|
|
『赤い十字の玉だすき/固くこころに引き締めて/わが家の誉 身のほまれ/あくまで守るわたしたち/みんな覚悟は出来てます/長期戦でも大丈夫』
「愛国婦人会」は、明治34年(1901)、傷痍軍人の慰問・救護を目的として設立されました。しかし満州事変(昭06)以降、その姿を変えていくことを余儀なくされ、太平洋戦争開始(昭16)の翌年、他の婦人団体と統合され「大日本婦人会」として「大政翼賛会」の一翼を担っていったのでした。
絵葉書の裏面(通信面)には、この絵柄の説明として次のように印刷されています。
『村の愛国婦人会では、会員が集まって共同作業をし、その収穫で出征中の皆様に慰問袋でも送ってあげたいと、毎日一生懸命働いております。』 |
|
|
|
|
|
上の絵葉書は使用済みです。「満州国牡丹江省」という場所にある部隊から、送られてきました。
『過日大阪出発の折は御迷惑掛けて相済まなかった。無事入隊、軍人さん第一歩を始めた。君も遅かれ早かれ来るかもしれないだろう…」
当時の若者達の感覚ではあたりまえだろうこの文面に、複雑な思いを感じてしまいます。
愛国婦人会のスローガンでしょうか、次のような言葉が印刷されていました。
『兵隊さんは命がけ/私たちは襷(たすき)がけ』 |
|
|
|
|
|
ネットオークションで入手しました。愛国婦人会愛知県支部のものです。
通信面にある解説には、「写真は副業に兎を飼って軍事援護事業の資金を作る会員」とありました。
日中戦争が始まると、軍用兎毛皮の需要が急増したそうです。日本各地で兎が飼育されていたと資料にはありました。公営の養兎場があったのだそうです。ですから、個人でも積極的に兎を飼育することが奨励されたのでしょう。 |
|
|
|
|
|
裏面の説明文には、「愛国婦人会経営の授産所と託児所で護られている留守宅の母と子」とあります。ところであるサイトに、愛国婦人会は「身分秩序を尊重する会の性格上、大衆的婦人組織にはならず、1942年(昭和17)に大日本婦人会に発展的解消するまでの約40年間を通して、一般大衆女性の入会は一切無かった。」と記述されておりました(http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/index.htm)。であれば、絵葉書にあるような光景は、それほど(愛国婦人会としては)一般的なものではなかったのかもしれません。わたしたちが良くドラマなどで見る婦人会の活動は、別の団体(当時は愛国婦人会の他に、「国防婦人会」、「連合婦人会」などがあったそうです)の主催するものなのかもしれません。そのあたり詳しい方がいらっしゃれば是非教えていただきたいと思います。(2016.8追記 誤りです。1905年から一般会員も加入しています)
|
|
|
|
|
|
裏面の説明文は「写真は出征勇士留守宅の稲刈にいそしむ会員」とあります。 |
|
|
|
|
|
画像では読みにくいですが、書かれている文章は
「強いあなたの血を継いだ いとしいわが児の笑顔(わらいがお) 日毎(ひごと)見るたび思うたび 銃後を護るひとすじの 熱い血潮がたぎります 留守のわが家は大丈夫」
となっており、裏面の説明は、「出征されたそのあとは、慈しい子供を力に働いております。どうぞ、あなたもしっかり戦ってください」と書かれています。
そういう時代だったわけです。 |
|
|
|
|
|
同一図案で複数のパターンが作成されていたようです。
左のものは「愛国婦人会京都府支部」のもので、右は「東京九段」とありましたから本部のものでしょうか。
右の絵葉書の文言は
後を頼むと ますらをが
召されて征った あの日から
あなたの役はこのわたし
妻の務に今朝もまた
強い力が溢れます。
国の銃後は大丈夫
となっています。 |
|
|