不連続な読書日記(2009.6)



【書評】

●高田明典『難解な本を読む技術』(光文社新書:2009.5.20)

《なぜ難解な本を読むのか》

 なぜ難解な本を読むのか。「そこに難解な本があるから」というのは、それはそれで一つの答えになる。
 私の場合、未読の哲学系難解本が書棚に山のように「寝かせ」られていて、それらの書物が一斉に「いつ読んでくれるのか」と日々恨めしげに背表紙で訴えか けてくるものだから、鬱陶しくてしかたがない。
 かといって「書庫」に移動し安楽死させようと企んでも、なにしろ敵は不死性をもった言葉で武装しているのだからそうはいかない。
 読まないで読んだことにできる方法はないものか。常々そう思っていたら、この本に「読書の技術の真骨頂は「読まない」ことにあります」と書いてあった。
 それは、第5章「さらに高度な本読み」に出てくる。「読まない読書」(手にとり眺める読書)の技術マニュアルも示されている。
 まず、目次をしっかり見る。目次の章題・小見出しから(自分にとって)重要な項目を探し出し、その部分をざっと読む。その部分が(自分にとって)意義が ある場合、少し周辺を読む。意義がなければ、すぐにやめる。適当にパラパラめくり、指のとまったところを(運にまかせて)読む。以上。
 なんだ、結局のところ(少しは)読まないといけないんじゃないか。でも、それは「生涯の一冊」にめぐりあうための婚活のようなものだと思えばいい。
 それに、この訓練を意識してしっかり積んでいけば、いずれ本の背表紙を眺めるだけで「この本は自分にとって意義がある(ない)」と直感的に分かるように なるのではないかと思う。
 これに続いて「包括読み」の技術が紹介される。
 関心があるテーマを中心に書籍を渉猟する。ただし、読書ノートはとらずに読み捨てる。(実は、この「読書ノート」のとりかたが本書の話題の中心をなす。 それは第3章(通読)、第4章(詳細読み)で詳細に述べられる。)
 ここで肝心なのは、できるだけ多くの書籍を手にとり、目にすること。そのためにこそ「読まない」技術が必要になる。
 そして、(読書ノートをとらないかわりに)文献リストを作成する。文献リストは多ければいいというものではない。少なくとも一度は通読するつもりの本に 限定する。
 そうして、特定のテーマに関する「地図」をつくっていく。(この「地図をつくる」こと、おおまかな全体像を把握することが、難解本を読むためにかかせな い準備作業となる。)
 最後に、地図(文献リスト)にしたがって系統的に読み進めていく。
 この本が素晴らしいのは、こうした方法論、マニュアルをただ示すだけでなく、実際にやってみせていることだ。「読書ノートの記入例」と「代表的難解本ガ イド」の二つの付録がそれで、「付録」といいながらほぼ半分くらいの分量があてられている。
 とくにデリダ、スピノザ、ウィトゲンシュタイン、ソシュール、フロイト、フーコー、ラカン、ドゥルーズ、ナンシー、ジジェクの十人の難解本を紹介したガ イドが素晴らしい。ラカンの『エクリ』の解説など、それだけで単独の「ラカン入門」になっている。
 本書を読んで、少し気が楽になり、かなり勇気がわいてきた。そして、(高田氏がラカンについてやってみせたようなかたちで)自分なりの「基本文献リス ト」を作成しようと思い立った。(そこでまず、無印良品で新製品のA4版ノート4冊とボールペン3色を買った。形より入れ。) 
 それにしても、なぜ、そこまでして難解な本を読まなければならないのか。
 「わかりやすさ」ばかりが称揚される時代、あるいは「わかったつもり」が横行する世の風潮に流されないため、「わからなさの感覚」をしっかりと身につけ ることが大切だ。「圧倒的な感動と驚愕の結論」を手にすることができるなら、莫大な時間と労力を費やす価値はあるというものだ。
 その他、気の利いた言い方を本書からいくつか拾うことはできるだろう。でもやっぱり、「そこに難解な本があるから」という答えが一番しっくりくる。
(「わからなさの感覚」はレヴィナスの著書をめぐる記述に出てくる言葉。「圧倒的な感動」云々はスピノザの『エチカ』について使われた言葉。本書から拾っ たのはそれらの言葉だけで、先に書いたような「なぜ難解な本を読むのか」という文脈で使われたものではない。だから、先の言い方が「気が利いている」かど うかの責は、書評者が負う。)


【購入】


●高田明典『難解な本を読む技術』(光文社新書:2009.5.20)【¥820】
 『現代哲学の名著』を読んでいるうち、ここに掲げられている20冊の書物(そのうち10冊は手元にあり、うち4冊はいちおう通読したことがある)と、部 屋の書棚に陳列したままの哲学本数十冊を、系統的に、いや系統的ではなくても「包括的」に、ざっと目を通して自分なりの「文献リスト」のようなものをこし らえたいと思うようになった。そのリストをもとに「読書ノート」をとりながら読み込んでいって、いずれ哲学的概念の標本箱のようなものをこしらえてみたく なった。

●池谷祐二『単純な脳、複雑な「私」──または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義』(朝日出版社:2009.5.15)【1700】
 『1Q84 BOOK1』の490頁に、天吾が自分の脳について考える場面が出てくる。「人間の脳はこの二百五十万年のあいだに、大きさが約四倍に増加 した。…脳という器官のそのような飛躍的な拡大によって、人間が獲得できたのは、時間と空間と可能性の観念である。」この「時間と空間と可能性の観念」が 生み出すものが歴史であり、フェイクの記憶であり、小説であり、記憶を書き換える暴力である。端的にいって「言語」である。そして、「私」もまた「言語」 によってつくりだされる。というわけで、心と脳の関係をめぐる問題への(いまや習い性になった)関心が再び高まってきた。(と同時に、数学への古くからの 関心が高まってきた。天吾は予備校の数学講師で、子供の頃は数学の神童と呼ばれた。)

