オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
121.幻想曲「音楽の印象」  G.サルトーリ作曲
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、
       ベース
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説 ジャコーモ・サルトーリは1860年3月8日トレントとヴェローナの中間にあるアラで生まれ、1946年3月25日トレントに逝いた作曲者、オルガニスト、吹奏楽隊長、指揮者。

理髪師であった父の後を継ぐはずだったが、マンドリンを独習。18歳で最初の作品を書き、1881年3月にはアラの音楽協会に「バイオリン練習生」として登録された。アラから北へトレントとの中間にあるロヴェレートでBrogialdiの下でバイオリンをGiovanni Tossに作曲を学び音楽に没頭した。アラに住み続け、地元バンドの代理指揮者、教会のオルガニストとなり、この町の音楽家となった。1989年にエルビラと結婚し4人の息子をもうけた。第一次世界大戦の間、彼は南のヴェローナに疎開し、しばしばシンフォニーコンサートの第一バイオリン担当した。戦後、彼はアラには戻らず、トレントに移り、そこで音楽に身を捧げるようになった。トレントでは、1938年まで、ビジル・キルヒナーの代わりにマンドリンオーケストラ「クラブ・アルモニア」を指揮し、トレンティーノ・アルト・アディジェ州の町々や、イタリアの様々な都市で演奏した。彼はプレクトラム音楽の専門家となりマンドリンとギターのためにだけ作曲するようになった。1894-1939にかけてトリノのイルマンドリーノ誌やミラノのマンドリニスタ・イタリアーノ誌から彼の作品が度々発表された。彼の作品のうち約7曲が作曲コンクールに入賞し、世界にその名を知られるようになり、いくつかの外国のマンドリンアンサンブルが彼の名を冠し、彼を「マンドリンのレハール」と称えた。第二次世界大戦までに、彼の音楽は広くヨーロッパ全体に普及し、イタリアの伝統的なメロディ、エレジーやセレナータのメランコリーな詩情、そして陽気で活気のある舞曲は、「サルトーリ調」とも言うべきもので、今も愛奏されている。

現在アラで開催されているマンドリンコンクールには、「マンドリン楽器によるジャコモ・サルトーリ国際コンクール」と彼の名前を冠している。アラ市は、市の劇場を「ジャコモ・サルトーリ劇場」を命名することによって、彼の功績を称えた。1990年、彼の作品はアラ市の市立図書館に寄贈された。彼の作品は、約150曲残されているが、その大半はイル・マンドリーノ誌から出版されており、中でも「フローラ」「聖ルチオの鐘」「糸杉の林にて」等がよく知られている。彼の作品で注目すべきはワルツが41曲あり、「マンドリンのレハール」といわれる所以であろうか。

“Impresioni Musicali(音楽の印象)”は、1930年、イル・マンドリーノ誌から出版された、いかにも「サルトーリ調」の幻想曲である。初期の合奏団にとっては、こうした明快簡明・技術容易で面白い作品を充分に引きこなせるよう、徐々に力をつけていっていただきたい。無理な選曲を押しとおした演奏はいただけない。
122. 「交響的前奏曲」 U.ボッタッキアリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成+ベース
解説  
1879年3月10日、マチェラータ(Macerata)のカステルライモンド(Castelraimondo)に生まれ、1944年3月17日コモ(Como)に逝いた作曲家。労働者の家に生まれマチェラータ(Macerata)の工業学校に通っていたが、はやくから音楽に対する情熱を燃やしていた。この頃ボローニアのマンドリン誌イル・コンチェルトに彼の作品『Nubi d'Amore』(1897年5月号)、『Nevicata』(1898年(2月号)、マーチ『Caste1raimondo』(1898年6月号)が出版されているが18歳に満たなかった。彼は音楽に対する宿望たちがたく、故郷を離れペサロ(Pesaro)に移りピエトロ・マスカーニの指導下にあるロッシーニ音楽院に入り、組織的な厳格な音楽教育を受けることとなった。1899年、若い学生であった彼は1幕のオペラ『L'OMBRA(影)』を書き、11月12目マチェラータのLauro Rossi劇場で初演され大成功をおさめた。
 4年間の修行を終え、卒業後は作曲活動に専念。イタリア文部省主催による作曲コンクールに金杯を受け、ジェノヴァ市に捧げられた『4楽章のSinfonia』の他、オーケストラ曲、マンドリン曲、吹奏楽曲、オペラ、室内楽、声楽の為の作品等がある。とくに、3幕のオペラ『Per 1a Patria(祖国のため)―後に"Severo Torel1i"(セヴェロ・トレルリ)と改題』、喜歌劇『I1Paradiso de11e Signore(紳士の楽園) ―後に"Le Befe de11'Amore"(愛の悪戯)と改題』、さらにオペレッタ'『Maggio1ata d'o1tre mare(海のかなたの五月の歌) ―後に”"L'URAGANO"(ハリケーン)に改題か』。
 マンドリン音楽に関する作品については、前述のボッタキアーリ18才頃の作品をはじめイル・コンチェルト誌から40曲近い作品が発表されている。これらは後に、1897年から1914年にかけて発表されたものを一括して『ウーゴ・ボッタッキアーリ作品集』としてコメリーニ社から刊行された。また、1910年、ミラノのイル・プレットロ(Il P1ettro)誌主催の第3回作曲コンクールにおいてS.ファノレボの『組曲田園写景』、L.メラーナ・フォクトの『過去への尊敬』等と共に1等賞を獲得した『Il Voto(誓い)』、1915年に出版された『交響的前奏曲(Pre1udio Sinfonico)』、さらに、1941年、シエナに於いて行なわれたマンドリン・オーケストラの為のオリジナル作品の第2回作曲コンクールに1等賞を得た『Incantesimo di un Sogno(夢の魅惑)』、そして『交響的前奏曲(Pre1udio Sinfonico)』がマンドリン曲として彼の代表作となっている。『交響的前奏曲(Pre1udio Sinfonico)』は1914年の作品で、1915年この曲の出版後、我が国にもいち早くもたらされ今日まで愛奏されている。第一主題と第二主題それぞれに展開部をもち、各パートを複数に分割し重厚な和音と巧妙な対位法により骨組みのしっかりした規模壮大な作品となっている。

