第四章 バラナシ(ベナレス)とガンガ(ガンジス川)
ホテルARTIのやり方 気合いの売り込みになんとかもちこたえる
アグラからまたデリーまでもどり、Grover氏と別れ、再び自力での移動となる。デリーを夜行寝台で出発。朝、バナラシ駅に着いた。駅を出たとたん、というか、もう、ホームに降りたとたん、客引きがしつこくつきまとう。振り切ってリクシャーのたまっているところに行くと、運転手たちに取り囲まれる。マニカルニカー・ガートの方に泊まりたいと言うと、あっちは今フェスティバルだから行けないと言う。弱まってはいるもののスコールは降ってるし、お腹の調子は悪いし、多少高くてもさっさときれいな宿を決めてしまおうと思い、とにかくリクシャーに乗る。
最初に連れて行かれたところはトイレ、シャワーが汚かったので断る。次に連れて行かれたのがホテルARTI。部屋は清潔だし、宿泊料金はリーズナブルだし、で、とりあえずオーケー。リクシャー氏はどの程度マージンをもらってるんだろうと思いながら、二軒回らせたので、交渉した料金に五ルピーをプラスして払う。チェックインの時、ホテルマンが勝手に二泊と決めてかかって宿帳に書き込もうとするのを、とりあえず一泊だ、あとはまた考える、と押し返す。
部屋に入ったあと、マニカルニカー・ガートの方に散歩に行くと言うと、ホテルマンたちはあっちは今フェスティバルだから行けないとさかんに引き止める。ちょっと出るだけだとごまかして歩いてみると、少し距離はあるが、普通に行ける。長い散歩から帰ると、ホテルのオーナーに、商品庫に招き入れられる。チャイを出してくれ、いっしょにそれを飲みながらシルクやショールなど、しきりに買い物を勧められる。いい商品なのは分かるが、自分には必要のない物だ、と断ると、自分で使わなくても、まとめて買って商品として売りさばけばいい儲けになるじゃないか、と言う。たぶんそれなりの商品なのだろうが、そんなことまでしようなんて思いもしない。
改めて断って部屋にもどると、ホテルの屋上に住み込んでいるボーイが部屋までやってきて、上手な日本語で、ガンガの日の出を見るのに明日ボートに乗れとしきりに勧める。値段を聞くと五〇〇ルピーだと言う。さっき散歩の時に出会ったボートマンは一〇〇ルピーと言ってたぞ、と言うと、それは、乗った後で一〇〇ドルと言ってくるぞ、一〇〇ドル払わないとオールを投げ出したりするぞ、と必死にこっちに顔を近づけて言いたてる。
オーナーはまだゆったりかまえた様子を見せてはいたが、ホテルマンやボーイは、とにかく嘘でも何でも言って商売しようと強烈だった。みんな話してると優しい目をしてて、不思議にいい人だと感じさせるし、無理強いまではしないんだけれど、一晩泊まって早々にチェックアウトした。
ともあれ、土地勘のない旅行者が、バナラシ駅から自分の行きたい宿に、自力でたどり着くのはかなり難しい。まあ、なるようになるだろう、くらいに思っていたが、なりゆきに任せていては何もできないところだ。いやいやまったく、おそるべしインド。
ホテル寄生ボーイ 賢く、おもしろく、しつこい奴
ARTIにチェックイン後すぐ、東アジア系の顔立ちをした小柄なボーイが、毛布を持って部屋に来た。「一枚一〇〇ルピー」と、へへっと笑いかける。おいおい、と顔をしかめると、「ジョーダンジョーダン」と人なつこく背中をたたきながら笑いかけてくる。日本語がなかなかうまい。賢そうだが、こっちを揺さぶって試しているのかもしれない。
けっこう疲れもたまっていたので、フロントでマッサージの紹介を頼んだ。近くで営業してる、と言いはするものの、自分たちの商売にはならないからか、ちゃんと案内してくれない。近くで話を聞いていたこのボーイがまた部屋までやってきて、ホテルマンには絶対にないしょだ、と固く念押しして、自分の友人を連れてきた。