●三原弟平『ベンヤミンと精神分析──ボードレ−ルからラカンへ』(水声社:2009.5.30)【¥2500】
 細見和之著『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』に接して以来、ながらく沈静化していたベンヤミン菌が強毒性をもって再発した。最 近、パース(チャールズ・サンダース・パース,1839年9月10日〜1914年4月19日)とベンヤミン(ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリー ス・ベンヤミン,1892年7月15日〜1940年9月26日)とラカン(ジャック=マリー=エミール・ラカン,1901年4月13日〜1981年9月9 日)をつなぐ三題噺のようなことを考えている。そのベンヤミンとラカンが、ボードレールを媒介にしてつながる。テーマは「いま、強制収用所的日常を生きて いるわれわれにとって、男女の性関係は可能なのか、恋は可能なのか」というもの。しかも冒頭、いきなりフロイトの『快感原則の彼岸』とベルクソンの『物質 と記憶』が揃い踏みで顔を出す。これを読まずして何を読むのか。というわけで久しぶりに午後から勤務先を休み、運転免許の更新を終え、ただちに書店に直行 して本書を入手し、珈琲片手にしばらく読み耽る。全5章構成の最初の2章に目を通す。この時間が一番愉しい。生きている実感に包まれる。

●小池清治『現代日本語文法入門』(ちくま学芸文庫:1997.6.10)【¥1100】
 昼間の数時間、できれば5時間くらい、何も予定がいっていない時間、何をしてもいい空白の時間ができると、懐具合に応じて大型書店か図書館に足を運ぶ。 懐具合云々は、投資可能な元手が潤沢なときは書店、そうでもないときは図書館に赴くということ。いずれにせよ大量の書籍が分類され陳列された場所で数時間 を過ごす。(古書店はたいがい分類がいい加減なので、決まった本を探すときに立ち寄る。)そのとき哲学系とか雑誌系といったテーマを決めておく。そうしな いと時間はいたずらに散漫に過ぎ去ってしまう。1時間か2時間くらいを限度に、購入本もしくは借出本を決める。その後、一杯の珈琲でとことんねばり、買い 求めたか貸し出しを受けた数冊の書物を手に取って心ゆくまで眺める。ところどころ拾い読みをする。これが一番幸せな時間の過ごし方で、うまくいくと生きて いる実感さえ覚える。(現に、『ベンヤミンと精神分析』の場合がそうだった。)
 某日、美術館で催された地唄と朗読と日本舞踊のパフォーマンス(いずれも『源氏物語』の葵と六条御息所がテーマ)を観た帰り、3時間ほどの空白の時間が 生まれたので三宮駅前のジュンク堂に立ち寄り、「ちくま学芸文庫と中公新書」をテーマに棚に並んだ書物の背表紙を一冊ずつ凝視し、気になったものは手に取 りカバーに印刷された謳い文句を吟味し、ものによっては目次や前書き、後書き、解説の類を盗み読みする。そうして最終的に購入を決めたのがこの本。以前同 じ著者、同じ文庫の『日本語はいかにつくられたか?』を読んで感銘を受けたのと、いつか日本語文法についてきちんと勉強しておきたいとかねがね思ってい た。一頃囓りかけてそのままになっている田中茂範著『文法がわかれば英語はわかる!』(NHK出版)と併せて、毎日一項ずつ「勉強」することに決めた。

●木下清一郎『心の起源──生物学からの挑戦』(中公新書:2002.9.25)【¥740】
 『現代日本語文法入門』と同時に購入。そもそもこんな本が出ていることさえ知らなかった。ちくま学芸文庫の「調査」に時間をかけすぎたので、おざなりに 中公新書の背表紙を眺めていたとき、突然向こうから訴えかけてきた。こういう直感はたいがい当たる。30分程度しか時間がとれなかった喫茶店での「査読」 の結果、とくに巻末に付された詳細な「人名ノート」の出来が素晴らしかったのでこれはやはり正解だったと確信。たとえばユクスキュルの項に、彼の思想(環 境世界=“Umwelt”)が世に知られるようになったのは一般向けに書かれた『動物と人間の環境世界への散歩』(邦訳『生物から見た世界』)の出版に よってであることを知ると、「啓蒙書というものの意義を見直したくなる」などと(自己言及的なことが)書かれていて、著者の並々ならぬ自負が読み取れる。
 後記。上に「こんな本が出ていることさえ知らなかった」と書いた。しかし、それはとんでもない「誤解」であったことが後に判明した。本書を読み進めてい くうち、分量でいえばちょうど半ばを過ぎたあたりで、これはとてつもない名著だ、世の人はこの本をどのように評しているのか、とアマゾンとbk1の読者レ ビューを検索してみた。するとなんとそこ(bk1)に「躍動・戦慄・感動」というタイトルの書評を投稿していた! それも本書が刊行されて間もない時期 に。7年前に読んで戦慄や感動まで覚えた本のことをまるで覚えていない。これはいったいどういうことなのか。良く言えば、この本に書かれたことは既に血肉 化してもはや思い出せないところにまで達していたということだ。悪く言えば(悪いにきまっているが)、いかに杜撰で迂闊な読書経験しか積み重ねていないか ということだ。それとも、今こそこの本を玩味すべき時期が到来していたということかもしれない。

