第七章 帰路、学生とのおしゃべりから
今回の旅行の起点となったアジャイゲストハウスから、再びデリー空港へ。来るときと同じシゲタトラベルの送迎車を利用する。たまたま時間の近い航空便で帰る客がいたので、「違う客同士、トラブルがあると困るでしょ。一台に同乗しないことにしてもらってます」と言うロニさんを二人でなだめ、もったいないからと同乗する。柔らかい髪のかわいい女子学生。初めてのインドで一週間と言うので、ふーん、なんだかインドを旅行するにはちょっと頼りない感じだなー、と思って話してると、どうしてどうして、アジアの旅の達人。ちかごろの学生ってえらいなー、と尊敬! デリーからの車の中と、空港でのチェックインまでの、合わせて三時間くらい、ほとんどぶっ通しでインド旅行の反省会をした。章の前半はその会話をそのままで、後半はその学生の口にした、僕がふだんなんとなく感じていることをすっきり整理させてくれた言葉を起点に、書いてみる。
〈期待が大きかっただけに〉
どうも タージマハル、どうやった?
学生 あー、まあこんなものかな、と。確かにすごいきれいでしたけど。
どうも そうやんなあ。高校生のときに教科書の写真見たときから、いつかは来たいと思うとったけど、写真がきれいすぎて、現物は写真に写ってない汚れとかよけいなものが見えたりしてなあ。確かによかったんやけどなあ。
〈桃源郷〉
学生 アンコールワットはすごくきれいでした。そのときは、トンレサップ湖の近くにある村に、大学の調査で三〇日ほどそこに住み込んでました。乾期には農業もするけど、主に漁業の村。雨期には家の下まで水が来て、水の中の家になるんですよ。
どうも いったい今までにどこどこに旅行に行ったん?
学生 だいたい東南アジアはひと通り。夏休みは短いですけど、春休みは二、三月とまるまる二カ月あるので。いつもデジカメで写真撮って、レポート書いてそれをメールで先生に送ったり、宿題をしながらですけど。
どうも えー、すごいなあ。自分の研究と旅行がそのまんまいっしょなんや。
学生 高校が国際科だったこともあって、高校生の時から海外に旅行してました。最初は親の許可もとりやすいタイから始まって。
どうも へえー、すごいなあ。
学生 その村は豊かな村だったんですよ。外の世界とは離れていて、ほとんどのものは自給自足でお金の心配をすることはないし、貧しい人はいないし、食べ物はちゃんとあるし、泥棒なんかいないし、すごく安全。なんだかまるで桃源郷みたいな。
どうも あー、僕も今、話を聞きながら桃源郷のことを思い出しとったんや。ほんまに桃源郷みたいやなあ。年寄りも子どももみんな元気で楽しそうにして、ってことやな。
〈トイレ〉
学生 そこで生活してて困ったのはトイレくらいで。トイレがないので、その辺で、ということに。
どうも あー、それやったらでも、その村が広いとこやとしたら、その辺で済ます、ということは、汚いこともなにもないやんなあ。
学生 そうなんです。初めはけっこう、どうしようって感じだったんですけど、慣れるともう大丈夫でした。
〈ポル・ポト〉
どうも そのトンレサップの村は人口どのくらいなん?