マッサージしてくれたのは、ボーイより少し年下に見える、素朴な青年。日本語はまったく話せず、英語もほとんど通じない。それなりにマッサージの心得があるのは分かるが、へたくそだった。ボーイは、気に入ったら多めに払ってやってくれと言っていたが、約束していた最低の額しか渡してやらなかった。そのあとボーイがまた部屋にやってきて、なんでもっとやってくれないんだ、自分が預かるから、もっと出してくれと食い下がってきた。まったくうるさい。だいたいこいつ、あの青年から口利き料を何割くらい取ってるんだろうと思うと、腹が立ってきた。
散歩から帰ってくると、今度は、屋上のレストランに来てくれと言う。レストランの横に汚い小屋が置いてあって、彼がそこに住み込んでいるのが見てとれる。どうもボーイは屋上を借りて、ホテルに寄生しているみたいだ。従業員とは別の扱いか。
粗末な小屋の中から、何を思ってか、自分のパスポートを持ち出してきて、ほら、これでオオサカに行って仕事を探す、もう半年くらいで飛行機代がたまる、と熱心に説明してくる。なんでそんなことを話してくれるのか分からなかったが、オオサカにはヤクザがたくさんいるから気をつけろよ、と、そんな義理もないのに少し心配して、注意をしてやった。ヤクザだよ。ジャパニーズマフィア。しかし、どうもヤクザ、マフィアの意が通じない。
日本語が上手だとほめると、カノジョに教えてもらったんだ、と。それにしても、ボートでふっかけようとしてくるし、けっこうつきまとってくる。ホテルもこんなボーイに勝手放題させておいて、客を逃がす結果を招いているのに気づいてないのか?
どこを畜舎にしとんねん これは反則やろ
ホテルARTIのすぐ手前、ハリシュチャンドラ・ガートに通じる道路に面した古いビルの前で、一〇頭くらい牛を飼っていた。ビルの表通り側。明らかに道路の一部なのに。牛たちの座り込んでるところは糞尿でどろどろ。舗装された道路なので、糞尿はにじむように、下り勾配の方へ広がっている。そこからそんなに遠くはない狭い小路では、五〜六頭のヤギを、家の外壁沿いに一列につないで飼っていた。市街地の中やで! 道路や小路を自分ちの畜舎代わりに使ってる。それはないやろー。
担架の葬列 客室三階の窓から
ホテルARTIで泊まった部屋は、ハリシュチャンドラ・ガート(バラナシに二つある火葬場のうち、小さな方)に通じる道路に面していた。夜が更けてもときどき、フェスティバルのパレードのような物音が通るので、通りを見下ろしてみると、それは葬列だった。十数人から二〇人くらいの若い男の集団が、きらびやかに飾られた担架に遺体を乗せ、なにやらデモのスローガンを唱えるようにときおり大きな声を出しながら、騒々しく小走りに駆け抜けて行った。火葬場は二四時間営業だ、と、散歩の途中、ガートで暇にしている男がわざわざこっちの腕をつかんで教えてくれてはいたが、なるほど深夜まで、時にはプカプカとラッパの音まで交えて、何度も騒々しい集団が通り抜けて行った。
フレンズゲストハウス(友達の家) 怪しげな名の、フレンドリーな宿
