゆりえ、ちょ…ちょっとストップ!!」

 

彼女の声が涙混じりになってきたところで、克はそれを制するように割って入った。

彼女が怪訝そうな表情で顔を上げて、克をじっと見つめた。

まっすぐな視線にややたじろいだ克は人差し指でこめかみをこりこりと掻いた後、いつものおどけた表情を消した。

 

「あのさ、あの頃のおれたちと今のおれたちを比べても意味ないと思わないか?」

「…?」

「あの頃のおれたちは…いや、おれは歩み寄る努力をしていなかったんだ」

「克…」

「でも今は違う。おれは現実から目を背けたりしないし、屈するつもりもない」 

瞳いっぱいに涙を浮かべた彼女の手を取り、思い切り引き寄せた。

 

「距離になんて負けてたまるかよ」

 

そうだ。ただ指をくわえて見ているだけの日々に比べたら、距離なんてどうってことはない。

自分に言い聞かせながら、克は抱きしめる力を少し強めた。

 

「…克…」

「なんだ?」

「…ちょっと、苦しい…」

「あ。ごめんっっ!!」

 

慌てて両手を離すと、そのまま降参をしたかのように両手を上げたまま克はあたふたしていた。

彼女は泣き笑いの表情で克の肩にそっと手を添えるように置くと、ゆっくり踵をあげた。

 

「!!!」

「おまじないよ。試合、頑張ってね」

 

呆然としたままの克を残し、彼女は走り去って行った。

 

 

 

 

 

「なんだよ、もうダウンか?」

相手の選手がロープにもたれて余裕の笑みすら浮かべている。

 

「ちょっと休憩してただけだよっ」

克はグローブで唇をなぞるようにこすると立ち上がり、

目の前の敵に向かって駆け出した。

カーン、と乾いたゴングの音が克の頭の中だけで鳴り響いた。

 

ーーー負けてたまるかよ


日野くんといえば、素晴らしきいじめっこ(真壁くん限定)なわけですが、

そんな彼の唯一の弱点はゆりえさんなのでした。

原作でその後のふたりがどうなったのか描かれていませんが、どうなったんでしょう?

身分違いの恋は成就したのでしょうか。

 

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