どうもえんどうの、一人旅行史(一人で旅行するということについて)
最初の一人旅行 自分で失笑
初めての一人旅行は二十歳くらいの夏。見事につまらない旅だった。学生のとき暮らしていた京都から、当時普通列車として唯一、『山陰』という愛称と、寝台車の連結のある夜行列車に乗った。「何も持たずに、行くあてもなくぶらりと旅に」と、どこかで聞いたセリフのとおりにやってみようと。で、とにかく、夜も明け、列車から広い砂浜が見えたので、島根県の江津駅で下車。駅から歩いてその浜まで行ってみた。夏休みなのにだあれもいない、なんにもない浜だった。とりあえず一人で泳いでみた。どこにも行くあてもなかったので、とりあえずそこで途方に暮れた。一泊を超えて、どこかの旅館に泊まったり、食事するほどの旅費を持っていなかった。駅にもどっても、そこにはただ駅舎があるだけ。結局、また同じ列車に乗って帰った。そして結論。「一人旅ってつまらん」
二度目の一人旅行 すきだらけのおもしろさ
三〇歳過ぎの三月、単独でディンギー(手こぎボートに帆を張った程度のサイズのヨット)が操作できるようになった。いつも明石で練習していたが、たまには違う海で乗りたいと、沖縄へ。その沖縄の帰りの、リゾートホテル巡回バスの乗客は自分一人だった。四〇歳代前半とおぼしき運転手さんが、「こっちにおいで」と呼ぶので、運転手の隣に座って那覇空港まで。
「最近二〇歳も年下の奥さんもらってねー。もー、ほんとに夜がつらくってえ。若い奥さんもらうと大変だよー」
と、聞きもしないのに年の離れた夫婦の夜のお話を聞かされた。なあなあ、おっちゃん、だあれもそんな話、してくれいうてへんでー。なんかえらい話聞くことになったなー、と、適当に相づちを打つ。だいたい観光バスの運転手としゃべること自体が奇妙で、おかしかった。タクシーじゃあるまいし。これがきっと、二人だったりグループの旅行だったらこんな展開にはならんだろうなあ。一人で旅行してると、なんだかほかの人が話しかけるすき間がいっぱいあるんだろうなあ。きっとすき間だらけなんだろうな、と。こんなすき間を楽しむんだったら、一人の旅行もおもしろいかもしれんな、と思った。
とくに出会いがあるほどでもないけれど 声をかけられるのが楽しい
とにかく、一人、観光地で、いかにもヨソ者でござーい、という目つきでキョロキョロ歩いていると、よく声をかけられる。一番多いのは物売りや客引き。ところによってポン引き。男一人のヨソ者には必ずちょっと秘密めかして声をかけてくる。でも、商売か何かの用事を外れて、不意に話しかけられることがある。なんだかそんなふわふわした自分と、それにつられてふわふわ声をかけてしまった人のやりとりが、ぽかっとシャボン玉じみてふくれて飛ぶ、そんなお気楽さが、うれしい。ただし、インドは別格。むむむ。
カメラ 自分の写真も嫌いです
旅行にカメラは持って行かない。理由はいっぱいある。「日本人旅行客といえばメガネとカメラ」と思われるのが嫌。撮るのも持って歩くのもめんどくさい。写真が下手くそ。自分の姿が写ってる写真なんて、見たいとも思わない。今、自分が送っている人生の時間が、写真に残しておきたいほどのものと思えない。一人で写真撮ってもなんだかつまらない。きれいな風景の写真が欲しいなら、プロの撮った写真集や絵はがきを買った方がええんとちゃう? 家に帰ってあれこれと写真見ながら旅の思い出を語るのがめんどう。
ほんとは自分の行ったところをきれいに写真に撮っておきたいと思うけれど、ハッと思ったときに、自分の目がサイボーグになって、自分の見たままを写真に撮れるのでなければ、やっぱめんどくさい。
意味なく高価なパック旅行を抜け出して せっかくよその世界に行くのだから
