不連続な読書日記(2009.8)



【書評】

●佐々木毅『政治の精神』(岩波新書:2009.6.19)

《政権を選択することの意味》

 可能性の術としての政治。政治的統合。政治的思考。政党政治の精神。──本書にちりばめられたこれらの語彙は、単なる心理学や経済学には還元されない、 (最古の学問と言ってもいい)政治学に固有の概念を指し示している。
 それらはいずれも燦然たる、もしくは惨憺たる人類の歴史の過程を通じて培われてきたものなのであって、私たちは、(昔の人がたとえば「論語」を繰り返し 素読することで先哲の思想を体得していったように)、丸山真男、福沢諭吉、ハンナ・アレント、ウォルター・リップマン、マックス・ヴェーバー、シュムペー ター、トクヴィル、マキアヴェッリ、等々の綺羅星のごとき思想家の言説を、今ここでの現実かつ喫緊の政治的課題に照らし合わせながら読み解くことを通じて しか、これらの概念の内実をわが身に吹き入れることはできない。
 しかし政治や政治学を職とするならまだしも、繁忙を極める現代人にはそのための時間的余裕がない。その時間を節約し、来たるべき「政権選択」の時におい て考慮すべき論点に即し最短距離でそのエッセンスを提示するために、この書物は書かれた。
 政治権力すなわち政権をめざし、協調して行動する人々の集団を「政党」という。著者によると、その政党の最大の機能のひとつは、言動を通じた内部競争に よって質の高い政治リーダーを育成することにある。日本の政党政治の実情が機能不全(リーダー不在)をきたしているとして、それは有権者のあり方と表裏一 体である。無関心やシニシズムを克服し、有権者を投票場に向かわせるものは何か。
 それは、「正しく理解された自己利益」(トクヴィルが定式化した概念で、「ささやかで日常的な[市民相互の]協力関係を構築することによって人間の弱さ を共同で克服することを目指す」もの)の「体験学習」を通じて、投票=選択という「公的アリーナでの活動が自分自身を変化させ、啓発するという快感」を (そして、失望を)知ることである。

《二○○八年秋以来の世界市場の大混乱は、他の先進国以上に日本に深刻な経済的スランプと社会的ストレスを生み出し、改めてこれまでの政策の貧しさと行き 詰まりを浮彫りにした。……踏みなれた利益政治の道に沿って微調整を試みる政治ではなく、正しく「頭脳で行う活動」としての政治の真価が問われる歴史的段 階に入ったのである。……政党は国民の自己統治のための手段であり、手段が手段としての機能を持つことが政党の存続のための条件である。その機能を果たせ ない政党には退場してもらうまでのことである。》

 この本書末尾に綴られた文章を読み、また著者の活動歴(「21世紀臨調」代表)を参照して、いわゆる「二大政党」の一方に肩入れしていると見るのは早計 である。著者の筆鋒は日本のこれまでの政党政治の実態そのものに、そしてその現実と表裏をなす有権者のあり方にも及んでいる。

●柏木恵子『子どもが育つ条件──家族心理学から考える』(岩波新書:2008.7.18)

《子どももおとなも共に育つ社会》

 児童相談所に勤める知人から「読むと必ず目からウロコが落ちる」と薦められた。たしかに何枚もウロコが落ちた。
 たとえば、第1章で紹介される「育児不安」の実態。著者は「育児・子どもがらみの不安や焦燥よりも、現在の自分についての心理的ストレスの方がはるかに 強い」という。育児には時間や労力など多大な「資源投資」が強いられる。その結果、子育てしている者(多くの場合は母親)が「おとなとしての成長・発達の 機会から疎外」され、固有名詞をもった個人=主体としての「存在感・成長感」が損なわれる。このことが育児不安を深刻化させているというのだ。
 続く第2章では「子育ちの不在」が論じられる。戦後、子どもは「授かる」もの(子宝)から「つくる」もの(親の選択の対象)になった。この「人口革命」 が子どもの数と生活の豊かさをトレードオフの関係に変え、「少なく生んで良く育てる」という考え(少子良育戦略)をもたらした。その結果、子どもたちから 自ら成長・発達する機会を奪う「先回り育児」が蔓延する。そこには「子育て」はあるが「子育ち」はない。
 第3章では「変化する家族」の問題が取り上げられる。ここでも、家族とは単なる集合ではなく相互に機能的に関係しあうシステムだ、家族を「もつ」ことで はなく「する」こと、すなわち主体的に家族の役割を果たすことが大切だ(子どもが家事を担当するのは、子ども自身の社会性と自立性を育むチャンスである) 等々、説得力のある「啓蒙」的な指摘が続く。
 これらの議論を踏まえて、第4章で「子育ち」、第5章で「親育ち」の条件が論じられる。「子どもを「育ち」の主体として受容するためには、親も自らが 「育ち」の主体として生きることが必要」(育児は育自)である。だとすると、子どもが自ら育つことと子どもを育てること、そして親が自ら育つこととが両立 (鼎立)する社会、すなわち「子どももおとなも共に育つ社会」をいかにしてつくっていけばいいのか。その一つの解が「育児の社会化」である。