ホテルARTIを抜け出して、後の二泊と三日をここで過ごす。三階二〇〇ルピー、四階三〇〇ルピー、ルーフトップの部屋四〇〇ルピー。あたりでは一〇〇ルピー程度でも、我慢できる程度の部屋がとれそうだったが、ルーフトップの部屋があまりに良かったので即決。部屋の窓いっぱいにガンガの景色が見えるし、戸を開けっぱなしにしておくと反対側の旧市街も見下ろせる。トイレ、シャワー室も磨きがかかっている。豪華ではないがベッドもシーツも気配りが行き届いているのがひと目で分かる。かなり疲れがたまっていたので、ちょっと散歩してはこの部屋でガンガを眺めたり寝ころんだりしていた。バラナシでもよく停電になったが、ここはエンジンでの発電はせず、バッテリーでの対応で、静かでもあった。オーナーの息子ラジャを中心に家族だけで経営。ボートの手配(一人で乗っても一〇〇ルピーだった。乗合で二〇ルピー)、両替ほか、まったく安心できる宿だった。
デリーのアジャイゲストハウスも、このゲストハウスも、ビルの中心部が一階から四階までぶち抜きで、真ん中にぽっかり穴が開いている。穴は鉄格子でふさいであって、その上を歩いても大丈夫なようにしてある。戸を開けっぱなしにして部屋で本を読んでたら、オーナーのお父さん、チャイを片手に、大きなトランクス一丁でふらりと入ってきた。お父さんおごりのチャイをいただきながらその穴のことを聞いたら、家の空気循環のためだとか。冷蔵庫を二階に上げるときにも使ったらしい。
ぜいたくな洗濯 ちょうどいい日和
たしかいままでの旅行ではあまり洗濯をしたことがない。東南アジアではずいぶん料金が安いこともあって、必要なときにはクリーニングに出したりしていた。
ゲストハウス二階、ラジャ家の居住階まで下りてプラスチックの洗濯桶を借り、シャワー室に持ち込んで、ドラッグストアで買ってきた洗剤をパラパラ振りかける。洗うのはTシャツやトランクスなので、ちょいちょいで終わり。部屋のドアを開けるとすぐそこに物干しロープが張ってある。ラジャの妹たちが家の洗濯物を干しているロープなのだが、部屋から出てすぐのところを借りて干す。干している目の前にはガンガのパノラマが広がり、川のカーブに沿ってガート群や市街が見渡せる。日射しは強いし、Tシャツが少しはためくほどの川風がずっと吹いている。こんな洗濯が、楽しくないわけがない。
ラジャ 仕事人
オーナーの息子、ラジャは、肉付きのいい小柄な男。両替の時、当日の新聞に載っているレートをこちらに見せながら、そこから手数料を引いて、ドルをルピーに替えてくれた。なかなか良心的なレートだ。その事務室は、家の玄関にあって、いつも人の出入りが監視できるようになっている。客が連れているインド人にも、ぼったくりでないかどうか注意を払ってくれている。事務室はほんの一畳ほどだが、ウインドウズxp 搭載の最新パソコンも備えていた。自分の経営するゲストハウスは素晴らしいが、徹底して丁寧な仕事をしているためにあまり儲からない。収入の半分は日本で稼いでいるという。話はそうやって続いていって、宿のPRを兼ねた自慢話になるのだが、聞いていて悪い気がしない。
途中で同宿の日本人が事務室に入ってくる。ちょっと熱っぽいのがなかなか下がらないと言うのを、うんうん、とか、あまりよくないようだったら医者に連れて行くよとか、気軽に相談相手になっている。ついでに、インドで流行っているポップスCDをパソコンにかけて紹介したりしている。横からそんな話に割り込んだり、宿泊客が記帳していったノートを見たりして、彼らの相談の終わるのを待つ。ノートをパラパラ見ると、このゲストハウスへのほめ言葉と、ラジャの自慢話が長いことが、そこここに書いてある。来る客来る客に自慢してるらしい。
トランクス一丁のお父さんが、ルーフトップの部屋はラジャが担当してると言っていた。ラジャの仕事ぶりは確かに丁寧で、あの部屋はこだわりが感じられるほどに手入れがしてある。
彼が日本で働くときは、インド式オイルマッサージ、アーユルベーダをやるらしい。就労ビザは簡単に下りるそうだ。日本語も日常会話に不便のないレベルだし、日本のどこかの町でも、しっかりいい仕事をしているのだろう。
