その三 「先生」と「ここに来る前」の彼について。


貞本マンガ版エヴァではシンジ君は第三新東京市に来る前は、
叔父さんの所に預けられていますが、
アニメ版では「先生」の所に預けられているのです。

これは私のエヴァファンフィクションでの注目ポイントでして。
「叔父さん」が出て来た瞬間、あ、これ貞エヴァ設定だな、と判断します。だからどうしたっていう話。

で、貞エヴァではシンジ君が第三新東京市に来る前のつらい境遇がチラっとかいま見れますが、
アニメではシンジ君は「先生」のところでどうだったのかが、よくわからないのでした。


そもそも、なんで「先生」と呼ばれているのか。
文字通り何かを人に教える職業に就いているのだろうか。

親戚ではないのだろうか。親戚をそういう風に呼ぶのは不自然な気がする。
でも、親戚でなかったら、どういう縁でシンジ君を引き取ったのか。
もしかして施設かなにかで預けられていてそこの先生の事なのか。

等々、疑問は次々わいてくるわけで。

シンジ君の4歳から14歳までの10年間を知る超重要人物なのに、
話の上でしか出てこない、すべてが謎の人物「先生」。



まず、初めてシンジ君の口から「先生」のことが出るのが
第壱話「使徒、襲来」
お父さんの仕事知ってる?とミサトさんに聞かれて

「人類を守る大事な仕事だと、先生からは聞いてます」

「先生」は、ゲンドウの仕事をある程度知っているんだろうかー。
知っててぼやかして教えてるのか、その程度しか知らないのか?
材料が足りなくて判断不能。


そして第拾伍話「嘘と沈黙」
ゲンドウとの墓参りで母親の写真が無いと聞かされ

「先生の言ってた通り、全部捨てちゃったんだね」

「先生」はユイを失ったあとのゲンドウの行動をある程度知っていて、
それをシンジ君に教えたらしい。割と近しい人物?親戚の可能性も?

同じく拾伍話。
墓参りから帰宅後、チェロをひくシンジ君に、そんなの持ってたんだ。と意外そうなラングレーに

「5歳のときから始めてこの程度だからね、才能なんて別にないよ。」
「先生に言われて始めたことだし、すぐやめても良かったんだ。」


「先生」は5歳の幼児にチェロなんていう、
普通はあんまり選ばなさそうな楽器を勧めるような人物ということが明らかになった。
なんとなくお金持ちっぽい?(弦楽器=金持ちみたいなイメージ)
習い事をさせてもらえるってことは結構恵まれた環境なのか?
それとも、「先生」本人がクラシック関係のお仕事を?

このチェロって、準備稿では確かユイさんの形見だったんじゃっけ。
「お母さんがやっていた楽器だよ。」的な勧め方だったのかなあ。

そしてシンジ君がチェロをやめなかった理由。

「誰もやめろって言わなかったから。」


第拾九話「男の戦い」
命令違反でゲンドウに呼び出されエヴァを降りることを宣言。

「はい、先生のところに戻ります。」

名前が出ただけなので「先生」についてはなんの妄想もわきません。
このシーンって、貞エヴァのシンジは怒りのあまりゲンドウに殴りかかるんですが、
アニメのシンジ君は怒りを押し殺した声で静かにゲンドウと決別するんですよな。
すごい対象的。もはや性格正反対だよ!(トウジの生死の違いもあると思いますが)

まあ、アニメ版のシンジ君も、出来る事ならゲンドウに殴りかかりたかったかもしれませんが、
ご丁寧に3重の手錠があの細っこい腕に掛けられているので無理なのでした。
ところで、いつも見るたび思うんですが、あの華奢な子にあんなごつい手錠はやりすぎだと思います。
規則かも知れませんが、やたらとエロスだと思います。
そういう考えに至る私は思考回路がショート寸前だと思います。


第弐拾四話「最後のシ者」
渚君の部屋へお泊まりで「僕に聞いて欲しいことがあるんだろ?」とうながされ。

「いろいろあったんだ、ここに来て。来る前は先生の所に居たんだ。
穏やかで何にもない日々だった、ただそこに居るだけの。
でも、それでも良かったんだ。僕には何にもすることがなかったから。」