●谷川渥『美学の逆説』(ちくま学芸文庫:2003.12.10/1993)【¥1500】
 兵庫県立美術館「芸術の館」の催しを観たあと書店に立ち寄り、ちくま学芸文庫の『現代日本語文法入門』を購入本に決めたとき、最終候補に残った本の一つ が『美学の逆説』だった。手に取りぱらぱらと頁を繰ったとき、「以上のように、パースの「美学」は、「美的なるものの論理学」として、事実上イコン論とし ての展開可能性を示すものであった。」(170頁)という文章が目にとまり、目次に目を移すと、その文章を末尾にもつ「記号論としての美学──パースにお けるイコン論の成立と展開」に続き「直観と表現──ベルクソン美学の構造」とあるのが目にとまり、最後まで購入するかどうか心が揺れた。書棚の隣に同じ著 者による『鏡と皮膚』が並んでいて、かつてこの本を読んだときの濃密かつ豊穣な読後感がまざまざと蘇ってきた。その二日後、同じ美術館で「躍動する魂のき らめき──日本の表現主義」展の開会式に参加する機会があって、その帰り唐突に「あの本を買いたい」(「読みたい」より先に「買いたい」)という欲望がつ のった。

●フィリップ・ヒル『ラカン』(新宮一成・村田智子訳,ちくま学芸文庫:2007.2.10)【¥1000】
 実は、『美学の逆説』とともにもう一冊最終候補に残ったのがこの本。結局、買った。三原弟平著『ベンヤミンと精神分析──ボードレ−ルからラカンへ』の 再読が遅々として進まず、それというのもラカンの思考をめぐる叙述がまるで頭に入らないからだ。ラカンの思考というよりラカンが使った語彙が頭に定着しな い。で、なんでもいいからビギナー向けの判りやすい本でしっかり勉強しておきたくなった。

●カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』(小野寺健訳,ハヤカワepi文庫:2001.9.15/1982)【¥700】
 村上春樹の『1Q84』が終盤にさしかかったとき、これを読み終えたら次は「小説らしい小説」を読みたいと思った。なにが「小説らしい小説」なのか自分 でもよく判らないが、それに『1Q84』が面白くなかったわけでは決してないけれども、とにかくそう思っていたら、ちょうどカズオ・イシグロ初の短編集 『夜想曲集──音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』が早川書房から刊行され、装丁にも惹かれたので「よし、次はこれを読もう」と決めていた。そこにいつもの 悪いくせが顔を出してきて、そうえいばカズオ・イシグロの作品はまだ一冊も読んだことがなかった、村上春樹と並んでノーベル文学賞候補とされるカズオ・イ シグロの作品をこの際、最初から読んでみよう、などと飛躍して、仕事帰りにしばしば立ち寄る小さな書店でどういうわけかカズオ・イシグロの作品が全冊揃っ ていたので、これも幸いした。少しだけ読んだら、小津安二郎の映画か川端康成の『山の音』を思わせる叙述が続き、「ああ、これこそ小説らしい小説だ」と 思った。


【読了】

●熊野純彦編『現代哲学の名著──20世紀の20冊』(中公新書:2009.5.25)
●高田明典『難解な本を読む技術』(光文社新書:2009.5.20)
 この頃、新書哲学系の啓蒙書を読まなく(買わなく)なった。昔のようにサクサクと読み飛ばすことができなくなり、読んでも必ず停滞するからだ。再読への 内圧が高まり、結局、ツン読と同じことになってしまう。『現代哲学の名著』は、熊野氏単独の著書と勘違いしていた。そうではないと知って少したじろいだ が、それでも毎日少しずつ齧っているうち、いい感じで読み終えることができた。(いきおいで、つまみ読みのまま放置していた岩波新書の『西洋哲学史』二冊 を読破したかったが、ウィンドウショッピングのような読書はけっこう疲れるので、他日を期すことにした。)
 ドゥルーズの『差異と反復』と坂部恵の『仮面の解釈学』にはさまれたルーマンの『社会システム』に興味がわいたのが収穫。さっそく、参考文献に掲げられ ているクニール/ナセヒの『ルーマン──社会システム理論』を「書庫」から探し出してきた。『難解な本を読む技術』の教えに従って、読書ノートをつくりな がらルーマンを読んでみよう。そう思って図書館に『社会システム理論』上下を借りに出かけ、『難解』で見事に解読されていた「《盗まれた手紙》についての ゼミナール」が載ったラカンの『エクリT』を借りて、ルーマン本は軽い『宗教論──現代社会における宗教の可能性 』にした。(日曜社会学のルーマン既邦訳ブックガイドには「買ってはいけません」とある。買わないのだからいいか。)