記帳用ノート㈪ フレンズゲストハウスの場合 信頼のノート
ラジャの事務室でめくっていた記帳用ノートは何冊もあって、全部部屋に持って行って読んでくださいと、ドサッと持たされた。ゲストハウスを始めて以来のものすべてが、大事に置いてあるという。ラジャの自慢話のことや、若い日本女性に特に丁寧なことも書いてあるが、後は、バックパッカーからの旅の情報と、ラジャやその家族への感謝の言葉が並んでいた。フレンズゲストハウスでは、記帳用ノートは信頼の証、大切な財産として扱われていた。
凧揚げ ルーフトップからの風景
フレンズゲストハウスのルーフトップの部屋は、周辺の建物より一階から二階分くらい高かった。夕方、学校の終わった時間帯、あちこちの家の屋上で、子どもが凧揚げをしているのが見渡せた。小路をはさんで建物がひしめいているので、地上で凧揚げのできるところはない。屋上も走り回れるほど広くはないので、四角いシンプルな凧をひっつかんで、風が吹いてきたのをみはからってパッと手を離し、ぐいぐい肩やひじから先を上手にしゃくって凧を揚げる。小路から吹き上げる風など、気流が安定しないようでなかなかうまくいかないが、それでもなんとか風に乗せて揚げている。凧を持たせると、走り回るやり方しか知らない近ごろの日本の子どもより、ずっと上手だ。屋上は、そこから人の気配が消える夜や早朝には、サルの遊び場になる。
小路 迷宮
ガンガ左岸には、約五〇のガート(沐浴場)が立ち並んでいる。沐浴のためにガートから川岸まで降りるコンクリートの段がつくってあるが、雨期のため、その段の大半が水没している。いったん西に流れ、また東へと大きくカーブするガンガの左岸、ふくらんで流れる川の堤防になるようなかたちで、ガートが立ち並んでいる。水位が低いときには川沿いをコンクリートの段づたいに歩いて行けるらしいが、それができなかった。大通りの混雑ぶりを避けたかったので、できるだけ川から離れないようにガートに近い小路を歩いていく。そうやっていくつかのガートを見物しようとした。ガートは、増水期に水没する部分を除くと四階建て程度の、ひどく古ぼけた感じのビル群。日本人バックパッカーに有名な、ガートの並びにある「久美子ゲストハウス」の主人は、築四〇〇年の建物を自慢していた。その周辺のも、ほぼ同じような建物ばかりが、無計画に立ち並んでいる。そんな建物と建物のすき間が小路となっている。
実はもともとは路なのではなく、単に家と家のすき間にすぎなかったのではないか。そのすき間が石畳の小路になっている。有名なガートを中心に、小路のあちらこちらに、小さいものは半畳ほどの間口で、土産物屋から、食べ物屋、雑貨屋と、店開きしている。狭いので陽が当たらず歩き回るには都合がいい。自動車やリクシャーが入ってこないのもいい。大通りの激しい混雑には参っていた。
牛がよくつっ立っていて、横をすり抜けるたびに牛の尻尾にブラッシングされるのもたいして気にならない。牛の肩幅くらいの狭い小路でも、行き止まり、というのは少ない。人の流れを見ながら、川の位置を見当つけながら進めば、ある程度一人で歩けると思っていた。でも、かなり迷った。建物と建物のすき間がすべて小路。それがあちらこちらへとつながっている。ちょっと散歩のつもりがくたくたになって宿に帰ったこと二度三度。
大丈夫。人さらいじゃないよ ごめんねえ