学生 二〇〇〇人四〇〇戸くらいです。二〇〇〇人といっても、一つの家に一〇人も二〇人もいたりするんで。
どうも そんなに大きな村やったら、お金持ちの人もいるし貧しい人もいる、ということなんとちがうんかなあ。
学生 いえ、その村は、ポル・ポトの時代にいったんバラバラになった人たちが、新しくまたつくり直した村だというのもあって、貧富の差はあまりないんです。
どうも ああ、なるほど。
学生 ポル・ポトって、なんかすごいと思うんですよ。田舎を知らない人は、ちゃんと田舎の生活を学ぶべきだ、とか言って。なんか自分の理想がすごくあって。
どうも あー。それで、田舎へどんな人をとばすかっていうと、けっこう自分の都合で勝手に決めつけてしまって、強制的に移住させたり、っていうやつやな。
学生 でも、村の人たちは、それが普通だと思ってたらしいです。よその情報が全然入って来ないので、ほんとにそれが、どこにでもある普通のことなんだ、って。今の北朝鮮なんか、きっとそんな状態なんだろうなー、と。誰もが、これが普通なんだ、と思いこんでしまってて。よそがどうなっているのか、全然分からない状態で。
どうも あーそうそう。それはまちがいなくそうやわー。ちゃんとほかがどうなってるか知ってる人もいるけど、ほとんど何も知らないでいる人がいっぱいいる。でも、そんな込み入った話、よく聞けたなあ。よっぽどしっかりした通訳やないと。
学生 あ、だから、そういう話をするときには特別の通訳を雇うんです。一日に二、三万円するんで、普段はまあまあ、なんとか話ができればいいくらいな人で。
〈豊かな村〉
どうも それでー、そんだけ大きい村なら、障害を持った人とかも当然いるやんなあ。
学生 いますいます。骨折った人とかもいて。それで、それを治すおばさんがいて、治してしまうんです。
どうも 骨折ったら、どっかのおばちゃんが出てきて、えいっ、と、骨を治してしまう、と。すっげー。それって、ポル・ポトの時代もくぐり抜けて、昔からの技能の継承がちゃんとできてる、つながってる、ってことやんなあ。いったん村はつぶれたけど。日本でも、柔道の先生なんか、脱臼したらエイッとかいって元にもどしてしまうみたいやで。締め技で気を失ったときにもエイヤッとやってしまったりとか。ちょっと筋が違ってたりしたらまずいんで、最近は下手にさわれないみたいやけど。
学生 えー、そうなんですかー。
どうも でも、骨折とかでなくて、なんらかの障害を持ってる人ってけっこういるはずやけどなあ、それだけの人口やったら。
学生 それはまわりの人がちゃんと面倒を見ていて、例えば、目の見えない人は漁具を扱ったり修理したり、自分のできることをしているみたいです。
〈コオロギ〉
どうも その村、食べ物はどうやった?
学生 おいしかったですー。コオロギとかも食べました。パリパリにして山盛りに盛って置いてあって。
どうも げーっ。それはあかんやろ。あんなもん、パリパリの茶色になっとったら、ゴキブリの唐揚げといっしょやん。
学生 それがけっこうおいしいんです。みんなでお酒飲みながらつまんでると、けっこうたくさんいけます。
どうも えー。イモムシやったら食ったことあるけどなあ。日本で。前の職場の釣り好きの上司が「どうも君、これ食べてみ」とか言ってポンと、手のひらに載せてくれるんよ。釣りのエサにしたりするらしい。ビビるのもしゃくやからパクッと食べたらけっこうおいしかったんやこれが。プチッと中からけっこう甘いのが出てきてなー。
学生 えー……。イモムシですかあ。それは気持ち悪い。
どうも でも、コオロギもたいがいやでー。
〈男性社会〉
学生 インドの旅行中、全然女の人が出てきませんでしたねー。どこでも、働いてるのは男の人。さっきの話の村なんかじゃ、乾期には男はなにもしないで、一日中ぐーたら何もしないでボケッとしてる。雨期に男が漁に出ると、女の人は「あー、やっと出てってくれて、すっきりしたわ」みたいなかんじで、女の人がすごい存在感あるんですよー。
どうも ほんまほんま、全然見んかった。表に出て仕事してるのはみんな男やった。それはもう見事に。
〈ハッパ〉