●村上春樹『1Q84 BOOK1〈4月─6月〉』(新潮社:2009.5.30)
●村上春樹『1Q84 BOOK2〈7月─9月〉』(新潮社:2009.5.30)
●三原弟平『ベンヤミンと精神分析──ボードレ−ルからラカンへ』(水声社:2009.5.30)
 『1Q84』が4分の3まできたところで、つまり「BOOK2」の第12章、ふかえりが天吾に(お祓いをするために)「こちらに来てわたしをだいて」と 言うところまで読んだちょうどそのとき、にわかに(今となってはとても偶然と思えないのだが)『1Q84』と同じ発行日付をもつ『ベンヤミンと精神分析』 が読みたくなり、以後、二冊の書物を同時併行的に読み進め、同じ日のほぼ同じ時刻に相前後して読み終えた。
 『ベンヤミンと精神分析』の第4章に、フロイトが治療に失敗した女性同性愛にかかわる二つの症例を、ラカンが「奇妙な〈愛〉の理論」をもって読解したセ ミネールW「対象関係」の議論が紹介されている。そこに(第一の症例でいえば、同性愛者の「娘」とその「父」と「弟」、そして娘がつきまとう「高級娼婦」 の)「四項関係」という言葉が出てきて、これが「青豆」と「天吾」と「ふかえり」と「ふかえりの父」の四項関係につながっている。(ただし「天後─ふかえ り」と「青豆─ふかえりの父」の二つの世界はついに交わることがない。少なくとも「BOOK2」では。)
 しかも、ラカンの「奇妙な〈愛〉の理論」というのが「愛の贈与においては、何かが無償で与えられ、その与えられるものもまた無に他ならず」というのだか ら、これは青豆が天吾に与える愛の贈与のことを言っている。その青豆には同性愛的な関係を封印した親友がいる。そして『ベンヤミンと精神分析』で、ボード レールにおけるレスビアン=ヒーロー仮説が論じられる。等々。
 そんなふうに、強いて関係をみつけようとするといくらでも二つの書物を関連づけることができる。観点によって見えるものが決まる。そういうわけで、村上 春樹をラカン派の精神分析学で解読する(ついでに、最近関心が高まっているルーマンの社会システム論でもって解読する)という、くだらないといえばくだら ないことを考えている。

●吉田泰巳『花かぶきの美学』(淡交社:2009.6.17)
 出版記念パーティに参加したその前日、ざっと目を通すつもりで読み始め、思わず引き込まれていった。「天宇受売命[あめのうずめのみこと]は、植物で自 らを飾り立てその植物が呪術的な働きをしたと私は考えています。神を呼び、或いは神がかりになって、神と交信するための植物をつけた天宇受売命が巫女とし て皆の思いを天照大神に伝える依代の役割をしています。私はこの神話にいけばなの始まりを思うのです。依代であった天宇受売命がいけばなそのものなので す。」(51頁)依代(よりしろ)と神籬(ひもろぎ)、そして(花を)「立てる」ということ。


  【ブログ】

★6月13日(土):ニクラス・ルーマン

 冬弓舎のサイト[http://thought.ne.jp/]から、酒井泰斗さんの日曜社会学のページ[http://socio- logic.jp/]へ飛んだ。どちらも久しぶりのアクセス。(その昔、酒井さんが主催するルーマンフォーラムというメーリングリストに参加していたこと があった。脱会した覚えはないのに、たぶんメールアドレスを変えたときに手続きを忘れたかなにかで、いつのまにか仲間はずれになっていた。)
 その日曜社会学の文献リストを眺めていて、永井俊哉ドットコム[http://nagaitosiya.com/]にいきあたった。この人がプレスプラ ン[http://www.pressplan.jp/]に連載していた「性書」(ぜんぜん知らなかった)が、『ファリック・マザー幻想──学校では決し て教えない永井俊哉の《性の哲学》』として刊行されている。書店で見かけて以来、気になってしかたがなかったので、図書館で借りて(長らく貸出中でなかな か入手できなかった)ざっと目を通してみると、これがけっこう面白い。とくにルーマンをとりあげたところが興味深くて、にわかにルーマンのことが気になり だした。
 こういうことは続くもので、この前、熊野純彦編『現代哲学の名著──20世紀の20冊』で、ドゥルーズの『差異と反復』と坂部恵の『仮面の解釈学』には さまれたルーマンの『社会システム』の紹介を読んでいて、これにまたけっこう刺激を受けた。(ルーマンがとりあげられているのは5章構成のちょうど真ん 中、「時間・反復・差異」の章で、最初がベルクソンの『時間と自由』、以下ドゥルーズ、ルーマン、坂部と続く。)
 で、さっそく、「書庫」に仕舞いこんでいたクニール/ナセヒの『ルーマン──社会システム理論』をひっぱりだしてきた。(この本は、くだんのルーマン MLで必読書とされていたもの。実はぜんぜん読まずに参加していた。)この本でざっと「地図」をつくった上で、素直に感銘を受けた『難解な本を読む技術』 (高田明典著)の教えにしたがい、読書ノートを綴りながら、『社会システム理論』か『情熱としての愛―親密さのコード化』に挑戦してみたい(できれば)。

★6月16日(火):世界観にはそれを取り消すべき方法が組みこまれていなければならない

 ニクラス・ルーマンを読みたくなった。
 きっかけは、(前回書いたように)、『現代哲学の名著』に収められた文章(執筆者:佐々木慎吾)を読んだことにある。
 そこで印象に残ったことの一つは、ルーマンの社会システム論が、生命システムに対して案出された「オートポイエーシス(自己創出)」の概念を導入した 「自己言及的なシステムの理論」であると書かれていたこと。
 以下、該当部分を抜き書きする。