《子どもの養育については、「誰がすべきか」はもはや最重要ではないこと、「母の手で」が至上でも絶対でもないことは、今日では明らかです。家族が一番、 母親との一対一が何よりとの考えは、偏見でしかありません。…いま「保育に欠ける」のは、母親がいない、あるいは母親が養育しないということだけではあり ません。…(母親が孤独に養育し、しかも父親が育児に関わらない)「母子隔離」的な環境こそ、むしろ「保育に欠ける」とみることもできます。…重要なの は、「誰が」よりも「どう関わるか」、すなわち養育・保育の質です。保育の質として重要なのは、子をよくみて理解し、それに基づいて応答的に関わることに つきます。…したがって、子どもと程よい距離をもって、子どもをよくみて、子どもの立場にたって応答的に関わることのできる人、すなわち「社会的親」「心 理的親」と呼べるような立場の人間が、子どもにとって必要です。》(180-181頁)

 いま一つの解が「男性の育児不在」の解消もしくは「男性の育児権」の制度的保障、すなわち「ワーク・ライフ・バランス」の確立である。

《ライフとは、家事・育児など家庭のことをすることではありません。家事は生きるうえで必須の労働であり、ワークです。ライフとは勉強、教養、趣味、ス ポーツなど心身の成長・発達のための個人の活動です。こうした活動は経済と家事・育児といった生きるうえでの安定、すなわちワークの基盤があってこそ成り 立つ活動です。家事・育児も、義務感や不公平感を感じることなく、また過度に負担とならなければ、ライフとして楽しむことは可能です。しかし、その条件が 整っていません。男性は職業のワークを、女性は家事・育児、あるいは、それに加えて職業というワークを過重に担っており、男女いずれも、ライフを享受する 時間も心理的余裕もないのが現状です。
 日本の課題は、まずワーク上の二つの問題を解決することです。すなわち、家事ワークのジェンダー・アンバランスの解消と、長すぎる労働時間の短縮です。 その解決なしに、ライフを考えることは困難であり、ましてワークとライフのバランスはとうてい望めないでしょう。》(222頁)

 ジェンダーという語彙に不信感をいだき、男らしさ・女らしさの尊重や親学の必要性を力説する方がいる。そういう方には是非本書を読んでみてほしいと思 う。「それぞれの体験に根ざした論だけでは、今日の家族や子どもの育ちの問題は解決できません」。冒頭に記されたこの言葉が、本書を読み終えたとき鮮やか に甦ってくる。実証に基づいた政策(エビデンス・ベイスト・ポリシー)とは、このような研究の上に成り立つもののことだ。


【購入】


●荒川洋治『ラブシーンの言葉』(新潮文庫:2009.8.1/2005)【¥438】
 荒川洋治さん(1949年生まれ)がこんな本を出していたのは知らなかった。鹿島茂さん(1949年)、植島啓司さん(1947年)に次ぐ、団塊世代の 性愛論。

●ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(赤根洋子訳,文春文庫:2003.1.10)【¥705】
●ロルフ・デーゲン『オルガスムスのウソ』(赤根洋子訳,文春文庫:2006.6.10)【¥686】
 荒川本に触発されて、ほんとうは『オルガスムス』の方を読みたかったのだけれど、つい隣の『フロイト先生』にも手をだした。

