不連続な読書日記(2009.7)



【購入】

●飯尾潤『日本の統治構造──官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書:2007.7.25)【¥800】
●藤木TDC『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎新書:2009.5.30)【¥820】
 日帰りで東京へ出頭、ではなく出張。その往復の旅の道連れに選んだ。飯尾本は出たときから関心があったが、その後の評判の高さとそれゆえの各媒体での紹 介や言及の多さから、いつのまにか読んだ気になっていた。2年遅れのベストセラー読み。藤木本については、宮台真治の「激賞」に興味を覚えた。というか、 素材そのものにもっと興味を惹かれた。

●『大航海』No.67[特集|日本思想史の核心](新書館:2008.7.5)【¥1429】
●『大航海』No.7[特集|去勢の歴史─性を侵犯するもの](新書館:1995.12.7)【¥757】
 往復の新幹線で『日本の統治構造』に読みふけったのとは違う日に、これまた出張で東京に出かけた際、ひさしぶりに八重洲ブックセンターに立ち寄ってみた ら、ずっと探していた『大航海』のバックナンバーをみつけた。「日本思想史の核心」特集号に掲載された小倉紀蔵氏の「今、よそ──定家・道元・三島を結ぶ もの」が読みたかった。雑誌は少しでも関心をもつ記事があったら必ず買っておかないと、後でさんざん苦労することになる。「去勢の歴史」特集号の方はつい でに買い、帰りの新幹線の中で対談を中心に気になる文章を拾い読みした。これはお買い得だった。小倉論文は数日後に読んだ。期待通りのところと期待はずれ のところが混ざっていた。「期待はずれ」というのは、本屋でみつけていつか読もうと思っていたのについ買いそびれ、それから1年、逃がした魚のようにしだ いに大きな存在に成長していったものだから、その分を割り引いて考えなければいけない。

●カズオ・イシグロ『浮世の画家』(飛田茂雄訳,ハヤカワepi文庫:2006.11.30/1986)【¥720】
●カズオ・イシグロ『日の名残り』(土屋政雄訳,ハヤカワepi文庫:2001.5.31/1989)【¥760】
 カズオ・イシグロの第一作『遠い山なみの光』は、本当に面白かった。村上春樹の『1Q84』の「口直し」のために手にしたのだが、ムラカミ・ワールドを はるかに凌駕する勢いで、私の読書空間のうちにくっきりとした領域を確保し始めた。いつまで続くかわからないが、発表順に読むことにした。

●黒川重信・小島寛之『リーマン予想は解決するのか?──絶対数学の戦略』(青土社:2009.6.1)【¥1800】
 このところにわかに数学熱が高まっている。『現代哲学の名著──20世紀の20冊』の最初にフレーゲの『算術の基礎』が取り上げられていたことや、村上 春樹の『1Q84』の偶数章の主人公が予備校の数学講師であったことなどが影響しているのは間違いない。(より根本には、パースの「数学的形而上学」への 根深い関心が再発し、ラカン関連の本漁りがそれを加速させたことが潜んでいる。)
 先日、「数学×文学」で検索していて、横光利一の『旅愁』にヒルベルトやリーマンの名が出てくることを知った。また、小島寛之著『数学で考える』に「暗 闇の幾何学―数学で読む村上春樹」の章があることも知った。数学知と文学知の関係はとても妖しい。そこに哲学知や宗教知(や精神分析知や芸術知や技術知や 科学知)などがからんでくるともっと妖しい。数学知と哲学知の関係については、『現代哲学の名著』の序文の扉に記されていたカントの言葉が印象深い。
「さて、すべての理性認識は、概念による認識であるか、概念の構成による認識であるかの、いずれかである。前者は哲学的と呼ばれ、後者は数学的と呼ばれ る。[略]それゆえにひとは、いっさいの(ア・プリオリな)理性の学のうちで、数学だけは学ぶことができるけれども、(それが歴史的なものでないかぎり) 哲学についてはけっして学ぶことはできない。理性にかんしてはせいぜい、哲学するのを学ぶことができるだけなのである。」(カント『純粋理性批判』第二版 八六五頁)
 この論法を拡張して、つまり「概念による認識=数学知」と「概念の構成による認識=哲学知」の二対に、「観念による認識・実践=宗教知」と「観念の構成 による認識・実践=文学知」の二組を重ね合わせて、たとえば「日本近代文学における数学」などといった議論を展開することができるのではないか。そんなこ とを考え始めると眠れなくなる。
 が、そんなこととは無縁に、ひたすら愉しむためだけに本書を購入した。数学関連の優れた啓蒙書を読み始めると、たぶん眠れなくなる。それが私にとっての 「純粋読書」の時間。

