大塔宮の熊野落ちと十番頭

 

 「由良の湊を見渡せば、沖漕ぐ舟のをたえ、浦の浜木綿幾重とも、知らぬ浪路に鳴く千鳥、紀の路の遠山渺々(ひょうびょう)と、藤白の松にかかれる磯の浪、和歌吹上をよそに見て、月にみかける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、あはれを催す時しもあれ、切目の王子に着き給ふ。」と太平記に有名な 大塔宮護良親王の熊野落の際の伝説が海南に残っている。  

笠置山が落城したのは元弘元年九月二十八日(1331)であったが同じく十月二十一日に赤坂も落城したので、大塔宮は金剛山の転法輪寺に入られ、楠木正成、四条隆資等と倒幕の計について協議された後、紀州経路の第一歩として高野山に赴かれた。しかし高野は、北条氏を中立を標傍し積極的な援助を肯じなかったので宮はやむなく花坂、池尻を経て布施屋より小栗街道に従って山東荘須佐より藤白に向かって歩を進められた。これは元弘元年十一月中旬の頃である。お伴の武士は、光林坊玄尊、赤松律師則祐、村上彦四郎父子、片岡八郎、平賀三郎、矢田彦七等であった。
 さて この途上、宮は大野荘幡川の禅林寺に一夜参籠御通夜をされたが、落人の心細さから、「この辺に武士たるもの無きや
」とお尋ねあった。ここに十番頭の面々馳せ参じ、警護の任に当たり、一時宮を春日神社にお隠し申し上げた。故に今に至るまで、同社の相殿三扉の中、一は空位であるという。宮は大野十番頭の忠勤を深く称せられ、自ら春日大明神の御名を書き、その脇に先祖の受領をも書き添えられ、一幅ずつ賜ったと云う、その幟をその後 身の守りと放たず、緒処の戦場に掲げでたと言う。その十人の祖は、
 鳥居浦 三上美作守、     鳥居浦 稲井因幡守、
 鳥居浦 田島丹後守、     鳥居浦 坂本讃岐守、
 鳥居浦 石倉石見守、     神田浦 尾崎尾張守、
 井田浦 井口壱岐守、     中村   宇野辺上野守、
 中村   中山出羽守、     幡川村 藤田豊後守、
であり、紀伊続風土記には、大塔宮御親筆図として、その図を掲げ、長さ一尺七寸、幅五寸五分と説明しているが、今は皆紛失して一つも遺るものなしと註している。但し名高専念寺の学僧全長上人の記する所に依れば元禄の頃には少なくとも二つは現存していたらしい。(全長の著した「名高浦四囲廻見記」には、大塔宮より給はりし春日大明神の宝号とは大塔宮流浪の御身にて在せしに、拾人の武士御味方となりし御褒美に、「もし我天下を治めは、その時諸大夫になさん」との印に給はりしなりと云々......以下略。)
  
 寛政十二年、大野十番頭の末裔井口平之右衛門より、藩へ提出した由緒書には「元弘二年三月八日、大塔宮護良親王熊野御参詣の砌、大野庄春日山に御宿座之節、初て十番頭之輩、幕下に属し奉る。」と記されている。即ち十番頭の家々に伝わる伝説及び春日神社の旧記は何れも大塔宮の大野御逗留を元弘二年三月の事としているのである。