狭い小路を、何頭かの山羊が道をふさいでいた。大人たちは、自分の腰をその山羊たちの鼻づらにかすめさせるようにして、何気なくその間を通り抜けるのだが、そこに、ちょうど山羊の鼻づらと同じくらいの身長の少女が、山羊たちの間を通り抜けるのをためらっていた。山羊たちは、少女にとって、見上げるような大きな動物。通りがかりについ、その少女の腕をつかんで、その場を通り抜けさせてやった。振り返ってその子どもにバイバイをすると、少し間をおいてにっこりしてくれたが、その前の一瞬は、ちょっと青ざめていた。そりゃそうか。いきなり見知らぬ外人に腕を引っ張って行かれたら、山羊よりずっとでかいし、こわいわな、そりゃあ。
アキラ 知的でガイド上手で、おまけに巧妙なセールストークを操った青年
小路のややこしさが身にしみたあと、またちょっと散歩に出かけた。ゲストハウスを出るとまもなく、アキラと名乗る少年が声をかけてきた。よかったらガイドしますよ、ときれいな日本語で話しかけてくる。二十歳の学生だと言う。つい最近に近くのガートで爆弾テロがあって、友達が死んだ。そのときの爆音が大きくて驚いた。バラモンだけどそんなにお金持ちでないので、就職のいい、一番お金持ちの人の行く大学には行けない。休みにはこうやってガイドをして小遣い稼ぎをしている。こんなことを、自分から、あるいはこちらからの質問に応えて、ずいぶん知的にスマートに話す。
大学で日本語を勉強してるのか、とたずねると、カノジョに教えてもらった、という。ふーん……。これだけ話せるようになるんなら、だいぶ長く親しく教えてもらったか、と想像してしまう。それにしても上手だ。さらにほめると、こうやって日本人を相手にガイドしてると、いろいろ教えてもらえるからけっこう勉強できる、とのこと。
ともかく簡単には小路を歩きこなせそうにないので、なんらかの出費は覚悟の上で、アキラにつきあってみることにした。どこへ行きたいかと聞くので、まずは火葬場に行って、あとはよく知らないので近場を適当に案内してくれるように頼む。後ろをついていくと、小路を右に左に、すいすい歩いていく。お供え物がしてあるご神体や石の像は、ありゃ何だ? とか、あれこれ質問すると、ひとつひとつ丁寧に説明してくれる。物乞いがいるけど、お金あげちゃだめ。子どもにあげるのもだめ。だって、子どもにあげても、それを親が「ハッパ」に使ってしまうから、子どもを助けることにならない。あげるんなら、ちゃんと子どもを助けてくれるところにあげるのがいい。そんな注意をする。道ばたに腰掛け、小銭を求めて手を出してくる大人や子どもの溜まりを抜けると、火葬場、マニカルニカー・ガートに出た。
ガートからのもどり道、ガンガ沿いに歩いていると、あれが「サイババの弟」、今ちょうどお祈りをしてると、アキラが少し向こうのガート上層部を指さす。サイババに興味はないので、適当にあいづちを打つ。会話のほとんどはスムーズな日本語。うまく通じないときはときどきお互いに英語で言いなおす。
帰りに、おじさんが紅茶の店をやってるので寄らないかと言う。気に入れば買えばいいし、欲しくなければそれでいい、と。あちこちに枝分かれしてはつながっている小路の両側に、小さな店がすき間なく連なっている。その中に、間口一畳ほどの、赤ペンキで塗りたくられた四角い石油缶のようなものの並ぶ店があった。チャイ屋が仕入れにでもやってきそうな店の構えだ。敷居をまたいで上がり込む。奥行きはあるが、三人が座ればそれで店の中はいっぱい。店の茶葉でいれたチャイをおかわりしながら、いくつかの赤い缶から紅茶とチャイの葉を出してもらい、香りを確かめたうえで、荷物にならない程度に、店で一番いいのを買うことにする。
ゲストハウスに帰ってラジャにこの話をすると、ラジャは紅茶も扱っていて、うちなら三分の一の値段で出せるよ、と言う。紅茶葉の質と値段の違いなんて、なかなか分からないもんだから、と思ってはみるが、値段交渉する前に買う気を見せてしまったのは失敗だった。たぶんけっこうボラれたんだろうな。