●ジークムント・フロイト『エロス論集』(中山元編訳,ちくま学芸文庫:1997.5.12)【¥1300】
 『自我論集』(竹田青嗣編・中山元訳)に収められた「快感原則の彼岸」を読んでいる。断続的に読み継いでいると、部分部分はなんとなく解る(気がする) のだが、全体の論述の流れがつかめない。つかめないながらも、苦行僧の覚悟で読み継いでいると、しだいに核心にふれているような気になってくる。すべては ここから始まっているのだという、源泉の熱気のようなものが伝わってくる。この論文と、これに続いて収録されている「自我とエス」を徹底的に読み込むこと で、そして『自我論集』とその姉妹編の『エロス論』をきっちりと読み込むことで、自分なりの思考を組み立てていくことができるのではないか。そんな直観が 立ち上がってくる。

●新宮一成・立木康介編『知の教科書 フロイト=ラカン』(講談社選書メチエ:2005.5.10)【¥1600】
 フロイトの『自我論集』に収められた「快感原則の彼岸」を、時間をかけて一節ずつ、丁寧にノートをとりながら再読することにした。その参考書として購入 したのだが、これは「ラカンから見たフロイト」というか「ラカンによって読まれたフロイト」の視点で書かれたラカンをめぐる本だった。

●橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書:2009.7.20)【¥760】
 『言語ゲームと社会理論──ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』(1985)と『仏教の言説戦略』(1986)の二冊には、ずいぶん影響を受け た。哲学的な概念(言語ゲーム)を道具として使いこなし、法や社会や宗教をめぐる現象を解析する。

●渡部泰明『和歌とは何か』(岩波新書:2009.7.22)【¥780】
 枕詞・序詞・掛詞・縁語・本歌取り等々の和歌のレトリックには、儀礼的空間(演技に満たされた空間)を呼び起こす働きがある。贈答歌・歌合・屏風絵と障 子絵・人麻呂影供・古今伝授といった和歌の営みを支えてきた場は皆、演技性に満ちた行為によって構成されている。和歌は人の心を表現するものではない。和 歌は、言葉でする演技である。和歌に敬語が稀にしか用いられないのも、和歌の言葉が特別な役割を背負った言葉、すなわち演技的性格をもつ役割語だと認めら れていたからだ。演技とは、本当の気持ちを探し求める営みのことであり、本当の気持ちを自分のものだと引き受けようとする努力のことである。演じることは 今ここで行われる出来事である。「演技などという視点を持ち出したのは、ほかでもない、和歌の言葉を、生き生きと躍動するものとして理解したいからなので ある。歌の言葉が出来あがってくる現場に即して、少しでも魅力的に味わいたいからにほかならない。」以上、「序章──和歌は演技している」のサワリ。素晴 らしい。これに続く「伝統は生まれ続ける」の節の前段など、全文抜き書きしておきたいほど素晴らしい。

●水野正敏『水野式作曲メソッド解体新書』(シンコーミュージック・エンタテイメント:2007.11.27)【¥2000】
 老後の趣味はオペラと歌舞伎。そう決めたことがあった。オペラはたまに観る機会があるが、歌舞伎はまだない。子どもの頃なりたかったのが作曲家か数学 者。作曲家の方は「なりたい」ではなく、いつか必ず「なる」と思っていた。だから引退後の仕事は作曲。そのための準備をしておこうと思った。(数学の方は アマチュア愛好家を志す。)本書のあとがきに、「作曲は何かが切っ掛けで堰を切ったように始めだすもの」とある。これはすべてに言えることで、趣味でも仕 事でも愛好でも「堰を切る」体験が伴わないかぎり本物ではない。

●柏木恵子『子どもが育つ条件──家族心理学から考える』(岩波新書:2008.7.18)【¥740】
 児童相談所に勤めている知人から「目から鱗が落ちる」と勧められた。人から勧められた本を読むことはまずなかったのに、この本だけはどういうわけか読ん でみようかという気になった。この機会を逃すとまず手を出しそうもない分野の本。馬には乗ってみよ、人の勧めには従ってみよという気持ちが突然どこからか 降ってわいてきた。

●中嶋博行『検察捜査』(講談社文庫:1997.7.15/1994)【¥619】
 今月は気持ちが定まらず、あれこれ手を出しては中途半端のまま放り投げている。まともに読み上げた本がほとんどない。警察小説かリーガルサスペンスな ら、一気読みの醍醐味を味わえるだろうと思った。この本は、前々からいつかきっと読むことになるだろうと思っていた。