●『PEN』2009年2月15日[特集|日本初のクリエイティヴ・ディレクター 千利休の功罪。](阪急コミュニケーションズ)【¥524】
 貫之、俊成、定家の歌論を極めた後、心敬の連歌論を経て世阿弥の能楽論へ、転じて利休の美学から最後は芭蕉の俳論へ。そんな夢のような構想を胸に抱きつ つ、いまだ貫之論の中盤あたりをさまよっている。いずれ取り組むべき論題をめぐる資料だけは少しずつ蒐集している。

●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』#20〜#22(講談社:2008.3.13〜2009.8.10)【¥400×2,¥419】
●かわぐちかいじ『太陽の黙示録』vol.13〜17(小学館:2007.1.1〜2008.3.5)【¥505×4,¥514】
●かわぐちかいじ『太陽の黙示録 建国編』vol.1〜3(小学館:2008.7.5〜2009.4.4)【¥514×3】
 盆にまとめ読みをしようと思っていた。でも買ったのは盆休みの最終日。二ノ宮本は、これまでは千秋の音楽的開花の物語だった。のだめがいつブレイクする か。かわぐち本は、いつのまにか第一部「群雄編」が終わっていた。

●山田宏一・和田誠『ヒッチコックに進路を取れ』(草思社:2009.8.14)【¥2500】
 ヒッチコックの映画はほとんどDVDで揃えている。いまでもたまに観る。(「めまい」などはほぼ季節ごとに観る。)観るたびに、トリュフォーの『映画 術』の該当箇所を読む。これからは『ヒッチコックに進路を取れ』もあわせて読むことになる。前作『たかが映画じゃないか』(文春文庫)はどこの本屋にもお いてないので、もう絶版なのかもしれない。ジジェクの『ヒッチコックによるラカン―─映画的欲望の経済』(トレヴィル)も、いきつけの図書館の蔵書検索に さえヒットしない。気をもむのは、まずこの本を読んでからにする。

●神門義久『偽装農家』(飛鳥新社:2009.8.14)【¥714】
 名著『日本の食と農』をもう一度読み直したいと常々思っていたら、ちょうど手ごろでコンパクトな時事解説本が出た。さっそく入手して最初の数節を読み流 してみたところ、これはちょっと違う、という違和感がたちまち込み上げてきた。書かれている内容は、基本的に『食と農』と変わらないと思うのだが、実証、 論証の点でかなり不満が残る。議論にまるで説得力が感じられないのだ。これではただの不平不満、愚痴悪口を並べただけの本だと誤解されはしないか。

●服部圭郎『道路整備事業の大罪──道路は地方を救えない』(洋泉社新書y:2009.8.21)【¥760】
 人前で長時間話をしないといけなくなり、そのタネ本として読みはじめた『人口流動の地方再生学』がめっぽう面白かった。で、なにか引き続き地域再生本を 読みたくなり、本屋を物色した結果、勘をたよりに選んだ。

●向田邦子『思い出トランプ』(新潮文庫:1983.5.25/1980)【¥400】
●松本清張『潜在光景』(角川文庫:2004.10.25)【¥476】
●藤沢周平『日暮れ竹河岸』(文春文庫:2000.9.1/1996)【¥505】
 にわかに短篇小説が読みたくなった。そのうち自分でも書いてみたい。そんな思いまで嵩じてきた。思いが嵩じてくると、あとさき考える余裕がなくなって、 「参考」になる書物を渉猟し、とりあえず日本の作家のものを三冊選んだ。選書にあたっては、阿刀田高さんの『短篇小説のレシピ』や『短編小説より愛をこめ て』を参考にした。海外ものでは、アリステア・マクラウドの『冬の犬』と『灰色の輝ける贈り物』が候補。

●磯野テツ・富山飛男『映画なんでもランキング──おもわず人にすすめたくなる あなたの「観たい」がイモヅルでみつかる!』(オフサイド・ブックス,彩流社:2006.2.25)【¥300古】
 「90分の愉悦ベストテン」──「長い映画はキライや! 90分で「すべて」を言い切る職人芸。」──に共感しつつ、続く「問答無用の〈マラソン・ムービー〉ベストテン」──「デカイ、長い、おもろい! 3時間超えの超大作で、名作ランキング、どうだ!この迫力。」──にも一票。