「人間が嫌いなのかい?」

「別に、どうでも良かったんだと思う。ただ、父さんは嫌いだった。」
(どうしてカヲル君にこんなこと話すんだろ…)


「僕は君に逢うために生まれてきたのかもしれない。」

あ、気づいたら、いらんところまで引用を。
(文章だけで見ると、最後の渚君のセリフは唐突以外の何物でもないな)

そういうわけで、「先生」のところでは穏やかで何もない日々だったということが明らかになりました。
嫌だったというより、どうでもよかったみたいなので、貞シンジよりは恵まれた環境っぽい…のかなあ?
貞エヴァのシンジは涙が出るほど元のところには帰りたくないみたいなので。



傍証その1:劇場版

幼いシンジきゅんが幼稚園で誰にも迎えに来てもらえず、
一人砂山を造って崩すシーンが。
(余談ですが、「幼児が怒りを込めて砂山を思い切り足蹴にする時の声の演技」という
とても難しそうな事をこなしている緒方さんが本当にすごい。)

これは回想シーンなのかイメージシーンなのかはっきりしませんが、
碇シンジの過去の体験の記憶から再構成されたイメージってところでしょうか。
これが、ユイさんが消失した後、第三新東京市にくるまで、の彼をかいま見れる数少ない貴重なシーンです。
(あとは、第壱話等で数秒挿入される駅らしきところで置き去りにされて泣いている幼いシンジ君の絵のみ)

傍証その2:第弐話「知らない、天井」

一人で暮らすことになっていいのか?とミサトに聞かれ

「いいんです、一人の方が。どこでも同じですから。」

ミサトさんのマンションに始めてはいるときの

「た、ただいま。」

ほほ染めて上目遣いでちょうかわいいんですが、これは
言い慣れない言葉なのでとまどっているってことなのですよね。不憫。

いつも彼が帰る家は一人の家だったということか。

その夜、

「ここも、知らない天井…」

昔、なんかの模型誌でシンジ君のフィギュアを造った原型士の方(お名前失念)がこのセリフを聞いて、
彼はこのミサトマンションの部屋に来るまで10年、同じ天井を見続けていて、
どこにも行かない変化のない生活をしていたんだと思った、
的な事を考察されていて、なるほどなあーと思ったですよ。

「先生」は彼を粗略には扱わなかったが、構ってはくれなかった。
ずっと独りで、何をすることもなくいた、ということかなあ。
もしかしたら、ある程度の年齢から一人暮らしに近い状態だったのかもしれない。

貞シンジと同様、アニメシンジも、元いたところで愛されなかったっぽい。
そもそも、愛されて育ったという実感があればあんな性格に育つわけがないよね。

ユイさんが生きている時はニコニコとよく笑う屈託のない子だったみたいなので
(第弐拾話「心のかたち 人のかたち」ユイさんの実験を見に来たシンジ君、参照)
母親が消えて父親に捨てられたトラウマが彼に落とした影は計り知れないですね。

「あのとき、僕は逃げ出したんだ。父さんと母さんから!」

ってこれまた第弐拾話「心のかたち 人のかたち」で言ってますが、
四歳の子供が母親が文字通り消えるという恐ろしい現場を目撃して
逃げ出したからって何が悪いのか?と思いますよ。

でも、シンジ君は逃げ出したから捨てられた、
そんな自分には価値がないと思いこむわけで。

方やゲンドウの方は

「俺が側によると、シンジを傷つけるだけだ。
だから、なにもしない方がいい」

幼いシンジ君を先生の所に預けっぱなしで、
年に一度、ユイさんの命日のお墓参りだけ
息子と会うという事に…。

そのお墓参りでの貴重な親子対面の機会も、
シンジ君が11歳の時に「逃げ出して」からは
2015年まで絶えていたらしい…。



唐突に結論。
→ゲンドウさんのいくじなし!!

いつの間にか先生からゲンパパのヘタレ父ぶりに論旨がすり変わっていた模様。


 戻る