キタの大火


  大阪、北区の大火です。「天満焼け」とも呼ばれていますが、明治42年7月、まさしく未曾
有の大火が大阪北部を襲いました。被害状況は、焼失戸数11,365戸、罹災地面積1.2
平方キロという規模のもので、いわゆる「キタ」をほぼ壊滅状態にしてしまったのでした。

  後に大阪市消防規定を設置させる原因ともなったこの大火の様子を、絵葉書が今日に至
るまで伝えてくれています。

  ※文章の内容は、「大阪市史」を参考にさせていただきました。


「大阪東天満出火地附近一円災害之光景」
  そもそもの始まりは、明治42年7月31日午前4時20分、北区空心町2丁目のメリヤス製造業者宅からの出火でした。出火原因はランプの油壺に火が入って破裂したことからとされていますが、折からの東風に乗ってまたたくまに燃え広がっていったようです。
  この一枚は、出火地附近で消火に当たる火消人足の姿のようです。

  しかし火勢はさらに強くなっていくのでした。
「天満天神裏焼跡全景」
  天満宮北の様子であると思われます。現在の紅梅町附近でしょうか。
  鎮火後の風景でしょうが、一帯の被害の大きさが容易に見てとれます。しかし、土蔵というのは火に強いものです。
「大江橋荷物運搬」
  大江橋附近での、避難する人々の様子です。
  大江橋は堂島と中之島を結ぶ橋で、人々は中之島へと避難をしていったのでした。
「避難者難波橋を経て中之島公園に荷物運搬の光景」
  難波橋は大江橋より東にある橋で、やはり中之島へ避難するための重要な橋です。橋上を大勢の人が逃げてくる様子がよくわかります。
  鳥居が写っていますが、当時中之島にあった、豊国神社のものと思われます。
「火中の控訴院」
  中之島から見た控訴院(裁判所)です。大勢の人が川岸に集まっています。
「中之島公園より見たる控訴院、猛火ますます迫る」
  もう一枚、控訴院の様子です。場面はさらに緊迫しているようです。対岸の人たちの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。
「半焼失の大江橋より見たる控訴院、北署の惨状」
  大江橋はこの有様です。対岸にうっすらと燃えてしまった控訴院と北署があります。
「大江橋焼落」
大江橋の無残な姿をもう一枚です。
「大阪北浜銀行堂島支店火災後の惨状」
  橋の向こうにうっすらと建っているのが堂島支店です。手前の橋は渡辺橋と思われます。
「福島方面全焼の惨景」
  火勢は翌8月1日午前4時頃、ここ福島の第四防火線にてようやく鎮まりました。まる一昼夜燃え続けていたことになります。

  余談ですが、この焼け跡を整備してできた道が国道2号線だそうです。
「大阪北区大火災 焼失地域略図」
  焼失地域が黒く描かれています。焼けた場所が一目瞭然です。
  中央上やや左よりの駅は梅田(大阪)駅で、その左の駅が福島駅です。福島駅は駅前から軒並み焼失しています。
  堂島川の北、堂島も全滅ですね。あらためて大変な火事だったことがわかります。

  この一枚はネットオークションで購入したものですが、なんとタイミングよく出品されていました。
「猛火包囲中の控訴院」
  追加で入手しました。
  高いアングルからの控訴院周辺の様子です。
「大江橋工兵の架橋作業」
  焼け落ちた大江橋の修復風景です。軍の工兵が架橋作業を行う、というのは「時代」です。復興にはたのもしい存在だったことでしょう。
「火中の浪速小橋」
  浪速小橋は蜆川(しじみがわ)に架かっていた橋でした。この蜆川というのは堂島川の北側にあった川で、その名のとおり「蜆」が採れたということですが、このキタの大火により埋め立てられてしまいました。
  絵葉書は猛火に包まれる浪速小橋を映し出しているとのことですが、さて、蜆川というのはこんなに川幅があったのでしょうか?  ひょっとするとこれは大江橋の燃える様子ではないかと、根拠無く考えています。

  しかし、集めだすと結構あるものですな。「キタの大火」シリーズは。
「蜆川の下流に於ける消失前の避難船」
  この絵葉書がどの場所から撮影したものかはわかりませんが、蜆川はこの程度の川幅であったようです。
  蜆川周辺には、数多くのお茶屋さんが立ち並び、たくさんの芸妓さんたちがおられたようですが、この蜆川を写真のような船に乗って、西へ西へと避難したことでしょう。

  キタの大火から3年後の明治45年。大火による瓦礫により東半分が埋め立てられたのでした。

  なお、蜆川は、正式には曽根崎川と呼ばれていたようです。
「火元空心町玉田メリヤス工場」
  もちろん鎮火後でしょうが、すべてはここから始まったのでした。当事者にとっては災難ですが、う〜ん、笑って記念撮影ですか…  元気ですねえ。


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