●小島寛之『無限を読みとく数学入門──世界と「私」をつなぐ数の物語』(角川ソフィア文庫:2009.8.25)【¥743】
 新評論から出ていた『数学迷宮』(1991)と『数学幻視行』(1994)の二冊は、かつていくども読み返し、そのつど感動し、霊感を受けた。本書は、 そのうち、著者いわく「(自薦)最高傑作」の『迷宮』をリフォームし「復活」させたもの。

●神永正博『不透明な時代を見抜く「統計思考力」──小泉改革は格差を拡大したのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン:2009.4.15) 【¥1600】
 今年の4月に出たときから、気になっていた。政策を考える、それも地方、地域の政策を考える場合、農と税をおさえておけば全体がつかめる、と誰かが言っ ていた。それに(政策立案や分析のツールとして)統計を加えれば鬼に金棒だ、とこれも誰かからの助言。


【読了】

●佐々木毅『政治の精神』(岩波新書:2009.6.19)
 かつて丸山真男やハンナ・アレントを読んでいたときの、頭脳と情動を同時に揺さぶられるあの感じが甦ってくる。最古の学問である(と言ってもいいと思 う)政治学がもつ力を再認識した。引用された文献のうち、ルバート・O・ハーシュマン『失望と参画の現象学』(佐々木毅・杉田敦訳,法政大学出版局)を是 非読んでおきたいと思った。

●中嶋博行『検察捜査』(講談社文庫:1997.7.15/1994)
 しばし集中できた。よくできているし、よく書けていると思う。でも、もっと長く書きこんでほしかった。

●柏木恵子『子どもが育つ条件──家族心理学から考える』(岩波新書:2008.7.18)
 「それぞれの体験に根ざした論だけでは、今日の家族や子どもの育ちの問題は解決できません」は正しい。しかしその一方で、家族や子どもの育ちの問題にも 深くかかわる「幸福」は主観的な体験でしかない。主観的な体験でしかないものを、それぞれの体験に根ざすことなくして、どう論じればいいのか。「それぞれ の体験に根ざした論“だけ”では」だめなのであって、「それぞれの体験に根ざした論」をいっさい含まない論もたぶんだめなのだ。

●大熊昭信『文学人類学への招待──生の構造を求めて』(NHKブックス:1997.6.25)
 この本を買ったのは12年前のこと。それ以来、いつか読むべき時がくるだろうと思っていた。貫之、俊成、定家の歌論を、パースのカテゴリー論やラカンの 三領域論をつかって解読するといった趣向をめぐって、あれこれ考えをめぐらせた日の夕方、ふと本書と目が合い、いまがその時なのかもしれないという予感に うながされて、食事の前後のあまり頭が働かない時間をつかって駆け足で読了した。
 文学が成り立つ基本的な原理を探究して、著者が行き当たったのが「ケ・ケガレ・ハレ」という三極構造=文学人類学的構造であった。(褻(ケ)、晴れ(ハ レ)は、もともと歌論用語。)パースの「記号」(第一次性)と「対象」(第二次性)と「解釈項」(第三次性)からなる記号過程論を取り上げた「透明な三角 形──汎記号過程論にむけて」の章の冒頭にそう書かれている。パースの「フィーリング」(第一次性)は「気」や「気配」につながり、その内実はエマソンの 「直接経験」や西田幾多郎の「純粋経験」につながっている。そんなことも書かれていた。
 「ケ」「ケガレ」「ハレ」に加えて「カレ」という第四の領域が提示され(「ここ」(アク)から「離れる」(カレる)ことを「あくがれ」という)、それが ユートピアの領域、エクスタシーや恍惚の境地、夢想(アミューズメント)や「いき」(九鬼周造)につながっていくとされていること。このこと一つとって も、やはりこれは通りすがりに一瞥してすますことのできる書物ではない。

●橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書:2009.7.20)
 その昔、某大学の経済学研究科に社会人入学して、経営組織を「統治」の観点から(とりわけ、組織内における言説の交換を「司法過程」としてとらえる観点 から)考察することに没頭していた頃、刊行されたばかりの『言語ゲームと社会理論──ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』(1986)と『仏教の言 説戦略』(1986)を読み、強烈な刺激を受けた。
 本書は、この二冊の旧著を、その理論的骨格は(そして、言語ゲームにおける一次ルールと二次ルール、覚りの言語ゲームといった、ヴィトゲンシュタインの 思考を社会理論に応用していくためのアイデアも)ほぼ踏襲し、新しい素材や趣向や工夫(たとえば、ヴィトゲンシュタインとヒトラーの関係、『論考』と旧 約、『探究』と新約といった、ヴィトゲンシュタインの思考とキリスト教との関係、本居宣長と言語ゲームの関係など)を盛りこんで(かつ、改行やパラグラフ 間の空白の多い横書きという、メール独特の表記法をつかって)語りなおしたもの。
 心に残る事柄は多いが、ひとつだけ抜き書きしておく。

《和歌の感動の本質(もののあはれ)を再生産するには、どうしたらいいか。
 和歌を詠み続けるしかない。
 「もののあはれ」の「ものの」は意味がないので、実質は「あはれ」。つまり、感動して「あー」と声を出すこと(ふるまい)だ。その「あー」 を、具体的に言葉にすると、和歌になる。桜が咲いたり、雪が降ったり、ひとが恋しくなったり、おいしいものを食べたりするたびに、日本人は「あー」と感動 し、歌を詠んできた。それと同じような状況で、同じような和歌を詠むことができれば、それはふるまいの一致である。つまり、万葉の昔、平安の昔の人びとが 属したのと同じ「感動のゲーム」のメンバーであることとなる。
 宣長が和歌を詠んだのは、単なる趣味ではない。それは、はるかな過去の文学作品に内在して、その感動を受け止めるための、不可欠な方法なのだった。》 (221-222頁)

●和田秀樹『エビデンス主義──統計数値から常識のウソを見抜く』(角川SSC新書:2009.7.25)
 そもそも何がウソ(個人の経験、感覚だけにもとづく「もっともらしい」議論)で何がホント(エビデンスにもとづく議論)かを見分けるためには、ある価値 観のようなものが必要である。統計数値そのものが何かを意味しているわけではない。統計数値に意味を与え、統計数値に意味を読みとるのは、人間の作為であ る。その人間がこしらえる統計数値にもウソがある。統計のウソを見抜くためには、まず、常識(ある価値観にのっとった「もっともらしい」議論)を疑い、エ ビデンスにもとづいて検証する習慣を身につけることだ。

●かわぐちかいじ『太陽の黙示録』vol.13〜17(小学館:2007.1.1〜2008.3.5)
 とりあえず「群雄篇」を読み終えた。果てしなくつづく物語。



  【ブログ】

★8月2日(日):政権を選択することの意味──佐々木毅『政治の精神』

 先月、神戸・東京間の新幹線の中で、飯尾潤著『日本の統治構造──官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書)を読んだ。いまさらと思いながら、それでも 一心不乱になって読んだ。法学部系政治学、とでもいうのだろうか、歴史的・制度論的な思考の書物を読むのはずいぶん久しぶりのことで、とても懐かしく、そ して新鮮だった。
 続けて、佐々木毅著『政治の精神』(岩波新書)を読んだ。かつて丸山真男、ハンナ・アレントを読んでいたときの、頭脳と情動を同時に揺さぶられる感じが 甦ってきた。政治学がもつ力を再認識した。引用された文献のうち、ルバート・O・ハーシュマン『失望と参画の現象学』(佐々木毅・杉田敦訳,法政大学出版 局)を是非読んでおきたいと思った。