《そもそも「オートポイエーシス」概念は、チリの神経生理学者H・R・マトゥラーナとF・J・ヴァレーラによる、「構成要素を自らのはたらきを通じて産出 し、その産出過程と諸要素の相互作用を環境から区別された統一体として構成する」という生命の一般的な定式化のために提案されたものだ。(略)
 だがここで強調すべきは、ルーマンの意図が、生命システムに対して案出されたオートポイエーシス理論をそのまま社会に当て嵌める……といったものではな いということだ。ルーマンの狙いはむしろ、オートポイエーシスを自己言及的なシステムの理論として一般化し、それを再び社会という特定のシステムに適用す ることであった。「オートポイエーシス的システムの理論は生きているシステムにのみ当て嵌まるという限定を放棄し、心理的および社会的システムにまで適用 されるように拡張されなくてはならない」(八八○頁)。それは自ら環境との差異を構成するシステムであり、それゆえ根底にあるのはシステム/環境の差異で ある。》(142-143頁)

 ここを読んでいて、とても懐かしくなった。
 80年代の香り(ニューアカやポストモダンや記号論や差異性や嘘つきのクレタ人が飛び交っていた、あの80年代の香り)が、体感とともに蘇ってきたの だ。
 プラザ合意の翌年から二年間、私は勤め先を休職して、某大学院で経営組織論を勉強していた。
 どういう機会だったか覚えていないが、教授陣がずらっと並んだ席で、「自己組織化の理論に興味をもっている」と口にした記憶がある。
 ある教授から、「あれは難しくてよく解らないね」といった趣旨の発言があった。
 そのとき、私は、(どうせ、朝日出版社刊・中野幹隆編集の『エピステーメー』の特集号で二、三の論文を読み囓った程度の、また『現代思想』やなにかでウ ンベルト・マトゥラーナやフランシスコ・ヴァレラのことを通りすがりに聞き囓ったくらいの底の浅い知識でもって)、それほどでもない、と心の中で思ってい た。(もしかしたら、そう口にしたかもしれない。)
 後になってわかったことだが、その教授は工学部から経済学部に移ってきた数理統計学の専門家で、私は、その多変量解析の授業を受けてまるで歯がたたな かった。
 その程度の数学の素養で、自己組織化をテーマに何か論文が書けると根拠もなく思いこんでいたのだ。
 結局、私は、ハーバード・サイモンのシステム論をほんの少し読み、C・I・バーナードの『経営者の役割』を(原書はさわりだけ、大半は翻訳書で)それな りに読みこんで、修論をしあげた。
 そこに書いたことを(うろ覚えながら)箇条書きにすると次のようになる。

1.協働組織というシステムを稼働させるのは、命題と命題を接続する(推論する)集合的で反復的な言語過程である。
2.それはあたかも「司法過程」のように、個別事例にルールを適用すること、個別事例に即してルールを解釈(改変)すること、個別事例から新しいルールを 導き出すこと、そもそも何がルールであるかを確定する(製作する)こと、等々が複合した自己言及的な過程である。
3.組織における「経営者機能」(個別の経営「者」が果たすべき機能のことではない)とは、そのような「司法過程」を不断に継続させることである。「世界 観にはその世界観自体を取り消すべき方法が組みこまれていなければならない」のだとしたら、「経営者」とは組織に組みこまれた「その(組織の)世界観自体 を取り消すべき方法」を具現化した装置である。

 最後の「世界観にはその世界観自体を取り消すべき方法が組みこまれていなければならない」は、『知恵の樹』の訳者あとがきに紹介されているマトゥラーナ /ヴァレラの発言である(ちくま学芸文庫『知恵の樹』317頁)。
 そういえば、この訳本が文字の多い大型の絵本のようなかたちで朝日出版社から刊行された年に、私は修論の仕上げの作業に没頭していたのだった。

★6月18日(木):人間やその意識は社会の要素ではない

 佐々木慎吾氏の「ルーマン『社会システム』」という文章(『現代哲学の名著』)を読んで、もう一つ印象に残ったのは、ルーマンがいう社会システムの構成 要素は「コミュニケーション」で、「行為」や「人間」や「意識」ではないと書かれていたことだ。

《では、そうしたオートポイエーシス的社会システムの要素とは何か? これまで伝統的に考えられてきた「行為」ではなく、また「人間」でもなく、「コミュ ニケーション」である、とルーマンは考える。コミュニケーションがコミュニケーションを産出し、意味加工の回帰的に閉じたネットワークを実現する。その意 味で、コミュニケートできるのはただコミュニケーションだけであると言える。それゆえ──人間はコミュニケーションではないのだから──人間はコミュニ ケートできないのである!(略)
 伝統的には、自己言及的な意味の産出は意識的主体の専管事項だと看做されており、さらにはそのような主体がすなわち世界の主体であると宣言されてきた。 (略)
 しかしながら、こうした意識のオートポイエーシス的な操作、すなわち有意味な表象の産出が、社会的な意味を直接生み出すのではない。コミュニケーション は複数の「意識の流れ」を癒合させ、一つの流れに統合するような過程ではなく、むしろ決して消去することのできない我彼の差異を拠り所として進行する。 (略)
「人間」やその意識は、社会の要素ではない。それは社会システムの「環境」に属しており、また逆に社会は意識にとっての必須の環境である。》(143- 144頁)

 ここに書かれていることと、前回引いた文章の中で紹介されていたルーマンの言葉、「オートポイエーシス的システムの理論は生きているシステムにのみ当て 嵌まるという限定を放棄し、心理的および社会的システムにまで適用されるように拡張されなくてはならない」、とを組み合わせると、次のようになる。

○生命のシステム、社会のシステム、意識(心理)のシステムという、「自己言及的な意味の産出」を担う三つの「オートポイエーシス的システム」がある。
○このうち、社会システムと意識システムとは、互いに互いの「環境」である。

