前管理人紹介


松下 勇二朗
昭和54年3月29日生まれ。O型。    
とりあえず生年月日を聞かれたら「ひつじ年生まれのおひつじ座」と
どうでもいい情報を必ず付け加える。言われた方は返答に困る。
エセ爽やかとよく言われる。「第一印象いい」ともよく言われる。
遠まわしに誉めてるんですね。(違う。前向きに受け取りすぎ)
とにかく細い。かつ、薄い。昔はコンプレックスだったが、今は
軽薄短小型の時代の波に乗ってると思っている。省エネ型。
「嫌よ嫌よも好きのうち」的性格。口と顔ではすんごく嫌そうにしてても
ほんとはうれしかったりする。迷惑きわまりない。
食べ物はたいがいのものは食べられるが、ゴマ豆腐だけはどうしても
食べられない。人生の課題である。(ハードル低すぎ)
ゆかが好き。鞍馬も好き。見ての通り吊輪は嫌い。吊輪は大学2回生の
時から構成変わっていない。恥。
「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」と信じてるふりをしてピュアなのを
アピールするが、常に失笑をかって終わる。なぜかしら。(くたばれ)
とにかく人よりもくじ運は絶対悪い。不良品などに当たる確立は確実に
人より多い。これは周りの友達も認めてる。(うれしくない)

以下、誰にも聞かれてないのに、生い立ちを記す。かなり長い駄文。

 

<幼少期>
大阪市東住吉区において、平凡な家庭の次男として生まれる。
物心つく前に、いきなり
僕、空飛べるねん
と言って縁側に向かって飛び出し、ブロックで額をパックリ割る。
それ以来母親は、「この子は色んな意味で危険や」と思ったらしい。
とりあえずよく泣いた。
泣けば済むと勘違いしてた節がある。めめしすぎる。
三点倒立からひねって頭だけで回転する、ブレイクダンスの技を誰に教え
られるわけでもなく、編み出した記憶がある。時代の先駆け?
この頃から鉄棒やマット運動などは好きだった。
血液型が両親と兄はA型なのに自分だけO型なのに気づき、加えて母親
が怒ったときに「あんたは橋の下でひろってきたんや」と嘘をついたこ
とを真に受けて、真剣に悩む。今でもちょっと疑ってる。うそ。

<小学校時代>
すぐ怒りすぐスネるプライドの塊のような小学生であったため、友達がほ
とんどいなかった。
小学2年生まで水泳教室に通っていたが、この頃から痩せてて細かったた
め、水温の冷たさに耐えられず、バタフライの途中で辞める。おかげで今
もバタフライだけはできない。やると必死に呼吸する溺れたカバみたいに
なる。野球、サッカー、殴り合いの喧嘩など、一般的な男子がすることは
一切せずに育つ。おかげで今もボールは女の子投げ。サッカーではボー
ルではなく相手のスネを蹴ってしまうため(わざとじゃなくて)、ある意味
みんなから恐れられた。これではいかんと思い5年生の時に放課後ソフト
ボール教室なるものに顔を出すが、あまりに下手すぎるので、打順は3周
に1回くらいしか回ってこず、守備位置もライトとセンターの中間くらいで
フライが来たら邪魔にならないように隠れるという位置を与えられる。
ごまめ以下の存在。このころ気配を消す術を覚える。
当時クラスで「わんぱく相撲大会」が流行っており、仕方なく出場するも
陰で「細身山(ほそみやま)」の異名を残すだけで瞬殺される。
体育の授業では球技などの時はおとなしかったが、唯一マット運動や鉄棒
の時間になると狂ったようにしゃしゃりでた。(そりゃむかつく)
4年生から通い始めた塾は、宿題を忘れたり5問テストで2問以上間違え
たら、布団たたきの持つ方(ぶっとい所ね)で手のひらを思いっきり叩か
れると言う、通称「ペッチン」と呼ばれる罰がある塾であった。
このペッチン、叩かれるとしばらく手が痛さで動かなくなるため、みんな
進んで利き腕と反対を差し出してた。字が書けるように。今思うとかなり
のスパルタ。今でも布団たたきを見るとちょっと痛い。
ペッチンは夢に見るほど怖かったが、ようやくこの塾で友達が出来始め、
楽しく通う。先生も普段はおもしろかった。
基本的に塾以外はあまり良い思い出はない。(暗い)

<中学時代>
地元の東住吉中学に入学。
中学校にクラブが卓球部、サッカー部、陸上部しかなかったため、とりあ
えず無難な卓球部に入る。入った初日に学校の外周を走らされ、走ってる
間にやっぱり卓球はかっこ悪い気がして(ごめんなさい)そのまま走って
家に帰る
。その後、仕方なく陸上部に入って人気のなかった800mをお
しつけられるままに専門にする。結果、大会などでトップの人がゴールし
た時にはまだトラック半周残ってるくらいのダメっぷりを発揮する。
相変わらずプライドが高いため塾以外ではあまり友達できずに過ごす。
体の成長が遅かったため、早く毛が生えますようにと毎日神様にお願い
する。おかげで現在スネ毛が思った以上に濃くなりすぎてもてあまし気味。
神様願いかなえすぎ。
音楽の歌のテストで先生に「徹底して音程が一定。」とやたら語呂が良い
(すべて「てい」で韻をふんでる)評価を得、ようやく自分が音痴である
ことに気づく(遅い)。その夜、枕を濡らす。
球技大会の日にみんな制服で来てるのに一人だけジャージのまま登校し、
終わりのHRで自分だけジャージ姿だったため、なにやらお漏らしして
制服着れなくなったやつ
みたいな目で見られる。(自意識過剰)
高校受験で合格発表の前日に精神的ストレスにやられて嘔吐を繰り返し、
メンタル面の弱さを露呈する。弱すぎ。