     ※
 可能性の術としての政治。政治的統合。政治的思考。政党政治の精神。──本書にちりばめられたこれらの語彙は、単なる心理学や経済学には還元されない、 (最古の学問と言ってもいい)政治学に固有の概念を指し示している。
 それらはいずれも燦然たる、もしくは惨憺たる人類の歴史の過程を通じて培われてきたものなのであって、私たちは、(昔の人がたとえば「論語」を繰り返し 素読することで先哲の思想を体得していったように)、丸山真男、福沢諭吉、ハンナ・アレント、ウォルター・リップマン、マックス・ヴェーバー、シュムペー ター、トクヴィル、マキアヴェッリ、等々の綺羅星のごとき思想家の言説を、今ここでの現実かつ喫緊の政治的課題に照らし合わせながら読み解くことを通じて しか、これらの概念の内実をわが身に吹き入れることはできない。
 しかし政治や政治学を職とするならまだしも、繁忙を極める現代人にはそのための時間的余裕がない。その時間を節約し、来たるべき「政権選択」の時におい て考慮すべき論点に即し最短距離でそのエッセンスを提示するために、この書物は書かれた。
 政治権力すなわち政権をめざし、協調して行動する人々の集団を「政党」という。著者によると、その政党の最大の機能のひとつは、言動を通じた内部競争に よって質の高い政治リーダーを育成することにある。日本の政党政治の実情が機能不全(リーダー不在)をきたしているとして、それは有権者のあり方と表裏一 体である。無関心やシニシズムを克服し、有権者を投票場に向かわせるものは何か。
 それは、「正しく理解された自己利益」(トクヴィルが定式化した概念で、「ささやかで日常的な[市民相互の]協力関係を構築することによって人間の弱さ を共同で克服することを目指す」もの)の「体験学習」を通じて、投票=選択という「公的アリーナでの活動が自分自身を変化させ、啓発するという快感」を (そして、失望を)知ることである。

《二○○八年秋以来の世界市場の大混乱は、他の先進国以上に日本に深刻な経済的スランプと社会的ストレスを生み出し、改めてこれまでの政策の貧しさと行き 詰まりを浮彫りにした。……踏みなれた利益政治の道に沿って微調整を試みる政治ではなく、正しく「頭脳で行う活動」としての政治の真価が問われる歴史的段 階に入ったのである。……政党は国民の自己統治のための手段であり、手段が手段としての機能を持つことが政党の存続のための条件である。その機能を果たせ ない政党には退場してもらうまでのことである。》

 この本書末尾に綴られた文章を読み、また著者の活動歴(「21世紀臨調」代表)を参照して、いわゆる「二大政党」の一方に肩入れしていると見るのは早計 である。著者の筆鋒は日本のこれまでの政党政治の実態そのものに、そしてその現実と表裏をなす有権者のあり方にも及んでいる。

★8月11日(火):子どももおとなも共に育つ社会──柏木恵子『子どもが育つ条件』

 児童相談所に勤める知人から「読むと必ず目からウロコが落ちる」と薦められた。たしかに何枚もウロコが落ちた。
 たとえば、第1章で紹介される「育児不安」の実態。著者は「育児・子どもがらみの不安や焦燥よりも、現在の自分についての心理的ストレスの方がはるかに 強い」という。育児には時間や労力など多大な「資源投資」が強いられる。その結果、子育てしている者(多くの場合は母親)が「おとなとしての成長・発達の 機会から疎外」され、固有名詞をもった個人=主体としての「存在感・成長感」が損なわれる。このことが育児不安を深刻化させているというのだ。
 続く第2章では「子育ちの不在」が論じられる。戦後、子どもは「授かる」もの(子宝)から「つくる」もの(親の選択の対象)になった。この「人口革命」 が子どもの数と生活の豊かさをトレードオフの関係に変え、「少なく生んで良く育てる」という考え(少子良育戦略)をもたらした。その結果、子どもたちから 自ら成長・発達する機会を奪う「先回り育児」が蔓延する。そこには「子育て」はあるが「子育ち」はない。
 第3章では「変化する家族」の問題が取り上げられる。ここでも、家族とは単なる集合ではなく相互に機能的に関係しあうシステムだ、家族を「もつ」ことで はなく「する」こと、すなわち主体的に家族の役割を果たすことが大切だ(子どもが家事を担当するのは、子ども自身の社会性と自立性を育むチャンスである) 等々、説得力のある「啓蒙」的な指摘が続く。
 これらの議論を踏まえて、第4章で「子育ち」、第5章で「親育ち」の条件が論じられる。「子どもを「育ち」の主体として受容するためには、親も自らが 「育ち」の主体として生きることが必要」(育児は育自)である。だとすると、子どもが自ら育つことと子どもを育てること、そして親が自ら育つこととが両立 (鼎立)する社会、すなわち「子どももおとなも共に育つ社会」をいかにしてつくっていけばいいのか。その一つの解が「育児の社会化」である。