就職してから初めて一人で旅行らしい旅行をしたとき、大手旅行社のツアーを利用した。旅行のしかたを全然知らなかった。今考えれば無駄に高い。使う機体は同じ、シートも機内食も同じなのに、値段だけが高い航空券しか手に入らない。それよりなにより、大手旅行社が設定するホテルは、パンフレット記載中最低のランクでも、現地では一流ホテル。厳重に警備員が配置されていて、敷地が広く、ゲートからロビーまでかなりの距離がある。地元の雰囲気とは明確に隔絶された「快適」な空間がそこにはあるんだけど、それが実につまらない。食事もいくらか地域色は出るものの、万国共通のメニュー。なんだか自分んちの近所のホテルに一人寝てるのとたいして変わらない気分。しかも一人で一部屋使うからと、一泊ごとに一万円前後の追加料金が発生する。高いしつまらないし、で、絶対に大手旅行社のツアーは使わない。自分で航空券を手配したり宿を探したりすれば、費用は比べものにならない。ゲストハウスなら、ほかの旅行客の動きもよく見え、なにかと情報が得られるし、家の外の、普通のその町の姿が部屋の中まで伝わってくる。
食事は二〇倍、宿泊は五〇倍 いくらなんでもここまで違うと、ねえ
日本で外食すれば、すぐ一〇〇〇円くらいはかかってしまう。物価の安い国なら、一食五〇円くらいでも十分おいしくお腹もふくれる程度の食事ができる。でも、日本との格差がもっと大きいと感じるのは宿泊料金。日本でホテルに泊まるなら、一泊一万円くらいを考えないといけないことが多い。でも、設備やサービスはあまりにも違うけれど、ゲストハウスなら、一泊二〇〇円くらいからある。その値段でもちゃんと探せば、それなりに清潔なベッドとシャワーもある。一万円あれば五〇泊もできてしまう計算だ。ついつい、国内より海外に旅行したくなってしまう。
日常を引きちぎって 完全なる逃亡(ただし一〇日間限り)
ふだん、いつも家に帰らないといけない「当たり前」の生活を繰り返していることが、仕事でひどく嫌な思いをしたことが、澱のように堆積してくる。すると、日常生活をおくる気力を奮い立たせるのにしんどくなってくる。飛行機が滑走路を離陸するときの加速Gが、そんなどんよりした澱、堆積物から、僕を引きちぎってくれる。ここで一気に肩の力が抜ける。まずこの爽快感から旅行が始まる。
居住地である関西から九州に行ったときや、東京、長野に行ったときには、意外と知り合いにばったり出会ったりした。でも、海外に行くとそんな心配がない。よほど日本人が集中する観光地は別だろうが。自分を知っている人間の、誰に会うこともない。さらに、旅先で最低限必要な情報交換以上のことを、英語では話せない。もうこれで、完全になにもかも忘れて旅行ができる。英語がろくに話せないのは、もちろんかなり困ったものだが、むしろ快感ですらある。
英語なんてしゃべれない方が楽しい 負け惜しみです、はい
まだ、言葉の通じないところに旅行したことはない。アジア圏の英語は訛りが強いけれど、観光客の行くようなところではだいたい通じる。台湾では英語が全然使えなかったが、筆談が効果的だったし、漢字の看板は、その意味がよく分かった。店で言葉に困っていると、店員はすぐ奥からおじいさんやおばあさんを呼び出してきた。年配の人はみんな日本語が達者だった。
英語は、ちょうど低学年の小学生がお使いに行くレベル。とりあえずどんなとこでもお使いに行ってしまう。でも残念ながら、ちょっと込み入った注文となると、お店の人は困り顔。
いつも旅行に行く半月ほど前から、英会話のCDを買ってみたり、ハリウッド映画を副音声で聞いてみたり、ちょっと英語の勉強をしてみるけれど、はかばかしい効果がない。
英語ぐらい上手にこなしたいけど、できなかったらできなかったであきらめもつく。少しの英会話はできるけど、英語のおしゃべりはできない。どうせしゃべれないんだから、しゃべらなくていい。誰もいっしょにおしゃべりしようと期待もしない。旅行中、こっちに頑張る気がなければ、なにもしゃべらなくていい。自分の内面を語るほどの英語力がないのは、むしろ特別にお気楽でいい。