どうも バナラシの小路でうろうろしてると、あおあおとした葉っぱに白いようなオレンジっぽいようなクリーム状のを載せて売っとるのをよく見たなあ。麻薬は非合法になってるはずやのに、昼間に堂々と売ってたわ。
学生 デリーでもいっぱい売ってましたよ。インドでは伝統的に、お祭りのときに盛り上げるのに使ってたのもあるみたいで。ツアーバスの帰りが一一時の予定だったので、バザールの閉店時間くらいだからいいかなと思って行ったんですけど、二時になってしまってゲストハウスに帰る途中、目の焦点が合ってなくて、これは完全に「ハッパ」だなと思う人が近寄ってきて恐かったです。
どうも あ、それは恐いなあ。
学生 インドで、日本人がそれを目的に来て、たくさん死んでるといううわさを聞くのが悲しいです。インド人の中で、「日本人が、麻薬に酔って、裸で道に飛び出して車にひかれて死んだ」って、笑い話になってるんですよ。くやしいです。
どうも えー。フレンズゲストハウスの主人は、「欧米人は汚いし、麻薬をするから、うちは日本人しか泊めない」って言ってたけどなあ。
学生 そうなんですか。でも、いっぱい日本人がクスリで死んでるんですよ。そんなことするのはやめてほしいです。
どうも そっかあ。
〈流行〉
学生 あのう、インドの観光地を歩いてると、女の子が、こう、後ろに束ねてる髪を引っ張って来るんですよ。なんか、どうもそれが女の子の間の遊びになって流行ってるみたいで。最初、何かなあと思っていたんですけど、あちこちで、後ろから引っ張られて、それで、その女の子たちは、楽しそうに笑いながら逃げてくんですよー。
どうも あははー。それは楽しいなあ。あのー、バナラシでな、やたら日本語が上手で、その子に声かけられてちょっとガイドしてもらったんよ。話はすごく上手やし、ガイドも上手やし、すごい賢い子やった。結局、おじさんの店やとかいってかなり紅茶でボラれたんよ。バナラシを一人で歩くの難しかったし、どうせガイドほしいと思ってたからええんやけど、その子、長渕剛に日本名つけてもらったとかで「アキラ」と名乗っとったんよ。ところが、同じゲストハウスの日本人の子らが「アキラがガイド料くれ言うから、おまえフレンド、フレンドや言うとってくせに、そらおかしいやろ、フレンドゆうのはそんなもんちゃうやろーゆうて説教したった」とか話してる。次の日に街歩きしてると、また別の子が僕の方を向いて「ボク、アキラ、トモダチ!」とか言って呼びかけてくるんやー。いったい何人「アキラ」がおるねんやー。
学生 バナラシじゃあ「アキラ」が流行ってるんですねー。
どうも そうそう。
マレーシア方式とインド方式
インド式のトイレっては、要するに非自動、非電動のウォシュレット。今まで、タイやマレーシアでも試してきたし、意外と快適やなあ、と話してると、その学生が「えーっ、私はちゃんと紙もってますよ。確かにマレーシアのは快適ですけど……。マレーシアのトイレにはホースが付いてませんでしたか?」と。
要するに、便器の横にある水道の蛇口から伸びているホースが、ウォシュレットになってくれるらしい。そうか、全然知らんかった。あのホースは、単にプラスチック手桶に水を満たすためだけのものと思っていた。手桶の方は、補助的に使った手を流したり、便器に残ったのを流したりするのに使うとか。
つまり、あのホースは、長すぎて不潔感をかもしたりもせず、短すぎてちょうどいい角度に噴水できないなんてこともない、絶妙な長さで設置してあった、ということやね。いやまさか、そんな絶妙な長さの意味を読み取ることなんてできなかった。
「でも、トイレの使い方って、見せてください、って言うわけにもいかないし、なかなか分かりませんよねえ。私だってインドのトイレをどっち向いて使うか分からないですー」という絶妙なフォローがなかなか楽しい。いやいや、ほんまにそうやそうや。
ロールペーパーの方がずっと難しいはず
僕の亡き祖父はかつて、家長としての威厳をもって、大きな日めくりのカレンダーを毎朝忘れることなく一枚ずつ破り取り、それを持っておもむろに便所に行っていた。今考えればなんと合理的なことだろう! 紙を無駄にしないし、毎朝真新しい日付表示と規則正しい排便とが同時に実施されてしまう。家長以下の僕たちは、うんが良ければちり紙で、でもたいがいは新聞紙か折り込み広告だった。そんな便所の、いつもは新聞紙やちり紙が積み重ねてあるカゴの中に、ある日突然、トイレットペーパーがぽん、と置いてあった。どうやって使うのか、小学校の高学年になっていた僕はかなり考えてしまった。ちっちゃな子どもじゃあるまいし、ロールペーパーの使い方を親にたずねる感覚はもうなくなっていた。