123.前奏曲「デラ・カルソン」 U.ボッタッキアリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、
ギター、ピアノ
スコア 原編成と同じ
パート譜第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース、ピアノ 
解説  マンドリン音楽に関する作品については、音楽学校進学前の18才頃から行進曲「カステルライモンド」など約40曲の作品がイル・コンチェルト誌から発表されている。これらは後に、1897年から1914年にかけて発表されたものを一括して『ウーゴ・ボッタッキアーリ作品集』としてコメリーニ社から刊行された。彼の作品の大半を出版しているボローニア(Blogna)のコメリーニ社は1897年からマンドリン・ギター研究誌イル・コンチェルトを刊行し、斯界を啓蒙していたが、ボッタッキアーリも一時期同誌の主幹を務めた。当時イタリアには各都市にマンドリン誌が競って刊行されていたが、その多くは短命に終わった。そんな中で、イル・コンチェルト誌やイル・プレットロ誌はマンドリン音楽の作曲コンクールをおこない、優れた作品を斯界に提供し、月々の定期刊行とは別に、時々のコンクール入選曲をアルバムとして出版していた。本曲は、楽譜の表紙に記されているように、1908年コンクール金賞受賞曲とある。

 "Della Carson"とは、当時アメリカでシカゴ一の美女といわれた有名な女優の名前で、作者との関連はわからない。


124.「詩的序曲」 G.アネッリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成+ベース 
解説 作者は、1876年クレモナ近郊トリーゴロ(Trigolo)に生まれ、1926年に没したイタリアの作曲家。1897年にはトリノのマンドリン誌イル・マンドリーノに小品を発表するなど、はやくからマンドリン音楽に関係し、1911年にはジュゼッペ・アネッリ・トリーゴロの名で溌剌として清新な序曲『イタリアの復活』 を発表して初期マンドリン合奏に忘れることの出来ない作者となった。この後四つの序曲(『ロマン的序曲』『花の序曲』『劇的序曲』『イタリアの覚醒』)を作り、アネッリ風ともいうべきマンドリン合奏における序曲(Sinfonia)の定型を残した。『嬉しいとき悲しいとき』など、多くのマンドリン合奏のための小品をイル・マンドリーノ誌、マンドリニズモ誌(スイス)、レスチューディアンティナ誌(フランス)から発表しているが、残念ながらほとんど知られることもなく演奏されることはない。
 『詩的序曲』は19241月のイル・マンドリーノ誌から出版された。楽譜に掲載された作者の肩書はブラ音楽学校校長となっているが、作者が長年校長として音楽振興の貢献したことからカヴァリエーレ(準男爵)の称号を得たことを感謝して、応援してくれた著名な上院議員Paolo Boselli氏に献呈献呈されている。この曲は、19255月ビェルラで開かれたピエモンテ地方第二回演奏コンクールの課題曲となった

125.「ナポリ、タランテッラ」  E. メッツァカーポ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成+マンドロンチェロ、ベース、打楽器(管弦楽譜より)
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター,マンドロンチェロ、マンドローネ、打楽器
解説 作者はイタリアのマンドリニストで、19世紀の終りにパリに移住してマンドリンの教授と、多くのマンドリン曲を書いた。1901年にはロンドンを訪れ、同地の婦人合奏団の指揮とマンドリンの教授をした。王立アルバートホールで、彼の指揮により自身の作曲になる“Reverie”と“Tolede”の演奏は大成功をおさめた。マルチェルリと共に共演したのはこの頃である。1912年には再びパリに帰り作曲家として、また音楽学校の教授として、さらにロンバルド・エステヴュディアンティーナの指揮を務めた。

メッツァカーポは多くの好ましいマンドリン合奏のための曲を作曲、その数は約60曲にもなる。また、彼のマンドリン作品のいくつかは、ヴァイオリン曲、小管弦楽等に編曲され出版された。彼の作品にはピックの使い方、運指が詳細に書かれている。現代では使われない奏法かもしれないが、マンドリン奏者としてマンドリン曲を書いた作者が意図した音、音楽を具現するための指示と理解したい。
 本曲は、パリのRowies社から、マンドリンとピアノあるいは二つのマンドリン、マンドラ、ギターの編成でパート譜が出版された。また、パリのE.Gaudet社から管弦楽譜が出版されている。マンドリン合奏曲といってもマンドリンとギターだけでも楽しめるようになっているので、管弦楽と比べると色彩感に乏しい。管弦楽譜では、とくに打楽器を効果的に配しているので、メッツァカーポのマンドリン合奏譜にこの打楽器群を付した。
 タランテラは、6/8拍子のテンポの速い曲である。本曲のマンドリン合奏譜には具体的な速度表記はなかったが、管弦楽譜には付点四分音符=168の指示がある。