 このようにまとめみると、いくつかの疑問がわいてくる。
 たとえば、拡張され、一般化された自己言及的なオートポイエーシス的システムの概念が適用される特定のシステムは、生命・社会・意識の三つに限定される のか。たとえば、言語システムは? また、物質システムは?
 そして、生命と社会、生命と意識は、互いに互いの「環境」であるとはいえないのか。(そこに言語や物質が入ってくると、関係はもっと複雑になる。)

★6月19日(金):ルーマンとラカン─壊滅的かつ超絶的に難解

 ルーマンがいうオートポイエーシス的社会システムの要素は「コミュニケーション」であって、「行為」や「人間」や「意識」ではない。
 このことをめぐって、もう少し書いておきたいことがある。
 高田明典著『難解な本を読む技術』に、ラカンの「《盗まれた手紙》についてのゼミナール」の冒頭の一節を解読したくだりがある。付録2「代表的難解本ガ イド」のラカンの項に出てくるもので、私はこれにすっかり魅了された。
 そして、「ルーマンがいう社会システムの構成要素はコミュニケーションだ」を想起した。
 まず、原典を抜き書きしておく。

《われわれはこれまでの研究によって、反復強迫(Wiederholungszwang)はわれわれが以前に意味表現[シニフィアン]の連鎖の自己主張 (l'insistance)と名づけたもののなかに根拠をおいているのを知りました。この観念そのものは、l'ex-sistance(つまり、中心か ら離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされたわけですが、この場所はまた、フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体 をここに位置づける必要があります。知られるとおり、象徴界(le symbolique)が影響力を行使するこの場所の機能が想像界(l'imaginaire)のどのような経路を通って人間という主体のもっとも奥深い ところでその力を発揮するようになるか、このことは精神分析によってはじめられた実際経験のなかではじめて理解されるのです。
 このゼミナールで強調してみたい点は、じつはいまの想像界の諸影響は、これらをお互いに結びつけたり方向を与えたりする象徴界の連鎖に持ちこまれる点は さておいて、それらが何らわれわれの経験の本質的な面を表現せずに単にその移ろいやすい部分を伝えるにすぎないという点です。》(『エクリT』11頁)

 この文章をいきなり読んでも、何が何やらさっぱり解らなかっただろう。
 高田氏がときおり使う語彙でいえば「壊滅的に難解」。内田樹氏が(『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』の第1章3節で、ラカンの「分かりにくさ」 の実例として「名刺代わり」に引用した箇所で)使った言葉でいえば「超絶的に難解」。
 高田前掲書は、これを次のように解説する(223-232頁)。

第1のセンテンス
 反復強迫とは、「それが辛い記憶や経験であるにもかかわらず、その不幸を繰り返し再現する」という現象である。
 フロイトは「快感原則の彼岸」で反復強迫の概念の重要性を指摘し、かつ問題視した。なぜなら、それは「生命体は、快を求め、苦を遠ざける」という快感原 則に反するから。
 フロイトは、反復強迫の原因を「自我欲動」に求めた。
 フロイトがいう自我とは、「ロゴス=記号=言葉」である。つまり、反復強迫は「記号表現の連鎖」が自ら欲動する(自己主張する)ことによって発生する。

第2のセンテンス
 「l'in-sistance」(内発)と「l'ex-sistance」(外発)が「対をなす概念」となっていることに注意。
 まず、反復強迫は自己の内部で発生する「自我欲動」の発現である(内発)。
 その自我欲動は「記号・言語」によって駆動されている。しかし、「記号・言語」は私たちが「外部」から取り入れた(学習した)ものでしかない。
 この「記号・言語=中心から離れた場所」(外発)に無意識の主体が位置づけられる。すなわち、「無意識」は「外部=言語」に存在している。自己の内部に 存在しているわけではない。

第3のセンテンス
 想像界とは、私たちが「言語を用いて何かを感じ、何かを思考する世界」のことである。「l'in-sistance」であり「内発」であり「自我衝動」 である。
 象徴界とは、「言語の世界」である。「l'ex-sistance」であり「外発」であり「言語」である。それは私たちの「外部」から、私たちに「記号 表現の連鎖」や「記号表現の秩序」を打ち込んでくるもののことを指す。
 ラカンが言っているのは、「言語の体系の中に、無意識の主体が位置づけられる必要がある」ということである。
 さらに、「言語体系は、無意識に対して影響力を行使するが、そのとき、言語体系がどのようにして私たちの思考や感情に入り込んで実際の言動として発露さ れるのかという仕組みに関しては、精神分析の実際経験を通して理解される」ということである。

第4のセンテンス
 想像界の諸影響は、われわれの経験の本質的な面を表現しない。
 想像界の諸影響は、われわれの経験の移ろいやすい部分を伝えるにすぎない。
 想像界の諸影響は、象徴界の連鎖に持ち込まれる。
 想像界の諸影響は、象徴界の連鎖において、お互いに結び付けられたり方向を与えられたりする。

 私はこの読解にすっかり魅了され、そして「オートポイエーシス的社会システムの要素はコミュニケーションであって、行為や人間や意識ではない」を想起し たのだった。
 そこには、つまりフロイト=ラカンの議論とルーマンの議論とのあいだには、何か深い関係があるに違いないと思った。
 それに、高田氏のように、ルーマンの著書を(自分なりに)解読してみたいと思った。

