第一章 デリーで


薄暗い空港  のち、洋式便器の難題
 バンコック経由の深夜便で、デリー空港に到着。入国手続きを済ませてさらに歩くと、飛行機から吐き出された旅客を待ち受けて、手に手になにやら名前の書いてある紙やボードを持った人たちと、客引きらしき集団で、人だかりができている。あたりは照明がついてはいるが、まるで暗闇が押し寄せてきているようだ。その人だかりに吸い込まれるようにして、自分の名前の書かれた紙を探す。それは簡単に見つかった。
 ゲストハウスからの迎えの車は円建ての二〇〇〇円。日本で四〇分間タクシーに乗ることを考えれば安いが、むこうにはかなりいい儲けに違いない。でも、なにかとトラブルが多いらしい深夜の入国。空港から市内へ、とても予約なしではまともに宿にたどりつけそうな雰囲気じゃない。スタスタ歩く痩せたドライバー氏から離れないよう、うす暗がりを駐車場までついて行く。
 アジャイゲストハウスは、中にシゲタトラベルというツーリストが入っているので選んだところ。空港への送迎もこのツーリストがやっていた。建物は大きく、外国人客でにぎわっていた。部屋はまあまあだが、シャワー室が掃除されてなくて汚い。それより気になったのは、シャワー室内の便器が洋式だったこと。便座は水でベチャベチャ。ロールペーパーの気配はなく、例の水をくむ容器が置いてある。日本を出るときから、トイレは右手で水くみ容器を持って左手でじかにお尻を洗うインド方式貫徹、とひそかに意気込んでいたので面くらう。しゃがむやつなら分かるが、こいつでどうやってインド方式を決行すればいいの? 便器に足を置くのはあまりにも危険だしぃ。でもまあ、どう考えてもそんなにいい方法が見つかるはずもないだろうし、とにかくやってみるか……。とりあえずもう二時も過ぎてるので、そのまま部屋を借りる。


目標は一日一〇〇〇円の旅行だったけど  しょっちゅう海外に行けるわけでもなし
 どうせなら不要な出費はしたくない。長距離移動の費用は除いて、日本円で一日一〇〇〇円レベルの旅行ができると思っていた。「下手をすれば日本で休日を過ごしているよりも安上がり」と日本に帰って言ってみたかった。タイ北部の町チェンマイに行ったときの、二日間ほどがそうだった。インドの物価なら、うまくすればそれが可能かな、と。
 でも結局、デリーに到着早々、予約していたアジャイゲストハウスで通された部屋はエアコン付きツインで一泊三〇〇ルピー(約七五〇円)。深夜便での到着だったので、部屋を替えてくれと言いそびれた。翌朝には、ついつい、シゲタトラベルのロニさんに勧められるまま、ちょっとお高いツアーを申し込んでしまった。僕一人に専属ガイド兼ドライバー付ツアー、デリー→ジャイプール→アグラ→デリー二泊三日に、バナラシ(ベナレス)への急行エアコン寝台往復切符を付けて、三九八ドル(約四万三七八〇円)。日本で組む大手旅行社のツアーより安いだろうが、けっこうぜいたく。まあ今までの旅行でも、一人で行動してると、聞ける人がいなくて、分からないことは全部分からないまま、というありさまだった。たとえば、見たことのないフルーツを屋台で買っても、そのフルーツのどこを食べていいのかすら分からなくて、結局ほとんど全部捨てちゃった、みたいな。とにかくなんらかのガイドが必要と思ってたので、まあいいか、と。
 ツアーを申し込んだ後、一日デリーを自分でうろついてみた。リクシャー(30ページ参照)で回ったのだけれど、とにかく恐い。トラック、バス、乗用車、オートリクシャーの走る中、むき出しにされた生身ひとつ後ろに乗せて、道路の真ん中をガンガン走ってくれる。やっぱ、移動は乗用車がいい。路線バスを乗りこなすのも、短期旅行者には無理があるし。少し高くつくけれど、自力で公共の交通機関で移動して観光するより、ツアーを申し込んでよかった。
 往路飛行機内で冷えて下痢。旅行四日目には、アグラのホテルでの夕食で、多すぎたターリを無理に完食して、下痢。どうやら食中毒でもなんでもない二度の下痢の影響で、旅行中ずっとお腹の具合が悪く、それだけでかなり体力を消耗した。それで、バナラシでも結局、シャワー・トイレ付きの、きれいな宿に泊まることにした。
 一日一〇〇〇円ベースの旅行はすっかり、あきらめてしまった。

 
旅行の期間  今のところこれが精いっぱい
 一人でぶらぶら旅行に行き始めて、沖縄、グアム、プーケット、台湾、チェンマイ、マレーシア、そして今回が七回目くらい。八月一〇日から一九日まで。今までで最長の一〇日の旅行だったのに、インドに行くとあちこちで「えっ、たったの一〇日?」と驚かれてしまった。インドに行く人はバックパッカーばっかなのか? 一〇日がそんなに短いの? 短くてすんませんねえ。
 念願のインドだった。とにかく、道路と客引きにバテました。体重五キロ減りました。


なんで一人で来たの?  それはあんたの都合やろ
 土産物を買わせたい店員はすぐにこう言う。
「えーっ、なんでオクサンといっしょに来ないの? じゃこれ、お土産にどう?」
 ほっといてくれ、と怒るのもつまらんから、オクサンはインドよりヨーロッパが好きなんだと言っておいた。
 四〇代後半突入男が一人でプラプラ旅行してんのは不思議なことなんか? 仕事と家から逃亡するために来てるのに、いちいちここまできて家族の用事をつくってくれんでもええわい。お土産も、旅行の終わりにちゃんと買うわい!


