Blue Rose

 

 

彼女は右手に鋏を、左手に束ねた自分の髪をつかんでいた。

腰まで届く程の長い髪が自慢だった。

しかしそれも今日で終わる。

冷たい刃が青白く光り、彼女は握る柄に力をこめた。

頬に幾筋もの涙が伝っては落ちるが、拭うことさえしない。

夜空の色のワンピースの上に満月のような色の髪が散った。

 

 

 

 

 

 

目に鮮やかな赤のオープンカーから出てきた彼女は、まっすぐ屋敷へ入って行く。

出迎えるのは同じような黒服の男たち。その表情も判で押したように相変わらずだ。

彼らは慇懃に頭は下げる。だが心からではないことはわかっている。

「彼は?」

自分よりも数10センチも背が高い男に聞く。

彼の腹心であるこの男も、彼女の訪問を喜ばないくせに顔には決して出さない。

まるでアンドロイドかサイボーグだ。

「ダーク様と呼べとあれほど言ったはずだ」

男は冷ややかな目線で彼女を見下ろす。

それだけで大抵の者ならば震え上がってしまうことだろう。

しかし彼女は不適な笑みを浮かべて見上げる。

「ダークはどこって聞いているのよ。ベン=ロウ?」

男は表情を変えない。

「ダーク様は書斎におられる」

「そ。あ・り・が・と」

片手をひらひらと絹のハンカチでも振るように左右に揺らしながら、彼女は男に背を向けて歩き出した。

 

彼女は知っている。見えるわけではないが、ベン=ロウが内心では今舌打ちをしていることを。

特別な力があるわけではない。

ただの従姉妹だという理由でこの屋敷を自由に歩き回る自分を、ベン=ロウが疎んじているのは誰に聞かなくても知っている。

邪魔なのだ。特別な力を持たない者(自分)が。

 

彼女はドアの前に立った。

「ナディアか?」

ノックをする前に、部屋の中から彼の声がした。そして触れることなくドアは開いた。

細長い視界が完全に広がると、彼女は中へと足を踏み入れた。

柔らかな絨毯に、突き刺さりそうな赤いピンヒールが深く沈んだ。

かなり傍まで近づいたというのに、彼はまだ背中を向けたまま振り返りもしない。

彼が燻らす葉巻きの甘い香りと、彼女のむせ返るような香水の匂いが部屋の中で絡み合った。

 

彼女はずっとこの背中を見つめ続けてきた。

幼い頃からずっと。彼が先代の当主が望むままおざなりの結婚をしてしまった時も。

そんな理由では、もはや彼女の想いが変えられないことを思い知らされただけだった。

けれど彼の妻と呼ばれた女は、もはやこの世の人ではない。

彼女は口元に鋭利な刃物のような笑みを浮かべた。

 

もう誰にも邪魔はさせない。

今度こそ彼の心をこちらへ向けてみせる。

 

「ねぇ、ダーク。何のお勉強してるの?」

彼女は周りこんで彼の目の前に立つ。

彼は分厚い辞書に目を通していた。

「…お前には関係のないことだ」

再び葉巻きをくわえると、一瞥もくれず辞書に目をおとす。

彼女は半分おどけて首を竦めると、彼の口から葉巻きを奪うとクリスタルの灰皿に押し付けた。

そしてしなやかに両腕を伸ばして彼の首に絡ませた。

はずみで彼の手から辞書が滑り落ち、まるでスローモーションのようにゆっくりと二人の間に落ちた。

 

「相変わらず冷たい人ね。でもそこが好きよ」

彼女の艶やかな赤い唇が彼の唇へと近づく。

「よせ」

彼は静かに彼女の手を振り解いた。

「用事がないなら出ていくんだ」

足元の辞書を拾うと、また彼女に背を向けた。

徹底的なまでの拒絶が、彼女の心の一番深い所まで突き刺さる。

いっそ諦められたら、どんなに楽だろう。

他の男なんていらない。安易に近づいてくるような、容易くこの手に堕ちてくるような男など。

 

「…どうして、あたしの気持ちをわかってくれないの?」

声が震えているのが自分でもわかった。彼の前だと今まで学んだどんな術も情けない程通用しない。

ぱたんと辞書を閉じ、彼はデスクの上に置いた。

そして初めて彼女と向き合った。まっすぐ瞳を見つめて。

 

「わたしには心に決めた女(ひと)がいる」

 

一瞬で目の前が真っ暗になった。

息をすることすら忘れてしまいそうだ。

今聞こえるのは自分の鼓動。すり抜けていくのは彼の言葉。

その先、彼の視線の彼方には漆黒の髪の少女の姿がある。

見たくもないのに、知りたくもないのに。

ましてやそんな能力などありはしないのに。

目を背けることができない。

 