★6月20日(土):なぜ難解な本を読むのか

 なぜ難解な本を読むのか。「そこに難解な本があるから」というのは、それはそれで一つの答えになる。
 私の場合、未読の哲学系難解本が書棚に山のように「寝かせ」られていて、それらの書物が一斉に「いつ読んでくれるのか」と日々恨めしげに背表紙で訴えか けてくるものだから、鬱陶しくてしかたがない。
 かといって「書庫」に移動し安楽死させようと企んでも、なにしろ敵は不死性をもった言葉で武装しているのだからそうはいかない。
 読まないで読んだことにできる方法はないものか。常々そう思っていたら、高田明典著『難解な本を読む技術』(光文社新書)に、「読書の技術の真骨頂は 「読まない」ことにあります」と書いてあった。
 それは、第5章「さらに高度な本読み」に出てくる。「読まない読書」(手にとり眺める読書)の技術マニュアルも示されている。
 まず、目次をしっかり見る。目次の章題・小見出しから(自分にとって)重要な項目を探し出し、その部分をざっと読む。その部分が(自分にとって)意義が ある場合、少し周辺を読む。意義がなければ、すぐにやめる。適当にパラパラめくり、指のとまったところを(運にまかせて)読む。以上。
 なんだ、結局のところ(少しは)読まないといけないんじゃないか。でも、それは「生涯の一冊」にめぐりあうための婚活のようなものだと思えばいい。
 それに、この訓練を意識してしっかり積んでいけば、いずれ本の背表紙を眺めるだけで「この本は自分にとって意義がある(ない)」と直感的に分かるように なるのではないかと思う。
 これに続いて「包括読み」の技術が紹介される。
 関心があるテーマを中心に書籍を渉猟する。ただし、読書ノートはとらずに読み捨てる。(実は、この「読書ノート」のとりかたが本書の話題の中心をなす。 それは第3章(通読)、第4章(詳細読み)で詳細に述べられる。)
 ここで肝心なのは、できるだけ多くの書籍を手にとり、目にすること。そのためにこそ「読まない」技術が必要になる。
 そして、(読書ノートをとらないかわりに)文献リストを作成する。文献リストは多ければいいというものではない。少なくとも一度は通読するつもりの本に 限定する。
 そうして、特定のテーマに関する「地図」をつくっていく。(この「地図をつくる」こと、おおまかな全体像を把握することが、難解本を読むためにかかせな い準備作業となる。)
 最後に、地図(文献リスト)にしたがって系統的に読み進めていく。
 この本が素晴らしいのは、こうした方法論、マニュアルをただ示すだけでなく、実際にやってみせていることだ。「読書ノートの記入例」と「代表的難解本ガ イド」の二つの付録がそれで、「付録」といいながらほぼ半分くらいの分量があてられている。
 とくにデリダ、スピノザ、ウィトゲンシュタイン、ソシュール、フロイト、フーコー、ラカン、ドゥルーズ、ナンシー、ジジェクの十人の難解本を紹介したガ イドが素晴らしい。ラカンの『エクリ』の解説など、それだけで単独の「ラカン入門」になっている。
 本書を読んで、少し気が楽になり、かなり勇気がわいてきた。そして、(高田氏がラカンについてやってみせたようなかたちで)自分なりの「基本文献リス ト」を作成しようと思い立った。(そこでまず、無印良品で新製品のA4版ノート4冊とボールペン3色を買った。形より入れ。) 
 それにしても、なぜ、そこまでして難解な本を読まなければならないのか。
 「わかりやすさ」ばかりが称揚される時代、あるいは「わかったつもり」が横行する世の風潮に流されないため、「わからなさの感覚」をしっかりと身につけ ることが大切だ。「圧倒的な感動と驚愕の結論」を手にすることができるなら、莫大な時間と労力を費やす価値はあるというものだ。
 その他、気の利いた言い方を本書からいくつか拾うことはできるだろう。でもやっぱり、「そこに難解な本があるから」という答えが一番しっくりくる。
(「わからなさの感覚」はレヴィナスの著書をめぐる記述に出てくる言葉。「圧倒的な感動」云々はスピノザの『エチカ』について使われた言葉。本書から拾っ たのはそれらの言葉だけで、先に書いたような「なぜ難解な本を読むのか」という文脈で使われたものではない。だから、先の言い方が「気が利いている」かど うかの責は、書評者が負う。)

★6月21日(日):『1Q84』と大長編ドラえもん

 昨日、村上春樹の『1Q84』と三原弟平著『ベンヤミンと精神分析──ボードレ−ルからラカンへ』をほぼ同時に読み終えた。

 『1Q84』は、途中から「これは大長編ドラえもんの世界じゃないか」という思いがつきまとい始め、それはとうとう最後まで離れなかった。
 息子が小さい頃、何度か映画館に足を運び、結構はまった。漫画本もすべて買い揃えた。
 ドラえもんは短篇と長編でまるで違う。短篇は、いくつかのアイデア(ひみつ道具)とシチュエーションとキャラクターのどれか一つを使えばそれで話が一つ 仕上がるが、長編の方はそうはいかない。物語の結構をつけるために、大掛かりな空間と時間の錯綜と確固たる観念(テーマ)が要る。つまり、パラレル・ワー ルドと冒険と友情の物語。
 『1Q84』を読みながら想起したのは「ドラえもん のび太の魔界大冒険」だった。のび太が「もしもボックス」で創りだした魔法の世界(それは地球外惑星にある)が現実の世界に侵入してくる。魔界の地球侵 略。フィクションの世界とリアルな世界とのパラレル・ワールド。
 のび太、ドラえもん、しずか、スネ夫、ジャイアンの5人(4人と1匹)が勇士となって、魔界の王デマオンと戦う。デマオンを倒す唯一の方法は、その心臓 に銀のダーツを撃ち込むことだ。