もし、トイレで紙を使ったことのないインド人がロールペーパーを見ると、かなり悩むはずだ。まずそんなものでおしりをふいていいものかどうか悩む。その次にきちんと折りたたんで使うのか切りそろえて使うのかクシャクシャにして使うのかに悩む。次に、紙を前の方からもっていったらいいのか後の方からあてがったらいいのか悩む。そして、一度ふいたら捨てるのかもう一回折りたたんで使うのか悩む。最後に、その紙を便器の中に捨てていいのかどうか悩む。インド人向けの、日本旅行のためのガイドブックに、そんなことを解説しているページなんて、あったらおもしろすぎる。
日本人海外旅行客の定番ガイドブック『地球の歩き方』にだって、さすがにマレーシアとインドのトイレの使い方の違いなんて書いてない。でも、ロールペーパーに比べたら、インドのトイレなんて簡単。とにかく水で洗えばいい。僕は普通の観光ルートしか行ってないので、たいがいのトイレはそれなりに清潔に掃除されていた。どこのトイレも見事にたっぷりの水洗式(あたりまえ!)なので、臭気もきつくない。立派な構えのトイレの中には、一日中そこに居座っている男がいて、頼みもしないのにさっと立って、案内してくれたり水を出してくれたりしてニコニコ近寄ってくる。そんな男には、ちょっとチップを渡してやればいい。彼らのいるトイレはよく掃除されていた。デリー│ベナレス間に乗った急行列車のトイレは、大きなシンクに入り込んだようだった。浅めのステンレスシンクの中ほどに二カ所、足置きがせり上がっていて、そこに足を置く。シンクの排水口のある位置を見て自分の向く方向を決めた。
洋式便器のくせに、便器の両へりに足を置くしかないような状態だったりしても、平気。だいたいきっとそんな便器ならインド人でも、どうしていいか分からないままに使っているはず。誰もトイレの使い方を見せてくれたりしない代わりに、誰もこっちの使い方をチェックしたりもしない。マレーシアのトイレのホースの意味が分からなかったとしても、まあええやないの。
とまあ、ここまでだらだら書いていてふと思う。マナー教室の講師ってときどき、トイレの個室の中でそれぞれが勝手に考えてやっているレベルのことを、まるで他人のロールペーパーの使い方をのぞき見してきたようにして、得々と解説したりしていないか?
人口
それにしてもインドは、あまりに人が多すぎる。いくらなんでもこれではまずいやろ。と言うと、「北の方の国はどうしても人口は一定以上には増えないけど、南の国ではいくらでも増える、ということですね」と、その学生は言った。たぶんこの学生にとっては常識なんだろうけど、それまでなんとなく自分で感じていたことが、きちんと言語化されて、うれしかった。
行ったところがデリー、ジャイプール、アグラ、バラナシと、都市部ばかりだったというのもあるだろうが、インドではもう、あちこちの都市で人があふれてしまってどうしようもなくなってるように感じた。
日本の冬は、路上生活者にとってかなり厳しい。ウランバートルではマンホールチルドレンという、南の国では考えにくい路上生活スタイルが存在する。それに比べれば、デリーではさすがに冬には凍死者も出るらしいが、駅舎あたりや民家の軒下で寝ている人をごく当たり前に見る。スコールが来て、自分の寝ているあたりにかなりの水しぶきがかかっていても、そんなに気にしていない様子だった。食べる物さえ確保できれば、とりあえずは生きていける。大量の路上生活者が存在可能だ。なるほど確かに、南の国ならではだ。
重いリクシャーのペダルを、渋滞の中や坂を汗だくで踏む男たち。彼らはリクシャーの営業権を有するカーストなんだろうけれど、事故でケガでもすればたちまち生活に困るだろう。もしあの洪水のような道路状況が改善される日が来れば、彼らは車道から閉め出されることになる。一日中トイレにいて、人が用足しに来れば水道の蛇口をひねるのを仕事にしている男たち。牛糞や店舗から掃き出されたゴミを集めて掃除をしていた老婆。吹けば飛んでしまうようなカーストの特権にしがみついて生きている人々の数の多さを感じた。