<高校時代>
なんとか府立天王寺高校に入学。
何のクラブに入ろうか考えた末、どうせなら人より出来るものをやったれ
と思い、幼稚園の時から得意だった体操部に入部する。
ここで自分を変える劇的な出会いを果たす。一つ上の先輩、現大教OBの
Fさんである。この人が僕をいじり倒し、ネタにしまくったために高か
ったプライドが徐々にけずられ、自分を落として笑いをとる喜びを知る
でもあの人むちゃくちゃやらせすぎ。おかげで友達も増える。
白畑さんのご指導の下、大阪府の2部校で団体優勝に貢献するなど体操
の喜びにはまっていくが、僕個人としては常に2部で個人総合5,6位と中途
半端な成績のみを残す。(進歩なし?)
このころからゆかと鞍馬は得意だったが、吊輪と跳馬は苦手でその2種目
は8点以上をとることなく引退する。未だにしょぼい。
この頃、なぜか朝起きるとすっぽんぽんであることが2、3度あったため、
朝で親には1番見られたくない状態になった姿を、起こしに来た母親に
あやうく見られそうになる。未だになぜ起きたら全裸だったのか謎。
裸族の血がそうさせたのか。(んなもん流れてない)
大学受験では何を血迷ったか、レベル違いの京大を受け不合格。
後期試験で阪大も落ちて浪人する。かなり大きい挫折感を味わう。

<浪人時代>
安さで有名な大阪予備校(難波にある)に通う。
体操は一切せず、暗黒の日々を送る。朝、行きの電車のなかで
このまま電車が追突して死んだらええのに…。
とかなりテロリストチックな思いにかられる。たぶん人から見ると危険。
そうとう1点見つめ入ってたと思われる。そんな中、難波の新歌舞伎座
の裏に友達と自習室を借りて勉強する日々を送る。この新歌舞伎座、
藤あや子、松平健、杉良太郎など中年に人気のタレントが裏口から
出てくるので、おばさん連中に混じっていわゆる出待ちをした。
(勉強しろ)
ただ単に芸能人がみたかっただけ。特にファンというわけではない。
一度、おばさんたちの真似して杉良太郎に「杉さま〜!」と声をかけると、
杉良太郎は一瞬
なんでお前が杉さまって言うねん!
みたいな顔してこっちを見たことがあった。それ以来、その時一緒にいた
友達に一目置かれることとなる。(理由が理由だけにありがたくない)
本当は自分の学力は阪大が上限だとうすうす気づいていたが、持ち前の
プライドと自意識過剰から、
「現役で京大受けたのに、浪人しといて今さら他を受けられっか!」
と、前期試験は京大を受け、当然玉砕する。(身の程を知れ)
私大も受けていなかったため、背水の陣で望んだ後期試験でなんとか
阪大に引っかかり、浪人生活を終える。発表見るのが怖くて人より遅くに
見に行ったため、予備校への連絡が遅れ
松下は落ちて姿をくらました」という噂が流れる。
2浪が決定した友達から
「落ちたってほんま?俺も落ちてん。一緒にがんばろな」という電話を
もらい、実は受かったということをなかなか言い出せず泣きそうになる。
でも言った。反対に相手が泣きそうになってた。残酷。

<大学時代>
大阪大学工学部環境工学科に入学。
体操部に入ろうと決めていたが、密かにテニスサークルなどの絵に
描いたようなキャンパスライフ
にあこがれ(安易すぎ)、4月中は体操部に
顔を出さないことを決める。そうこうしてるとある日突然、伝説の寿原氏
から家に電話がかかってき、
あ、あ、あの、お、大阪大学体操部の、す、す、寿原ですけども…
と未だかつてないほどドモった話し方で度肝を抜かれ、関西インカレに
誘われる。この人はどんな人なのかと、体操部に興味をそそられる。
会ってみるとやはりかなりカルチャーショックを受けた。(ごめんなさい)
それ以来、体操部に入り入部後ほどなくぎっくり腰になり、以後怪我
だらけの体操生活を送る。福田曰く
松下の使用期限は3ヶ月が限度。1年のうち半年も動ける時期はない」
とのこと。的を得てる。(納得するな)
2回生の時、阪大のすぐそばで一人暮らしを始める。そのため第2の部室
となり、独りの時間を奪われる。おかげで貴重な体験もする。(恥)
主将になり、問題発言を連発して様々な事件を起こす。(あかんがな)
4回生最後の西日本インカレでは、今までの体操人生の中で一番集中して
試合に臨み(前からやれ)、ようやく全日本インカレ通過の切符を得る。
しかし全日本番のゆかの3分アップの時に2回ひねりで失敗して歩けない
ほど強く足首をぐねる。でもちゃんと演技した。死ぬかと思った。
こうして最後まで怪我尽くしの現役生活を終える。

     (著:松下)


部員紹介

OUGCホーム