オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
224.「祈りの鐘」牧歌 L.メラーナ・フォクト作曲 
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成+マンドロンチェロ+マンドローネ
解説 1910年に行われたミラノのIl P1ettro誌による第三回作曲コンクール第一項の交響曲・序曲・幻想曲部門において、特別賞を受賞した“Lavoro ed Arte"(「労働と芸術」)であろう。この曲は“Omaggio a1 Passato"(「過去への尊敬」)と題して出版され、彼の代表作として本邦において愛奏されている。

前記の「労働と芸術」の他、1908年の第二回コンクールで、“L'Angelus”、1913年の第四回で“Serenade a Maman”、“Leggende Bretonne”が入賞している。その他、1928年にスイスで発行されていたDe Mandolingids誌に”Scene Alpestri”、1930年にL'Estudiantina誌に“Le Vert Galant”が発表されている。(以上、故松本 譲氏の解説を引用)

1920年のIl Plettro誌6月号に「小品の作曲コンクール」の報告がなされているが、「スイス、レマン湖北岸のサント・クロワ(Sainte-Croix)から応募した、Lodovico Mellana-Vogtによるマンドリンとギターのためのメヌエットが銅賞になった」と記されている。
 Angelus"は、朝・昼・夕のお告げの祈りの時を知らせる鐘のこと。

225. 「東洋風行進曲」 B.マステッリ作曲 

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜
 
解説 マステッリは、1878年10月13日地主の息子として、イタリア北東部のヴェネト州フィカローロに生まれた。家族で合奏を楽しむことから音楽の道に入り、1910年にボローニャ王立音楽アカデミーのクラリネット科を卒業、1912年には管楽器の教師に任命され、ピエモンテ州のサルッツォに移った。1914年、ルガーノで行われた市民オーケストラの副指揮者のオーディションに合格し、同地に赴いた。同時にスイスのルガーノ地区カノッビオの吹奏楽団の指揮者となり、さらに同地のマンドリン合奏団も指導した。1927年のルガーノ・フットボールクラブの公式応援歌や、イタリアがドイツと同盟し、危機にあったスイスを武装中立路線で守りぬいた外務大臣ジュゼッペ・モッタに捧げたレクイエムミサが「聖母への祈り」として法王から認められるなど、彼は様々な音楽ジャンルで作曲活動をおこなった。ピエトロ・マスカーニ(1863-1945)、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)、ヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969)、ヘルマン・シェルヘン(1891-1966)、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)など国際的地位の作曲家・指揮者らと交友があった。1962年10月9日、ルガーノで死亡し、故郷フィカローロのロヴィーゴに葬られた。

 彼がマンドリンオーケストラに編曲したチマローザの『覆された陰謀』と『女の手管』がよく演奏され、彼の名を斯界に残してきたが、彼の作曲したマンドリン曲は、「麗しのルガーナ」と「東洋風行進曲」のみが知られている。

 「東洋風行進曲」は1927年のイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに金賞を得、1928年イル・プレットロ誌から出版された。

226.「古風なミヌエット」 F.パオロ・ネーリア作曲 
 B.ビアンキ編曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説 作者は、1874年5月22日、シシリア島中央部のエンナに生まれ、 1932年7月3l日にスイス国境に近いマッジョーレ湖畔ヴェルバーニアで死去した。エンナの聖堂でバイオリニストと教師をしていた父ジュゼッペからバイオリンとピアノ、トロンボーンの基礎を学んだ後、1893年、作曲を勉強するためパレルモの" V.ベッリーニ音楽院"に進み、ディプロマを得て卒業し、同地でオペラ指揮者をしていたが、1901年、彼はドイツ人女性と結婚し、ミラノからドイツのハンブルクに移り、同地でオーケストラのリーダー、音楽院のディレクターとなった。また、各地で重要なコンサートを行い大成功をおさめた。ドイツ在住の間に彼はハンブルクで最初の音楽学校であるNeglia音楽院を設立した。1914年第一次世界大戦が始まり、ドイツの交戦国であった故国イタリアに戻らなければならなかったが、その故国で時としてスパイとして扱われ、不遇の時を過ごさなければならなかった。暫くして彼はミラノ近郊レニャーノに移り G.ヴェルディ音楽学校を設立し教育に一身を捧げた。作品はオペラ、交響曲、室内楽曲、吹奏楽曲、合唱曲、ピアノ曲など多岐にわたり、当時もてはやされていたマンドリンにも興味を示し、無伴奏マンドリン独奏曲”Fntasia,op.6”を作曲、"Serenata Siciliana,  op. 37"では、編成にマンドリンを加えている。 本曲は、ミラノのマンドリン教授でマンドリンソリストとしてレコードに録音もしていたボニファチオ・ビアンキの編曲によるもの。スコアおよびパート譜はトリーノの音楽出版社AUGUSTAから1956年に出版されたものを用いた。 