そんな仕事の配分にさえありつけない人々。コンノート・プレイスで、足にとびひのような化膿が広がり、そこにハエがたかっている子どもがペッタリ路上に寝ていて、その横でハエを追い払っている母親が手を出してくるのを見て、思わず一〇ルピー渡した。たかだかとびひくらいで、下手したら死んでしまうな、と思った。交差点でバク転を繰り返す少年。駅舎内やビルの軒下で寝ている路上生活者たち。昔から物乞いを生業としてきたカーストとは別に、農村からこぼれ出て、都市に流れて来た者もたくさんいるのだろう。彼らは、弱い者からどんどんとこの世を去り、それと同じかそれ以上の人数がどこからか補給されてきているようだ。
インドは、IT関連産業を中心に経済発展が著しいという。しかし、発展による富が、将来的にも彼らの方にまで行き渡るようになるとは思えなかった。インドという国の持っている富に対して、貧困層があまりに多すぎる。そして彼ら、彼らの子どもたちは、IT関連といわないまでも、いくらかましな富を産み出す産業に従事するための知恵や教育を、国や親の世代から与えられていると思えなかった。彼ら貧困層の多くは、インド社会の労働力のプールとして期待されることさえなく、ただ社会のよどみとして、乾いた地面にいくらかのシミを残すようにして消えていくだけの運命にあるように感じられた。そして消えていく一方で、彼らのような貧困層が、どこからか湧いてくるように再生産され続けていて、何の対策もとられていないように思えた。人が多いゆえの活力ではなく、多すぎるゆえの残酷さを感じた。
ホンモノはラッキョウ
パック旅行でなく、観光コースでなく、その国、その地域の本当の姿を見てやりたい。短期間ながら、そう思って旅行に行く。そういう意味で、この学生のような旅行、というのか、もうそれは旅行というより研究調査なんだろうけど、それがうらやましかった。
日本にやって来る外国人は、決まって金閣寺や清水寺へ観光に行くようだ。たしかに金閣の、なんともいえず中途半端なサイズのキュービックな建築が全面金箔で包まれている、あのあまりにシンプルで奇抜なデザインは、世界でも絶無だろう。清水寺の、舞台の方に屋根がなくて、観客のいる側に屋根がある。その背景は空ないし眼下に広がる古都のパノラマ。飛び降りたらどうなるかとつい想像したくなる高さがある。あれも壮絶なデザインだ。でも、これを観て「オー、ニッポン、スゲー!」とびっくりしてくれても、ついむしろ困った顔をしたくなってしまうのが私の癖だ。おれらはふだん、金閣寺や清水寺とほぼ無関係に暮らしてるでー。おれは毎朝出勤前にヨーグルトと食パンとバナナを食ってるでー。まさか毎日精進料理食ってるなんて思ってないやろなー、と。
観光スポットをめぐっただけでは、その国を見たことにならない、という理屈は、一人で旅行してると、つい簡単に納得したくなる。すばらしいもの、風景を見たとして、「おー、すごーい」と言ってみようにも、言う相手が自分のそばにいないので、すごかったりきれいだったりするだけでは、意外と盛り上がらないのだ。かといって、観光客が一人もいないような村に不意に入り込んだとして、そこでなにができるというのだろう。たとえそこに、本当のその国の生活があるにしても。しかも、限られた日程の中で。
一方、こんなことも思う。あまり本当の姿、本物というのにこだわると、ラッキョウの皮むきになってしまうだろう、と。その国の生の生活をジロジロ見ていくと、結局最後に見えてくるのは、毎日を生きていく苦悩と退屈、日常の喜びと悲しみだったりするのではないだろうか。自分がそこから逃れるためにやってきたはずの旅行の先で、ひきちぎってきたはずの日常と対面してしまう。そんなものを見るために、旅行に来ているわけではない。
