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「卓、もう食べないのか?」
夕食を終えて片付けようとした俊が、フォークを握りしめたまま動かない息子に気づいた。
蘭世は神谷曜子と二人して出かけて、そのまま夕食をすませてくるらしい。 中学時代から続いた二人の奇妙な友情は、今では本来あるべき姿に形を変えた。 曜子からの電話を受けたのは昨日の夜のこと。 どうやら相談があるようなのだが、これは女同士の話だからだと、俊は蚊帳の外へと押しやられてしまった。 もちろん聞き耳をたてて聴くつもりなど、毛ほどもない。 が、どことなく置いてけぼりをくらわされたような気がしないでもない。
蘭世が作っておいてくれた夕食をレンジで温めて、 息子と二人で食べる。今日は男同士、女同士で食事なのだと言うと、卓はきょとんとしていた。
今夜のメニューは蘭世の手製のソースが添えられた、 卓が大好きなハンバーグ。 付け合わせには緑が鮮やかなさやいんげんのソテーと、優しいオレンジ色のにんじんのグラッセ。
卓は機嫌良くかぼちゃのポタージュも飲み干し、野菜サラダもきれいに平らげ、 まして大好物のハンバーグはおかわりをねだる程。
しかし。
「まだ残ってるぞ」 俊はお皿の隅に遠慮がちに追いやられたにんじんを指差す。 途端に卓の表情がこわばった。 そしておずおずと見上げる。
「だって…にんじん、きらい」
小さな息子の声が、かつての自分と重なって聞こえて、俊は思わず片手で顔を覆った。
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「だって、にんじん、きらい」
夕食のクリームシチューを美味しそうに食べていた俊だったが、 いつからかスプーンの先端で底に沈んだオレンジ色をつついているのに蘭世が気づいた。 かちゃりとスープ皿にスプーンをあてて、俊は上目遣いに蘭世を見た。
俊は大抵何でもーー特に蘭世が作るものならーー好き嫌いなく食べた。 セロリだってキュウリだって野菜スティックをばりばりと食べるのだ。 しかし、このにんじんに限っては、特に火を通すとまるでダメなのだった。
今夜もしっかりと火が通って柔らかく煮込まれたにんじんだけが、どうしても口に運ぶことができずにいた。
「俊くんあのね、食べ物には命があるんだよ。知ってる?」 スプーンを握りしめたまま俯いている俊に、蘭世が優しく話しかけた。
「野菜にも?」 「そう。例えばご飯のお米一粒一粒にも命は宿っているの。その命を貰って、わたしたちは生きているのよ」
それにね…と蘭世は続ける。 俊がどうしても食べることのできないにんじんには命がある。 俊が食べないのならば、小さな命は無駄になってしまう。 だけど俊が食べたのなら、その小さな命は俊の中で大きな力となるのだと。
自分のちっぽけな身体に流れ込む小さな命たちが、やがては蘭世を守る力となるのだろうか。 それでもやっぱり今の自分はあまりにも小さくて、 どれだけの命を貰っても、到底追いつかないような気がした俊は慌てて、 器の中ですっかり冷えてしまったにんじんを口に入れた。
噛むとやっぱりそれはまだ嫌な食感で、俊は顔をしかめて半ば噛まずに飲み込んだ。 苦しそうな顔でごくりと音を立てたので、蘭世は慌てて水を差し出す。
「大丈夫?俊くん」 俊はスプーンを握りしめながら、首を振った。 「平気さ。だっていっぱい食べて、早くまかべくんにならなくちゃ」
『真壁くん』という言葉に射抜かれたように、 蘭世の大きな目は一層大きく見開かれた。
「まかべくんじゃなきゃ、お姉ちゃんを守ることができないんだもの…」
しょんぼりと肩を落とす俊はスプーンを心の支えにするかのように、握りしめている。 言葉を失った蘭世の瞳からついに一粒、涙が溢れた。 柔らかな頬を伝って流れ、顎のラインをなぞるようにした後、 まるでスローモーションのように緩やかに 一滴の雫が真っ白なテーブルクロスの上に落ちて小さな染みを作った。
蘭世が流した一滴の涙は、小さな俊の心に深く突き刺さる氷の剣となった。 胸の辺りが、傷はここだと言わんばかりにずきずきと痛い。
やっぱりにんじんがまだまだ足りないんだ。 今まで、ずっと食べてこなかったから。残してばかりいたから。 だから大きくなれなくて…
…ぼくが…まだ、まかべくんじゃないからだ。
ちっぽけな掌を見つめて俊は項垂れる。 どれだけ嫌いなにんじんを食べたら、お姉ちゃんが望む姿になれるのだろう。 俊は悔しくてもどかしくて、泣いてしまいそうだった。
「俊くん」
いつもと変わらない優しい声に、俊は弾かれたように顔を上げた。 流れた涙の跡なんてどこにも見あたらないほど、蘭世はいつもの「蘭世お姉ちゃん」に戻っていた。
「俊くんが、お姉ちゃんを守ってくれるんでしょう?」
蘭世はにっこりと微笑む。 雪や氷を溶かし、小さな芽をやがて大地に根付かさせる太陽のように、温かく穏やかに。 そして俊の心に突き刺さったままの氷の剣をも溶かしてしまうかのように。
俊は力強く頷いた。 そうだ、ぼくがお姉ちゃんを守るんだ。 そして俊は残った全てのにんじんを次々に口にしては、機械のように咀嚼しては飲み込む。
小さな命が、早く大きな力に変わりますように そっと願いを込めて。
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「なあ、卓。どうしてもにんじんは食べられないか?」 まっすぐに問いかけてくる父の言葉と視線に、 卓は後ろめたそうにやや下を向く。
「にんじんにも小さな命が宿っているんだよ。でも卓が食べなかったら、その命は無駄になってしまうんだ。それでもいいか?」
ぶんぶんと、金色の髪が揺れるほどに卓は頭を振る。 卓だって本当はわかっている。 好き嫌いがいけないということは。 だけどわかっていても、どうにもならない事だってある。
そんな小さな息子の逡巡を手に取るようにしばらく見つめていた俊は、やがて口を開いた。 それは卓には聞こえない程度の小さな呟きでしかなかったが。
「でないと、まかべくんになれないぞ」
聞き取れずに不思議そうに聞き返してくる息子を見て、俊は笑った。
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