ジャマー・マスジットの履物預かり男  到着日翌朝、ゆっくり起きて午後に
 ツアーの出発は次の日になったので、夜まではデリー市内の観光スポットをいくつかまわってみることにした。アジャイゲストハウスを出て、喧噪のデリー駅をまたぐ大きな陸橋を越え、リクシャーを拾い、まずはラージガート(マハトマ・ガンジーの墓)、そしてラール・キラー(ムガル帝国時代の城)に行ってみた。車両の洪水に圧倒されながら行ってみると、どちらも独立記念日だかららしく、中に入れなかった。あきらめきれずゲート前でライフルを肩にした兵士にたずねるが、今日は入れないと申しわけなさそうに言うばかり。また一人洪水の中を泳ぎ、リクシャーを拾い、ジャマー・マスジット(ムガル帝国時代の、インド最大のモスク)に行ってみる。
 入口の大きな門でじいさんに引き止められ、腰巻きを巻かれ、さらに、サンダルを預けろと言う。モスクに入るためにはそうしないといけないらしい。預かり札も何もくれない様子だったので、サンダルは腰のバッグにくくり付けるから、と抵抗してみるがとりあってくれない。たぶんそんな言いわけをして、中に入ってまたサンダルを履いてしまうようなやつがいるからだろう。ほかにも預かったらしい履物がいくつか地面に並べてある。ところが、入場者の割に並べてある数が少ない。なんだか怪しーなー。ほかの入場者もみんな預けてんのか? それにこんなふうに並べたまんまなら、誰か先にもどってきたやつが、わざとまちがえて履いて帰るのは簡単だ。このサンダルは長時間履いていてもさほど疲れないので、重宝して使っている。旅行の初めになくしてしまうとつらい。とかなんとか考えはするものの、せっかく来たのに引き返すのもばかばかしいので、あきらめて預ける。
 入ると中庭は日射しにあぶられた石畳。はだしでは熱くてとても歩けない。人一人通れる幅にカーペットが敷いてあって、そこを通る。モスクに付属する学校があるのか、ムスリムらしい、綿の白い帽子に白い服の、同じ格好をした男の子たちを何人も見かける。放課後なのだろう、中庭にある池に、並んで足を浸して、暇つぶしをしていた。彼らとカーペットの上ですれ違うときには、すっと道を譲ってくれ、「ハロー! ジャパニー?」と、少しはにかみながら声をかけてくる。服装や様子から客引きや物乞いの少年とは明らかに違うので、なんだかすがすがしくて、気持ちよくあいさつを返す。高くそびえるミナレット(イスラム教徒に礼拝時間を伝えるための塔)の中の、しっとり冷たい赤い砂岩のらせん階段をひたひたと上りつめると、インド人や外国人観光客が肩を寄せ合って、ほかの建物に邪魔されず吹き抜ける風に髪をなびかせながら、デリー市街を一望のもとに見渡している。
 ミナレットを下りて、門にもどってくると、そこに並べておいたサンダルも、あのじいさんも見あたらない。しまった、やられた、と、自分の顔色が変わるのが分かる。するとそこにいる似たようなじいさんが、まあ、ここに座って待ってろと、古ぼけた腰掛けを指さす。くそっ、と思いながらも半分あきらめて座っていると、門の奥の暗がりからあのじいさんが現れ、ほい、これだろ、と、にやりと笑って僕のサンダルを目の前に突き出した。
 ありゃーっ、なんですぐにこれだと分かるの? と、今度は感心するやらびっくりするやら。どうやら、預かる履物の数はかなり多いらしい。だから、地面に置いたままではなく、それなりの数になったらまとめていったん奥の暗がりの方に保管しているらしい。たくさん預かっているのに、客の顔をひと目見ただけで、すぐにサンダルを持ってきた。よくもまちがえずにいられるもんだ。このじいさんはプロだ、と思わずうなりながら受け取った。しかしまあ、制服とまでいかなくても、腕章とか名札とか、何か目印を付けててくれれば、こんなに不安にならなかったかもしれないのに、あのじいさんたち、まったくそこらへんの普通の服装なのだ。
 こうして、たった三カ所をまわっただけなのに、車両の洪水の中を、無防備に生身をむき出しにしてリクシャーに乗せられている恐ろしさに、へこたれそうだった。少し高くついても、次の日からは自動車という鉄の箱の中に入って移動できるのを、ありがたいと思った。