《子どもの養育については、「誰がすべきか」はもはや最重要ではないこと、「母の手で」が至上でも絶対でもないことは、今日では明らかです。家族が一番、 母親との一対一が何よりとの考えは、偏見でしかありません。…いま「保育に欠ける」のは、母親がいない、あるいは母親が養育しないということだけではあり ません。…(母親が孤独に養育し、しかも父親が育児に関わらない)「母子隔離」的な環境こそ、むしろ「保育に欠ける」とみることもできます。…重要なの は、「誰が」よりも「どう関わるか」、すなわち養育・保育の質です。保育の質として重要なのは、子をよくみて理解し、それに基づいて応答的に関わることに つきます。…したがって、子どもと程よい距離をもって、子どもをよくみて、子どもの立場にたって応答的に関わることのできる人、すなわち「社会的親」「心 理的親」と呼べるような立場の人間が、子どもにとって必要です。》(180-181頁)

 いま一つの解が「男性の育児不在」の解消もしくは「男性の育児権」の制度的保障、すなわち「ワーク・ライフ・バランス」の確立である。

《ライフとは、家事・育児など家庭のことをすることではありません。家事は生きるうえで必須の労働であり、ワークです。ライフとは勉強、教養、趣味、ス ポーツなど心身の成長・発達のための個人の活動です。こうした活動は経済と家事・育児といった生きるうえでの安定、すなわちワークの基盤があってこそ成り 立つ活動です。家事・育児も、義務感や不公平感を感じることなく、また過度に負担とならなければ、ライフとして楽しむことは可能です。しかし、その条件が 整っていません。男性は職業のワークを、女性は家事・育児、あるいは、それに加えて職業というワークを過重に担っており、男女いずれも、ライフを享受する 時間も心理的余裕もないのが現状です。
 日本の課題は、まずワーク上の二つの問題を解決することです。すなわち、家事ワークのジェンダー・アンバランスの解消と、長すぎる労働時間の短縮です。 その解決なしに、ライフを考えることは困難であり、ましてワークとライフのバランスはとうてい望めないでしょう。》(222頁)

 ジェンダーという語彙に不信感をいだき、男らしさ・女らしさの尊重や親学の必要性を力説する方がいる。そういう方には是非本書を読んでみてほしいと思 う。「それぞれの体験に根ざした論だけでは、今日の家族や子どもの育ちの問題は解決できません」。冒頭に記されたこの言葉が、本書を読み終えたとき鮮やか に甦ってくる。実証に基づいた政策(エビデンス・ベイスト・ポリシー)とは、このような研究の上に成り立つもののことだ。

★8月15日(土):Web評論誌『コーラ』8号が発行されました。

 「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第11章・第12章を寄稿しています。よかったら眺めてみてください。

■■■Web評論誌『コーラ』8号のご案内■■■
 本誌は〈思想・文化情況の現在形〉を批判的に射抜くという視座に加えて、〈存在の自由〉〈存在の倫理〉を交差させたいと思います。そして複数の声が交響 しあう言語‐身体空間の〈場〉、生成的で流動的な〈場なき場〉の出現に賭けます。賭金は、あなた自身です。
 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

●シリーズ〈倫理の現在形〉第8回●
 倫理のふるさと
 ──存在の暴力性と、共に存ることの基盤
  岡田有生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-8.html

●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  「第11章 貫之現象学の課題」
   http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-11.html
  「第12章 貫之現象学の課題・補論」
   http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-12.html
    中原紀生

●連載:新・映画館の日々」第8回●
 〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉
    ――男性のホモエロティックな表象と女性主体(下)
  鈴木 薫
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-8.html

●コラム「コーヒーブレイク」その2●
  啄木の妻──節子の「初恋のいたみ」
  橋本康介
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html