 『1Q84』には最後まで明かされない謎がいくつかある。(だから何人かの評者が続編の可能性を示唆している。私もその可能性はあると思う。あるとすれ ば、それはおそらく「BOOK4〈1月─3月〉」までの四部作になるのではないか。もちろん「BOOK2」で終わっているのだとしても、それで何の問題も ない。)
 その謎の一つが、天吾が書いている小説の内容である。実はそれこそが、奇数章で進行する青豆の物語なのではないか。私はそう思ったのだ。
 青豆は、首都高速道路の緊急避難用非常階段(どこでもドア)を降りて、「1984年」の世界から「1Q84年」の世界に入っていった。その世界は(フェ イクならぬ)フィクションの世界で、天吾が書いている小説(それは、さとえりが紡ぎ天吾が文章化した「空気さなぎ」に触発された作品で、いずれ 『1Q84』という題名を与えられるはずだ)の中だった。
 そして、偶数章で進行する天吾の世界では、「空気さなぎ」というフィクションが現実世界に侵入し始めていた。その(「空気さなぎ」の)世界を印づけるの が黄色と緑の大小ふたつの月で、その「しるし」は青豆が(天吾によって)引き入れられたフィクションの世界にも出現する。
 「1Q84年」の世界で青豆は死ぬが(本当に死んだのかどうかは、例によって明らかにされない)、偶数章で進行する天吾の現実世界(ただし「空気さな ぎ」というフィクションによって侵食された現実世界)で青豆の分身(たぶん分身ではなく実体)が出現する。
 そのような錯綜したかたちで、『1Q84』のパラレル・ワールドは相互接触する。
 「BOOK2」の第13章で、勇士(=青豆)と大魔王(=さとえりの父にして「さきがけ」の教祖)は、「1984年」と「1Q84年」の関係について語 り合う。青豆が、それは「パラレル・ワールドのようなもの?」と問う。「君はどうやらサイエンス・フィクションを読みすぎているようだ」と男は笑う。

「いや、違う。ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。あちらに1984年があって、こちらに枝分かれした1Q84年があり、それらが並列的に進行して いるというようなことじゃないんだ。1984年はもう‘どこ’にも存在しない。君にとっても、わたしにとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年 のほかには存在しない」
「私たちはその時間性に‘入り込んで’しまった」
「そのとおり。我々はここに入り込んでしまった。あるいは時間性が我々の内側に入り込んでしまった。そしてわたしが理解する限り、ドアは一方にしか開かな い。帰り道はない」
  (中略)
「あなたの言っていることは厳正な事実なのですか、それともただの仮説なのですか?」
「良い質問だ。しかしそのふたつを見分けるのは至難の業だ。ほら、古い唄の文句にあるだろう。Without your love, it's a honkey-tonk parade」、男はメロディーを小さく口ずさんだ。「君の愛がなければ、それはただの安物芝居に過ぎない。この唄は知っているかな?」
「『イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン』」
「そう、1984年も1Q84年も、原理的には同じ成り立ちのものだ。君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎない。ど ちらの世界にあっても、どのような世界にあっても、仮説と事実とを隔てる線はおおかたの場合目には映らない。その線は心の目で見るしかない」
  (中略)
「いずれにせよ、‘何らかの意思’によって私はこの1Q84年の世界に運び込まれた」と青豆は言った。「私自身の意思ではないものによって」
「そのとおりだ。君の乗った列車はポイントを切り替えられたことによって、この世界に運び込まれてきた」

 ここで男が言う「列車」とはDNAの配列のことで、DNA配列の組み替えによって生み出されるのはクローン人間のことだ。そして、クローン人間とは小説 家によって紡ぎ出された物語世界の登場人物のメタファーだ。
 小説家が物語を紡ぎ出すように、思想家は思想を、教祖は教義を紡ぎ出し、それらの観念体系が人を(クローン人間のごときフェイクの記憶をもった)まがい 物にする。(時間性が我々の内側に入り込むように。)観念体系とは「システム」のことであり、その異名が「カルト」である。
 だから、諸悪の根源は小説家であり思想家であり教祖である。もっと根源的には、言語そのものが悪である。
 ただし、そこに愛があれば、世界を信じるという行為があれば、仮説は事実となる。
 ついでに書いておくと、「空気さなぎ」とは(愛なき生殖の媒体となる)空虚な子宮のことで、子宮と月には関係があって、子宮はヒステリー、月は狂気にそ れぞれ関係があって……。
 いや、そういうことを書きたかったわけではない。
 いま引用した箇所で、『1Q84』は『1Q84』それ自体に言及している。
 自己言及的なオートポイエーシス的システムの急所がここに露呈している。
 だから青豆は、(銀のダーツならぬ)アイスピックのように研ぎ澄ました針を、(大魔王の心臓ならぬ)脳髄に刺し、男を「あちら側」に送り込む。
 その時、偶数章の世界では、天吾とふかえりが「お祓い」をする。ふかえりの「空気さなぎ」に向かって、天吾が射精する。

 いや、そういうことを書きたかったわけではない。
 いずれ書くかもしれないけれど、いまここで書いておきたかったことはそういうことではなかった。
 『1Q84』と『ベンヤミンと精神分析』をほぼ同時に読み終えたこと、そしてこの同じ発行日付をもつ二つの書物が、まるで双子のように、一方が一方を照 らし出していたこと。私はまずそのことにびっくりしたのだ。