お茶は日本に帰って飲んだが、なかなか香りのいい品物だった。
記帳用ノート㈫ サイババの弟の場合 何も信じたくなくなるノート
紅茶を買った後、アキラはさっき川で見た「サイババの弟」のところへ寄ろうと言う。紅茶の店の通りを外れてすぐの、これまた間口一畳くらいの中に上がり込むと、「サイババの弟」と称する人物が、しきりに寄付を勧める。たくさんの貧しい子どもを施設で預かって世話をしている。その資金協力をして欲しいということらしい。なんだかうさんくさい野郎だ。渋っていると、なにやらノートを見せてくる。いろいろな国の言語で、上手な字や下手な字で、署名やらメッセージやら金額やらがたくさん書いてある。記帳用ノートを、慈善事業を証明する道具に使っている。
ドルとルピーは最小限しか持ってきてないと言うと、円でもいいと言う。気合い負けして三〇〇〇円出してしまった。私の前に記帳した人の金額と比べれば一ケタ少ない。「サイババの弟」はかなり不服そうだったが、これ以上出せないと突っぱねる。そうすると、彼は居ずまいを正し、頭を下げるように言い、水を振りかけ、なんだかお祈りを捧げてくれた。領収書は要るか?と聞いてくるので、そんなもんいらん、と断った。
もし、これが詐欺だったら、明日にでも警官を呼んできてここに乗り込めばいい。逃げ隠れするような部屋のしつらえではない、とも考えてみる。でも、やっぱりうさんくさい。三〇〇〇円寄付していいことをした、という気には全然なれない。
この後、アキラはガイド料を要求した。紅茶屋と「サイババの弟」から、あとできっちり小遣いもらうんだろうがあ、と思いながらも、またも気合い負けして、三〇〇ルピーほども渡してしまった。
極小店舗の並ぶ商店街で 値段交渉抜きのしあわせ
小袋入り粉石鹸とチューブ入り歯みがきを、小路の商店の並びにある、ドラッグストアで買った。
ドラッグストアでも揚げ物屋でも、店の間口は半畳かその倍のサイズ。日本で自販機が主流になる前の、昭和三〇年代前後のたばこ屋さんのような感じ。そしてそこには、お客さんににっこりお愛想をする看板娘はいない。どこでもきまって店番は男。こっちに涼しい目を向けて、表情を変えもせず品物を渡してくれる。でもドラッグストアでは、薬でもなんでも、パッケージに値段がプリントしてあるように見えた。値段交渉の必要がなくて、たったそれだけのことで癒された。
ガンガの火葬場
「星のゐる夜空のもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり」
斎藤茂吉は郷里山形で、母の火葬を歌にした。田んぼにわらを積んで、遺体を一晩かけて野焼きにする。三〇年少し前の兵庫県加西市でも素朴な葬送は残っていた。私の母方の曾祖母は、土葬だった。遺体は膝を抱えさせ、一人用冷蔵庫くらいの大きさの木棺を、そのまま埋める。埋めた所は、土まんじゅうといって、土をしっかり盛り上げておく。そうしないと、そこが墓だと分からずに腐った棺桶ごと墓を踏み抜いてしまう。
野焼きも土葬も、すごく残酷な感じ。でも、たくさんの身内の者たちが手間をかけ、死者をあの世に送る野辺送りは、たいへんやさしく丁寧なのだと思う。今の日本の火葬は、清潔に演出される。きれいに飾られた巨大オーブンに封印されて一時間もたたないうちに、真っ白くサクサクのお骨のできあがり。それはそれで十分に辛くておごそかなものだけれど、茂吉の歌や、曾祖母の土葬を思い出すと、なんだか遺体がどこかに消去されたような気さえする。
