大事な人を守る。 気持ちだけはどうにもならないことに気づかないのは、幼さ故だ。 けれどあの頃の自分に何ができただろうか。 子供だから庇護される立場で当然なのだろうが、子供である前に自分は男だった。
「何があったの?俊」 仕事柄さすがというべきか、母は手早く包帯を巻いた。 問う言葉以上に深く探る視線に耐えかねて、俊は横を向いた。 その頬にはできたばかりの擦り傷が生々しい。
ーーーこんなもの、ちっとも痛くない
父親がいないことは、そんなに異端なのか。 同年代の少年の細い足が嘲るように、俊の脇腹を抉る。 数人に寄ってたかって足蹴にされる痛みと屈辱に、俊は耐えた。 殴り返すことは容易い。渾身の力を込めれば1発でこと足りるはずだ。 しかしその瞬間、彼らと同等のレベルにまで自分が堕ちる。 ぎゅっと握りしめた俊の両手はもう、ボクサーの拳だ。 大切な人を守るために使う事しか許されない。 砂埃が舞う地面に唾を吐く。赤いものが混じっていた。
「派手にやったな〜」 通い慣れたドアを潜るやいなやの、小関の開口一番だった。 肘近くまで巻かれた包帯が仰々しく思えて、俊は乱暴に外す。 「たいした事ないです」 ここに来るまでに取っておけばよかったと後悔した。 頬に貼られた絆創膏も勢い良く剥がそうとした。 小関の手がその手を掴む。 「おいおい、無理すんなって。バイキン入ったらどうすんだよ」 俊は唇を噛む。ムキになる自分はまるで子供だったことに気づいたのだ。 「それより早く着替えてこいよ。相手してやるよ」 ニッと笑って俊の背中を押す。 二、三歩よろけるように前に進んで、俊は振り返った。 小関は自らの拳と拳を打ち合わせて、ニカッと笑った。 「お願いします!」 その瞳は少年から既にボクサーになっていた。
2分間マットの上に立っていた。 誉められるとすれば、それだけだ。 足が一歩も前に進まず、ガードをすれどもこじ開けられるように、小関の重いパンチが腹に、顔に刺さる。
「お前、何迷ってんだよ。今はボクシング以外のこと、考えんな」
言葉も刺さった。 ジムのドアを潜った時よりも、生傷を増やして俊は家路につく。 太陽が空を染めながら沈んでいくのを、黙って眺めていた。 気づけばまたここにいる。
髪の長いお姉ちゃんと二人、ここで夕焼けを見た。 あれきり会う事はなかったし、毎日この丘へ足を向けていたわけじゃない。 だけど何かあると、足は自然と想い出の場所へ向かってしまう。 繋いだ手の温もりは、今この手にはない。 手のひらを広げて見つめてみても、冷たい北風が無言で通り過ぎていくだけだ。 俊は何かを閉じ込めるように、ぎゅっと手のひらを結んだ。
何も考えないことにした。 父親がいないことも。故なき暴力に耐える不条理も。 ボクシングを復讐の道具にしたくはなかった。 強くなることと、禁を犯して弱者を殴ることは違う。 ただ前を向いていよう。 強くなろう。もっともっと、強くなろう。 誓いをたてる対象が沈みいく夕日というのは、本来間違っているのかもしれない。 けれど俊には、これが一番相応しいように思えた。
太陽は俊に何も語りかけることなく、沈んではまた昇った。 繰り返し、繰り返し。 今日も見事な夕焼けだ。 俊はポケットに両手を突っ込んで、ぼんやり眺めていた。 頬を切るような風はいつしかなりを潜め、やんわりと撫でるように掠めていく。 もう春も近い。風に乗って、どこかから名も知らぬ花の香りを連れて来た。
「真壁く〜ん」
風は蘭世の声も運んできたようだ。 俊は振り向き、軽く手をあげる。 あの日と変わらぬ長い髪が、風に揺れていた。 俊は目を細め、過去と現在を束の間だけ、重ねて見て現実を見た。 肩で息をしている蘭世がそばにいた。
「…全速力で走ってくるこたないだろう」 「…だ、だって…結果が…」 今まで息を止めていたかのように、大きく息を吐いていた。 「落ち着けって」 「何で、真壁くんの方が…落ち着いてるのよ…だって今日は…」 「ああ、結果だろ?」 「そう!プロテストの結果!!」 蘭世は一言も聞き逃すまいとして、俊の腕をがっしり掴んだ。 あまりに真剣な面持ちに、こちらが面食らう。 おそらく今日は一日中何も手につかなかったのかもしれない。 それだけ気にかけてくれているということだ。 改めて有り難いと思う。
「掲示板に張り出されるんだけどさ、その紙がスゲー小せえの」 「うん」 「名前が見づらくってさ」 「うん!」 「受かってた」 「うん!!え〜〜〜!!!」
蘭世は泣き笑い、俊は笑う。 太陽はまたいつもと同じように、空の色を変えて消えて行く。 新たな誓いをたてよう。 もう一度、暮れゆく空を染める夕焼けに。 あの日に負けないほどの、美しい茜色に俊だけの誓いを。
かるさんのサイト Tokimeki Cafeさまの開設6周年のお祝いに。 真壁くんにとって「夕焼けのお姉ちゃん」の存在はとっても大きいのです(←願望含) ボクサーにとって喧嘩は御法度だと聞いたことがありますが、中学生の頃はケンカ三昧でしたね。 たぶん小関さんから上手なケンカの仕方でも伝授してもらったに違いないとふんでおりますが、いかがでしょう。(←小関さん大迷惑)
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