【読了】

●木下清一郎『心の起源──生物学からの挑戦』(中公新書:2002.9.25)
 再読。池谷祐二さんの『単純な脳、複雑な「私」』とほぼ同時併行的に読んでいた。読むほどに、この本はいつのまにか私自身の思想(というほど大層なもの ではなく、せいぜい発想)の骨格をかたちづくっていたのだと実感させられた。

●飯尾潤『日本の統治構造──官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書:2007.7.25)
 いまさらと思いながら、それでも一心不乱になって読んだ。法学部系政治学、とでもいうのだろうか、歴史的・制度論的な思考の書物を読むのはずいぶん久し ぶりのこと。とても懐かしく、そして新鮮だった。続けて、佐々木毅著『政治の精神』を読んでいる。

●カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』(小野寺健訳,ハヤカワepi文庫:2001.9.15/1982)
●カズオ・イシグロ『浮世の画家』(飛田茂雄訳,ハヤカワepi文庫:2006.11.30/1986)
 ただただ面白かった。作品のテーマらしきもの(たとえば、終戦後の日本女性の社会的自立やなにやかし)とは一切かかわりなく、ただただ純粋に小説を愉し むことができた。『遠い山なみの光』の解説(「日本的心性からの解放」)で池澤夏樹氏が書いているように、この人の書く会話は実にうまい。というか、小説 をつくるのがうまい。



  【ブログ】

★7月11日(土):『1Q84』の四項関係のことなど

 『1Q84』(村上春樹)と『ベンヤミンと精神分析──ボードレ−ルからラカンへ』(三原弟平)が同じ発行日付をもっていて、だからというわけではない が、この二つの書物はまるで双子のように一方が一方を照らし出していた。
 前回そこまで書いておきながら、後が続かないままになっている。三原本の再読が思うように進まず(いまだ最終章まで読みきれていない)、そうこうしてい るうち読後の印象が拡散してしまった。[*]
 村上本に関する新聞書評の切抜きが相当たまっている。じっくりと読み込み、自分自身の読前読中読後の印象と比較してみたい。「謎解き」ではなくきっちり と「解析」しておきたい。そう考えていた。
 いずれ時が満ちれば作業に取り組むことになるのではないかと思うが、それもまたしだいに億劫になりはじめている。
 先日、書店で『村上春樹の『1Q84』を読み解く』(データ・ハウス)という本をみつけた。村上春樹研究会編。中身は見ていないが、この速さはすごい。
 どんな人が書いているのかネットで検索していて、『村上春樹『1Q84』をどう読むか』(河出書房新社)という本がまもなく刊行されることを知った。 (もう出ているかもしれない。)
 今を代表する論客が、様々な角度から村上春樹の「1Q84」を照射し作品の謎を紐解く。この惹句にいう「論客」には、加藤典洋、内田樹、安藤礼二といっ た面々が含まれている。これはいちど読んでみたい。(例の作業は、この本を読んでからにするか。)

[*]このままではほんとうに霧散してしまいそうなので、村上本と三原本を読み終えたばかりの時に書いた文章をペーストしておく。

 『1Q84』が4分の3まできたところで、つまり「BOOK2」の第12章、ふかえりが天吾に(お祓いをするために)「こちらに来てわたしをだいて」と 言うところまで読んだちょうどそのとき、にわかに(今となってはとても偶然と思えないのだが)『1Q84』と同じ発行日付をもつ『ベンヤミンと精神分析』 が読みたくなり、以後、二冊の書物を同時併行的に読み進め、同じ日のほぼ同じ時刻に相前後して読み終えた。
 『ベンヤミンと精神分析』の第4章に、フロイトが治療に失敗した女性同性愛にかかわる二つの症例を、ラカンが「奇妙な〈愛〉の理論」をもって読解したセ ミネールW「対象関係」の議論が紹介されている。そこに(第一の症例でいえば、同性愛者の「娘」とその「父」と「弟」、そして娘がつきまとう「高級娼婦」 の)「四項関係」という言葉が出てきて、これが「青豆」と「天吾」と「ふかえり」と「ふかえりの父」の四項関係につながっている。(ただし「天吾─ふかえ り」と「青豆─ふかえりの父」の二つの世界はついに交わることがない。少なくとも「BOOK2」では。)
 しかも、ラカンの「奇妙な〈愛〉の理論」というのが「愛の贈与においては、何かが無償で与えられ、その与えられるものもまた無に他ならず」というのだか ら、これは青豆が天吾に与える愛の贈与のことを言っている。その青豆には同性愛的な関係を封印した親友がいる。そして『ベンヤミンと精神分析』で、ボード レールにおけるレスビアン=ヒーロー仮説が論じられる。等々。
 そんなふうに、強いて関係をみつけようとするといくらでも二つの書物を関連づけることができる。観点によって見えるものが決まる。そういうわけで、村上 春樹をラカン派の精神分析学で解読する(ついでに、最近関心が高まっているルーマンの社会システム論でもって解読する)という、くだらないといえばくだら ないことを考えている。