227.「スペイン幻想曲」 E.レデギエーリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成+マンドロンチェロ、ベース 
解説 作者の詳細は不明であるが、1913年12月のイル・プレットロ誌に「ブリュッセル(ベルギー)の作曲家」と写真入りで紹介されている。
 判明している作品は次のとおり。
Interludio    (c) VM-1905.7  IP-1926.6
Amicizia,mazurka       (b) IP-1906.12
Femina,polka-nervosa     (b) VM-1907.1
Traforo del Sempione,inno   (c) IP-1907.4
De tout mon coeur,valzer   (b) IP-1907.8
Fantasia Spagnuola       (c)  IP1908.10
 (註) VM Vita Mandolinistica誌
     IP Il Plettro誌
       (b) 2 Mandolini e Chitarra
           (c) 2 Mandolini, Mandola e Chitarra

 スペイン幻想曲は、イル・プレットロ誌の第一回作曲コンクール(1906年)で第二位(銀賞)を得た。このとき、第一位はアマデイの「プレクトラム讃歌」、同じ第二位にはマネンテの「秋の夕暮れ」、デ・マルティーノの「月ありき」、べッティネリの「悲歌」であった。
スコアはイル・プレットロ誌1908年10月に発行されたものを用いた。1913年12月にマンドリンとギターのパート譜が同誌から出版されている。

228.「セギディーリア」 A.ルスパンティーニ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説 作者の詳しい略歴は不明であるが。『イタリア吹奏楽辞典』には次のように記されている。

「ルスパンティーニ、アンジェロ(生地不明1881年 〜 没地不明1983年)

 ジャコモ・セタッチョーリ(Giacomo Setaccioli)とアレッサンドロ・ヴェッセッラ(Alessandro Vessella)に師事し、ローマの聖チェチリア音楽院を卒業。1912年より第16歩兵連隊軍楽隊長。また、チステルナ・ディ・ラティーナ[ラツィオ州ラティーナ県]の吹奏楽団を率いた。マンドリン合奏のためにいくつかの楽曲を作曲し、その中の「セギディーリア」はイル・プレットロ誌主催の第4回コンクールで入賞し1913年に出版された。彼のいくつかの舞曲はリッルストラツィオーネ・ポポラーレ(L’Illustrazione Popolare)誌から出版された。」(根岸広輝氏提供・訳)
 この曲が出版された1913年2月のイル・プレットロ誌に作者の写真と次のような簡単な説明が記されている。
「作者は歩兵第16連隊軍楽隊長。ローマの聖チェチリア音楽院にてA.ヴェッセッラ、G.セタッチョーリ両氏に師事し卒業後、国際音楽コンクールに入賞。
 まだ若きマエストロ・ルスパンティーニは、音楽分野でいくつかの注目すべき成果をあげているが、特筆すべきは、32名中第1位を獲得した昨年の軍楽隊長コンクールである。作曲家としては、霊感に満ちた簡素で感動的な旋律、適切な和声法、そして真に現代的な手法によってなされた器楽編成法によってルスパンティーニの作品はあらゆる点で際立っていると言えよう。

数多くの作品の中から主なものは、吹奏楽のための見事なシンフォニア、L’Illustrazione Popolare(リッルストラツィオーネ・ポポラーレ)誌から出版されたいくつかの舞曲、ティルソ・コンクール(Concorso del Tirso)で入賞した牧歌を挙げることができる。」(根岸広輝氏訳)

 この作品はイル・プレットロ誌の第4回作曲コンクールにマネンテの「小英雄」と共に二位入賞した。このときの第一位はファルボの「ニ短調序曲」、カッペルレッティの「劇的序曲」、ラウダスの「ギリシャ狂詩曲」であった。セギディーリアはスペインの代表的な3/4拍子の民俗舞踊。スコアは1913年2月のイル・プレットロ誌、パート譜は1929年12月の同誌によった。