フラダンスは「フラ」というポリネシア原住民の神事をショー化したものだし、バリ島のケチャも、伝統的な宗教舞踏をドイツ人がショー化したもの。ダシャーシュワメード・ガートで毎日行われているプージャ(礼拝)は、見ていてまだまだ素朴なものにすぎなかったが、年々派手にショーアップされつつあるらしく、観光客にはちょっとした時間つぶしになる。これを「ただの観光客向けのショーじゃねーか」と切り捨ててしまうと、観光地というものはすべてニセモノになってしまうに違いない。こうなりゃ、ラッキョウ、タマネギ、ニンニク、皮そのものをおいしくいただくほかないか。
数年前、タイのメーホンソン県へ、首長族(カレン族の一種族)の村長の家で夕食を共にするツアーに行った。ところが、そこはもともとミャンマーにいた、軍事政権から逃れた難民の村。観光客からの収入だけで暮らしていた。村長の家の小さな娘は、すっかり観光客ずれして日本の演歌を歌っている。共にした夕食は、「その村の食べ物は味がなくてとても食べられない」と言い張るばかりの、ツアーガイドが作ったカレーだった。これだけのことを考えるなら、このツアー、すべてがニセモノだった。
でも、村長の娘は同じツアーの若い女性客にぺったり甘えかかって離れなかった。息子の方は、客が来たときにだけありつける、ココナッツミルクたっぷりのカレーにがっついていた。まるで遠くの親戚が何年ぶりかで遊びにやって来たようなはしゃぎぶりだった。彼らは、難民としての将来を心配できる年齢ではまだなかった。日が暮れると、隣のタイ人の村には電気が来ているのに、その小さな川沿いの集落だけが早々に真っ暗な、ひっそりとした夜を迎えていた。すべては、伝統を守る一族の、現代の生の姿だった。
そもそも、日本でも、旅先でも、いつでも、「本当」とか「本物」という言葉は、怪しげで、ついつい疑いたくなるウサンクサイ言葉なので、できるだけ自分では使わないように心がけているのだが、ついつい、「ホンモノ」を追求したくなっている自分がいるのは困ったことだ。
ホンモノの火葬を見に
バラナシの火葬を見るためにインドに行った。むき出しの火葬を誰もが見物できる世界随一のスポット。火葬が、ボートで押し寄せる外国人観光客の見せ物になっている所。そこに物乞い、押しかけガイド、火葬の薪代をせびる男、供花売りその他もろもろが群がる。そんな観光客ずれした火葬場に行ってどうなるのかと、不安もあった。他人の火葬を、他の観光客にまぎれて野次馬に行くのか、と。
でも、行ってみれば、そんな心配はどうでもいいことだった。立ち並ぶ五〇のガートと、その背後に広がる、死者の遺族、沐浴客、観光客を迎える巨大迷路状の商店街や宿泊施設。バラナシは、それらすべてをのみ込んだ、一年中礼拝とお祭りでごったがえす街だった。毎日がお祭りの街だった。そして、葬送の人々や沐浴の人々に、観光客を邪魔者のように見る気配はなかった。おそらく彼らにとって、私たちは余計者ではなく、世界最大級の聖地を彩る観客にすぎなかった。
日本の多くの地方町村では、お盆、盂蘭盆会で祖霊を祭る。ろうそくや提灯のぼんやりとした明かりと、和太鼓の響きと、盆踊りのゆかたの列がその祭りを彩る。たとえその踊りの列が、阿波踊りのような巨大ショー、イベントになったとしても、その人ごみと喧噪が、祖霊祭りにとってけっして迷惑な存在とはならない。むしろそこにやってくる観光客は、野次馬などではなく、祖霊祭りの重要な彩りの一つである。そして旅館や屋台や土産物屋の重要な収入源である。
バラナシと盆踊りはもちろん、同じではない。お盆は、すでにあの世のものとなった祖先の霊を、ひとときこの世に迎えるしめやかな祭りである。一方バラナシは、肉親をあの世に送る遺族の、悲しみの絶頂を抱いている。そして、そんな遺族や沐浴の客をあてに、物乞いで命をつなぐ者たちや、なりふりかまわず詐欺まがいの商売をする者たちが群がる。そんなとんでもない状況を体験してみたくてやってくる私のような観光客もいる。しかも、それが毎日休みなく繰り返されるところなのだ。単純に、数の上でも、死の影は圧倒的に濃厚だ。死と生と、聖と俗とがそれぞれ極めて濃厚に混在している。
結局私はそこへ、生の死体が火に焼かれている最中を見に行ったのだ。死体が炎と灰とにまみれ、それでも焼け残った胸や骨盤がドボンとガンガに投げ込まれるところを。
バラナシへ火葬にやってくる人々は、できることなら安価な電気炉での火葬でなく、ガートでの高価な薪の火葬を望むらしい。生焼けの骨の残る火葬のやり方を。