藤原新也の『メメント・モリ』も思い出す。ガンガは人間が生身で生き、死んでいくところだと思っていた。そんなことで、バナラシは一番行っておきたかったところだった。雨期で川の流れが強くて、聖者、罪人、子どもなどは火葬されることなくガンガに流されるという、そんな遺体を見ることはなかったけれど、マニカルニカー・ガート、ハリシュチャンドラ・ガート、この二つの火葬場を見た。しゅーしゅー生身の焼ける大きな音が聞こえる。井げたに積み上げられた薪にはさまれ、遺体が焼かれること三時間。火葬場の職人は容赦なく火かき棒でつっつく。それでも、男の場合は大きな胸板の部分が、女は腰の部分が、黒こげになって焼け残る。それを無造作にガンガにドボンと放り込む。焼け残った部分は魚が始末してくれる。葬送にやってきた遺族や縁者たちは、故人の遺灰の流されたそのすぐ下流にあるガートで、沐浴をしていた。
火葬場のマハラジャ
ガンガのボートマンは、雨期で速い流れに逆らい、いくぶん流れのゆるやかになる部分を上手に探しながら、細い体をしならせてオールを操っていた。流れの左岸、立ち並ぶ建物の一つを指さして、あれが火葬場のマハラジャの家だと教えてくれる。マハラジャはすごーいお金持ち、ほら、若い奥さんがたくさんいる、という方向を見上げると、なるほど何人もの女の姿が、テラスの上階で動いている。僕たちはこんなにオールを漕いで、すごく大変。なのに、貧乏。だから、あとでいっぱいバクシーシ(チップ)をくれ、と。
二つあるうちの大きな方、マニカルニカー・ガートだけでも、上下二段のテラス、合わせて常時十数体が火葬に付されているらしい。それぞれの遺体は三時間で焼かれ、二四時間の営業として、毎日一〇〇体ほども扱うことになる。大勢いた火葬場の職人は、そのなりや姿からは低賃金労働者に見えた。そこでの収益は一人のマハラジャの所に集まるということか。だとすると、この火葬場は、競争相手のない、非常に安定した独占企業ということ?
マハラジャというのは、単に金持ちという意味でなく、かつての封建領主だったり、大なり小なり、その世界、業界で権威・権力を持っている人のことではなかったか? とすると、ベナレスの火葬場を運営しているのは、バラナシ市当局でもなく、火葬場運営会社の社長さんでもなく、昔ながらにヒンドゥーの死者を扱う、火葬場の王様、ということなのか。彼以外のだれもが、その独占企業の競争相手として参入することができない、生まれながらの権威、権力を持ってる人なのか?
カソーバ
ガンガ河岸をうろついてると、何度となく「ジャパニー? カソーバ!」と声をかけられた。火葬場が国際的に人気の観光資源となっていることが、現地の人に大変よく自覚されていると分かった。
ガンガの透明度 目なんて目じゃない
増水期、ガンガの水は黄土色だった。黄河の色もこんなんだろうか? 対岸の砂州にもボートで渡ったが、ものすごくきめの細かい泥の上を歩いた。足の裏に一センチくらい、均等な厚さにへばりついた泥は、流れに足をつけて手でこすっても、なかなかはがれ落ちなかった。あまりにこまかな泥が、足の皮膚細胞一つ一つに食い込んでいるような感じ。そんな泥がよく川の水にとけ込んでいて、透明度はゼロ。水面より下は何一つ見えやしない。水面を突き抜けたオールが異次元の世界に顔を出していても、少しも困らないくらいだ。そんな中を魚がけっこういるみたいで、投網を打つ人もいれば、釣り糸を手に持っている人もたくさん。その釣り糸は、透明なテグスではなく、ちょうどたこ糸くらいの、白く太いもの。ガンガの魚は、目なんか全然見える必要がないんだろう。乾期には体長約三メートルの淡水イルカもけっこう見かけるらしい。ガンガのイルカがどんなのかはわからないが、揚子江の川イルカも目が退化しているというのをテレビで観たのを覚えている。