「いやよ…また他の誰かにダークを渡すなんて」

気がつけばうわ言のように呟いていた。

 

「行かせないわ」

横を通り過ぎようとしていた彼の行く手を阻んで、彼女は扉の前で両手を広げて立ちはだかった。

そうは言っても彼の能力の前では焼け石に水。なんの足しにもならないことはわかっている。

子供のようにだだをこねているだけなのも、わかっている。

それがどれだけ彼女らしからぬ行動だということも。

けれどそうしなければ彼が二度と手の届かぬ所へ行ってしまうという危機感が、彼女をなりふり構わなくさせていた。

 

「どくんだ」

風圧が彼女の頬を掠めた。ドアに拳大の穴が一つあいた。

次はない。無言で彼はそう言っている。

彼女はそのままずるずるとドアにもたれたまま、座り込んでうなだれた。

 

やがてドアが開いた。彼女はうつむいたまま目を見開く。

「待って!」

通り過ぎようとする彼の足が止まった。

「何だ」

「ダーク、今日はあたしの誕生日なの。お祝いを頂けるかしら?」

彼女は歪んだような笑顔で彼を見上げる。

「何が欲しい」

「バラの花を。両手で抱えきれないほどの花束を頂戴」

「いいだろう。後で届けさせよう」

「ダメ!ダークから直接手渡してくれないと嫌よ…従姉妹からの最後の頼みよ?」

Noとは言わせない。彼女の碧の瞳が強く訴えていた。

彼はタバコをふかすようなため息をつくと、了承した。

「ありがと。色はブルーがいいわ。いいでしょう?何も夜空の月が欲しいなんて言ってないんだから」

挑むような視線を投げて彼女は笑い、彼は刃物のような視線で彼女を睨む。

 

用意させた車に乗り込むと、彼は運転手に行き先を告げた。

彼は勿論何も言わず、さすがの彼女も口をはさめず 窓の外では景色がただ流れていく。

見慣れたはずの横顔には何の表情もない。サングラスで隠れた瞳は今どこを見ているのだろう。

それが自分であったらどれだけいいだろうか。

彼女は人知れずため息をついた。

 

静かにブレーキをかけて車が止まった。どうやら着いたらしい。

「ちょっと待ってよ、ダークってば」

ぼんやりしていると彼はどんどん先を歩いて中に入って行ってしまう。

慌てて彼女は後に続いた。

 

「カルロ様、いらっしゃいませ」

深々と頭を下げる店員の娘たち。店内にはその季節にはないはずの花も含めて様々な色が溢れていた。

そこに青いバラはないにもかかわらず、彼の表情は変わらない。

「青いバラをあるだけもらおう」

「かしこまりました」

花屋の女主人がうやうやしく頭を下げた後、店の奥へと消えた。

 

「嘘よ…」

女主人が戻ってきた時、彼女は思わず声に出していた。

 

この世には存在しないはずの色のバラが今、自分の手の中にある。

注文通りの抱えきれないほどの、正真正銘の青。

「おめでとう」

彼はその一言と彼女を残して出ていった。

 

それが彼と会った最後だった。

 

 

 

 

薄まった芳香だけを残し、既に花は散った。

青い花びらがうめ尽くした部屋に独り、彼女はいた。

音のない世界に鋏の刃が触れあう、冷ややかな音だけがする。

小さな波のようにうねった彼女の髪が少しずつ、真珠のような雫と共に花びらの海の中へ落ちていった。

 

翌日、誰もいない納骨堂に一人、今彼女は立っていた。

伏せられたままの彼の死は、未だにカルロ家のトップシークレットだ。

葬儀すら行われず、この真新しい棺にも名前はない。

彼女の指が冷たい石の棺にそっと触れた。

 

「ねぇダーク。あたしあの時やっぱり青いバラじゃなくて、黄金の月を頂戴って言えばよかったわ」

そして一輪の花を残して、彼女は立ち去る。

彼がくれた最初で最後の贈り物。madame Yという名の青いバラを。

 


 

ようようさんへプレゼント。

イメージは古い洋画のワンシーン。

Blue Roseは不可能の代名詞。月(cry for the moon)はないものねだり。

どっちにしても彼女の恋は叶うことがないのです。

ちなみにmadame Yは架空のバラです。あしからず。

 

ナディアの登場はカルロ様がお亡くなりになった後でした。

生前、どんな会話をしていたのか。

どんなふうに失恋したか。

あれこれ考えているうちに、彼女の髪形が気になりました。

ひょっとして、自分で切ったとか?

そんなことから生まれた話です。

NOVEL