★7月12日(日):日本近代文学と数学、横光利一『旅愁』のことなど

 村上春樹の『1Q84』で興味を覚えたことの一つに、偶数章の主人公・天吾は予備校の数学講師で幼少の頃は数学の神童だった、という設定がある。
 村上文学は生物学、生命科学と相性がいい。なんとなくそう感じていた。(初期の「鼠三部作」の主人公はたしか大学で生物学を専攻していた。)
 だから、村上春樹と数学の取り合わせは新鮮だった。(ただし、そこでの「数学」は、数学には答えがあるが物語にはないといった、「物語」との対比のため だけに出てくる程度で、作品世界の奥深いところに内在的につながっている印象は希薄だった。)
 まだ読んでいないけれど、小島寛之著『数学で考える』(青土社)に「暗闇の幾何学―数学で読む村上春樹」の章がある。いったいどういうことが書かれてい るのかとても興味がある。

 そもそも数学と文学の組み合わせ自体が興味深い。そういう視点で日本近代文学を考えてみるときっと面白いに違いない。
 といっても、夏目漱石の「坊ちゃん」が数学教師で、立原正秋の小説の主人公がフェルマー予想の証明を趣味にしているとか、あるいは、その漱石が坊ちゃん よりも数学が得意で、立原正秋は小説を書くのにいきづまったら『解析概論』を読んでいた、等々の(片野善一郎著『数学を愛した作家たち』にでてくるよう な)エピソードに興味があるわけではない。
 数学の概念と小説の観念とががっぷり四つに組んだ、そのような作品の系譜がありうるのではないかと思うのだ。[*]
(たとえば小川洋子著『博士の愛した数式』はその系譜につらなるのではないか、つまり単に数学者が登場するだけの作品ではないのではないかと思うが、あま り自信がない。それに「坊ちゃん」だって、立原正秋の作品だって、『1Q84』だって、単に数学者や数学愛好家や数学講師が出てくるだけの作品ではないの かもしれない。)
 これはまだ思いつきの域を出ないが、『光の曼荼羅──日本文学論』(安藤礼二)に取り上げられた作家たち(埴谷雄高、稲垣足穂、武田泰淳、江戸川乱歩、 南方熊楠、中井英夫、折口信夫)の多くは、その系譜に入るのではないかと思う。
 その安藤氏が取り上げていない作家、作品のうちで、もっとも興味深いのは、横光利一の『旅愁』[http: //www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2246_20011.html]と『微笑』[http: //www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2149_11036.html]である。
 といっても、これらの作品も未読なのであまりエラそうなことは言えない。直観的にそう思っただけの話で、実証はこれから。
 青木純一氏のブログ「ハトポッポ批評通信」[http://blogs.dion.ne.jp/hatopoppo_critic/]の「横光利一」の 項など眺めながら、関心が続くかぎり、おいおい取り組んでいこう。(そうそう、「日本近代文学と数学」を考えるのなら、横光利一の弟子・森敦のことを忘れ てはいけない。)

[*]数学知と文学知の関係はとても妖しい。そこに哲学知や宗教知(や精神分析知や芸術知や技術知や科学知)などがからんでくるともっと妖しい。数学知と 哲学知の関係については、『現代哲学の名著──20世紀の20冊』の序文の扉に記されていたカントの言葉が印象深い。
「さて、すべての理性認識は、概念による認識であるか、概念の構成による認識であるかの、いずれかである。前者は哲学的と呼ばれ、後者は数学的と呼ばれ る。[略]それゆえにひとは、いっさいの(ア・プリオリな)理性の学のうちで、数学だけは学ぶことができるけれども、(それが歴史的なものでないかぎり) 哲学についてはけっして学ぶことはできない。理性にかんしてはせいぜい、哲学するのを学ぶことができるだけなのである。」(カント『純粋理性批判』第二版 八六五頁)
 この論法を拡張して、つまり「概念による認識=数学知」と「概念の構成による認識=哲学知」の二対に、「観念による認識・実践=宗教知」と「観念の構成 による認識・実践=文学知」の二組を重ね合わせて、たとえば「日本近代文学における数学」などといった議論を展開することができるのではないか。そんなこ とを考え始めると眠れなくなる。